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第115話 最後の魔女は咆哮する

 あぁ、あぁそうか。意識が引き戻されるような、ずっと前を見ていたような。ひとつ瞬きをした瞬間に戻ってきた潮風のベタベタとした感触に、オレは大きく肺を膨らませてから、萎ませた。

 夢と言ってしまうにはあまりにも鮮明で、希望と言ってしまうにはあまりにもハッキリしすぎていた光景。

 ほんの一瞬だ。いや、一瞬にも満たない瞬間だったのかもしれない。

 けれどその一瞬はオレにとっては大きな一瞬で、オレは異本といっしょに抱え込んでいたエリスの日記を空に投げた。


 "大丈夫、わたくしは一人ではないわ"


 その言葉は、オレに大きな理解をもたらし、同時にエリアスティールの仕込んでいた最後の反撃を知らしめた。

 エリスの日記は、オレが何もしていないにも関わらずまるで意思があるように宙に浮かび、オレも、リリも、フロイトも立っていないその場に留まった。

 4人目の魔女。本来であれば存在しないはずのその存在は、最初からオレたちの傍に居たのだ。

 最初から傍に居てオレに……間接的にはリリにも、魔術の基本を教えてくれていたのだ。

 気付かなかった。気付けなかった。でも、不思議ではあった。

 オレには魔術の基本知識なんかはないのに、エリスの日記を読めばすぐにその構造を理解する事が出来たし使う事だって出来た。オレの知らないはずの世界の基本を、エリスの記憶の引き出しを開けるように思い出せばまるで自分の記憶であるかのように思い出す事が出来たのだ。

 それは、この肉体が「エリアスティール」のものだったからじゃない。

 エリアスティールはオレであり、オレがエリアスティールであったからだ。表と裏。ボードゲームの盤の表にも裏にもゲームやイラストが存在しているように、オレもエリスも、どっちもひっくり返せば同じ存在だった。

 オレがただ勝手に、エリアスティールはもうこの世界にはいないのだと思い込んでしまっていたから――エリアスティールはもう居ない存在なのだと、決めつけてしまっていたから、わからなかっただけなんだ。

「エリス様っ、あの本は……」

「あの本こそわたくしたちの最後の切り札よ! アレには――魔女の叡智そのものが詰まっている!」

 あの本エリアスティールこそが、四角形の最後の一片。

 リリもフロイトもそれをどこまで理解したかは分からないが、しかしリリはオレがずっとあの本を抱えていたのを知っている。何か困った時にあの本を開いていたのも、彼女は知っているