人間の手の及ばぬ頭上で、魔女たちが四角形の魔力を迸らせている。黒髪の魔女と彼女の手にしていた「本」を繋いでの四角形。
そんな事が出来たのかと驚くと同時に、それでもまだ手が足りていない事に騎士たちの間から絶望の声が漏れ始める。
海は徐々に高くなり、今やピースリッジの美しかった砂浜は全て水の中に消えた。海水の中には黒く蠢く何かがあり、それはまるで八本の足をもつ軟体のデビルフィッシュのような姿だった。
騎士たちは即座に水から上がり、悲鳴を上げながら触手のようなそれから逃げていく。デビルフィッシュはユルグフェラー帝国側ではそれなりに水揚げされる珍魚だが、エグリッド側ではあまり馴染みのないものだったのだろう。
だから、ではないだろうが、ユルグフェラーの騎士たちは海水の中に留まり続けた。水の中に留まり、地上に侵食しようとする触手を剣や槍で薙ぎ払い、水の中から上がろうとしない皇子を守るように陣を作る。
彼は祈るように両手を組みながら、ただただ空を見上げていた。この海がこれ以上増えないようにと己の中にある魔力を放出し続ける魔女たち。ユルグフェラーの騎士たちには彼女たちが何をしているかは分からなかったが、あの陣形にも魔力にも効果が無く、今尚海が増えていっている事だけはわかった。
だが皇子は、彼らに賭けている。
彼らこそがこの状況を打開する存在なのだと信じて、祈りを捧げている。
その姿はユルグフェラーの皇族が騎士たちのために捧げる祈りの姿と、とてもよく似ていた。皇子本人は意識もしていないだろう。そもそも彼は、立場的にそんなものは教えられていないはずだ。
それでも、
それでも、
「"大丈夫"だ……ッ」
それでも、彼が皇家の血から授けられた僅かな力でもって、ただただ祈りを捧げている。もうそれしか、人間には出来る事がないのだ。
水に足をとられたグールたちが討伐されていき、高い所まで登ったグールたちは逆に高所から蹴り落とされて頭部を潰されて動かなくなっていく。段々とグールと騎士たちの声の量は逆転していき、市民たちの勝鬨の声が聞こえるようにもなってきた。
しかし、本当の脅威はここからだと、海の中に居る者はわかっている。
斬っても斬ってもすがりついてこようとする謎の黒い触手状の足と、黒い海を見つめていると段々と頭の中をこねくり回されていくような錯覚。
酷い吐き気を覚えるそれらに、ユルグフェラーの騎士たちは段々と剣を持つ手を重くしていった。最早支えとなるのは、皇子の「大丈夫」という言葉だけ。
その言葉だけを軸にして、騎士たちは必死に剣を振るっていた。
手応えは、無いに等しい。完全には無いわけではないのだろう。だが、彼らが斬っているのは最早ただの海水でしかなくって、デビルフィッシュを斬っているかどうかはわからない。斬るたびに腕が重くなり、頭も重くなっていく。鎧に入り込んでくる海水のせいなのか酷く寒くて、歯の根も合わなくなってきた。
早く、早く皇子を水から出さなければいけない。最早、これから先は人間の領域ではない。
エグリッドの騎士たちもまた海水に足を踏み入れこちらに向かってきているのがわかるが、わかるだけだ。目の前はチカチカとし始めて酷く頭が重い。
頭が、破裂しそうだ。
鼻から、ぬるりとしたものが流れ出していく。
しかし、水の中に沈みそうだった膝はギリギリで維持された。皇子が騎士たちを支えようと必死に腕を伸ばしていて、自分たちがその身に縋っているのだけは、わかった。ユルグフェラーの騎士たちとて決して片手程の数というわけではなかったのに、皇子は顔を真っ赤にして動けない騎士たちを支えていた。
その彼の隣に、背にエグリッドの国章を戴いた若者が駆け込んでくる。若者は――この国の王太子であるカイウスは、皇子の腕から一人二人とユルグフェラーの騎士を預かると必死に海岸まで走る。追いついてきた重鎧の騎士たちも、ユルグフェラーの騎士たちを支えた。
まさか自分たちが、帝国の属国にすらなっていない国の騎士たちに救けられるなんて。
呆然としながら水から引き上げられた騎士たちは、家々から出てきた市民たちに即座に毛布や布で包まれた。まだ市民が居たのか。そんな驚きと共に、視線だけで皇子を探す。
皇子は、安堵した目をしながらも、まだ水の中に居た。
水の中でひとり、あの黒い水を立ちふさがるように日の落ちていく海の向こうに視線を戻した。悲鳴が、出そうになる。
誰か、誰か我々の皇子を、アルヴァ皇子を止めてくれと叫びたくても、ガチガチと噛み合わない歯の根では言葉にならずに市民たちに肩を貸されて引き摺られるのが精々だった。
物語の登場人物にすらなれない一介の騎士に出来る事など、その程度の事しかなかったのだ。
それが酷く、辛い。
「待たせたな! お前ら!!」
高台から、まるで方向のように迸った声に人々が顔を上げたのは、その時だった。
一体何が居るのかと、寒さで震える身体をなんとか御しながら声のした方を見上げる。
そこに居たのは、灰色の狼の背に乗った一団、だった。騎士ではない。自警団でもない。ただ、武器を持って獣を調教する知恵を持つ何者かの一団だ。
先頭に居るのは、褐色肌のバンダナの女。一冊の本を振りかざし、女は下からでもわかる程に豊満な胸を張ってニヤリと笑う。
「エルディさん!!」
騎士たちと共に居た高台の白い髪の貴族が驚いたように声を上げ、それと同時に狼たちが馬であれば気遣う程の高台を軽々と飛び越えて水の中に飛び込んでいく。
海水は、再び騎士たちの足元に迫っていた。皇子の姿は、最早胸元まで水に沈んでいる。
「手を貸すぜ、魔女! アタシだって魔女の子どもだ!」
「魔女の子だと!?」
女は真っ先にザブンと海の中に飛び込むと、水の中に居た皇子を軽々と狼の背に乗せてユルグフェラーの船の上に上がる。残りの狼たちは砂浜で黒い波に食らいついたり、水に飲まれようとしていた市民を背に乗せて高台を駆け上がる。
「魔女の子とはどういう事だ、アレンシール!」
「エルディさん、貴方、まさかなにか……」
「ったく! こんなおもしれぇ事してるならアタシたちにも声かけろや、魔女!」
受け取れ! と、エルディと言う名らしい焼けた肌の女が己のバンダナで包んだ本を、高く高く、黒髪の魔女の所まで投げる。
危なげなくそれを受け取った魔女がその本を開くと、まるで本は意志を持つように光り、その光は形を変えていく。今横に広がっている魔力が縦に一本だけになったようなその姿に、ピースリッジの海岸線に居た人々の目が釘付けになるのは無理もないことだ。
まるで、まるで御伽噺の中に出てくるような金色の美しい杖にも見えるその光に、人々は一瞬夜が払われたような錯覚すらも覚えた。
「この世界にはもう魔女は居ねぇ! でも、魔女が遺したモンは人間にだって根深く残ってるって、アタシの母親は言ってた!」
「魔女の、遺したもの……」
「忘れんな人間ども!! 神様なんて存在が人間を見守るだけになった頃、人間に手を貸したのが誰かって事をなぁ!」
エルディの叫びは最早咆哮のようで、ビリビリと騎士たちの鼓膜にも、市民たちの脳にも響き渡った。
魔女が与えたもの。
バルハムの排除したかったもの。
それは一体、なんだったのか。
それは一体、何故だったのか?
「魔女はかつて、【疫病】【死】【戦争】【飢餓】から人々を守っていた……と伝えられていた! 今や邪教と言われてた、
エルディの次に声を張り上げたのは、驚くことにユルグフェラーの皇子だった。物静かで口数の少なかった少年だったあの子どもが、エルディの後ろで声を張り上げている。
その姿は、ユルグフェラーの騎士たちの震えを止めるには十分な光景だった。
「魔女は豊穣を与えた! 魔女は薬を教えた! 魔女は戦った! 全ては、人間のために!」
「でもその全ては、
皇子の後に続くカイウス王太子の声は静かだが、それでもその場に残った騎士や市民たちの耳に届くには十分な声音だった。
エルディはそれ以上何も言わない。何も言わずに魔女を見上げ、狼のたてがみをぎゅっとにぎっている。
「魔女は足りてない。ルルイェを封印出来ない。でも、【魔女に育てられたもの】ならこの世界には無数に存在しているのですね」
言葉を続けたのは、アレンシールと呼ばれた白髪の貴族だった。彼の背後にいた騎士たちはすでに高台から下の方に集まり始め、水の中から這い上がろうとする触手状の黒い腕を切り払い始める。
誰もが考えていた。今の状況をどうにか出来ないかと。
今の状況を、魔女だけに頼る状況を、打破出来ないものかと。
祈っていた。
自分も何かがしたい、と。
「魔女が集められないなら……【魔女に育てられたもの】をそれ以上の人数集めたら、なんとかならないのか?!」
「まだ終わってない! まだ魔女は居る!」
「何をすればいいの? 何か出来るなら、私だってやるわ!」
「あたしゃ体の大きさだけには自信があるよ!」
「やめてくれぇ、まだ腹に子がいるだろうお前にはっ」
わぁっと、声が上がる。その声には、最早【魔女】を畏れていた人々の姿はない。
ここに居るのは誰もが、彼らの親の親の親や、そのもっと昔まで遡れば誰もが魔女たちによって恩恵を受けた者たちだ。このピースリッジの民ならば、誰だってそうだろう。
「手を繋いで! 出来るだけ水の中に入らずに、海岸線を使って円を作ろう!」
まだ、この水の高さならばまだ、希望はある。
グールを倒すために焚かれた火は希望を灯す火となり、水に入る人々は皆身体を温めてから水に飛び込んだ。女や背の小さな子どもはまだ水が上がってきていない場所で手をつなぎ、深い場所には船を出して人々を運ぶ。
水はまだ、増えている。だが地元の漁師の操船技術は実に巧みで、すぐにぐるりと十以上の船が海上を滑り出した。船には騎士が乗り込み、海中から這い上がる腕を切り落としていく。倒れそうになった騎士は別の騎士が支え、またその騎士が倒れれば別の騎士が剣を抜いた。
皇子は、祈っていた。腹の上に重ねた両手を当てて、狼の背の上で魔女の子に守られながら祈っていた。
"大丈夫"
けれど、彼の祈りは、この場にいる誰の心にも染み込んで、自分たちは決して負けぬのだという確信を、与えていた。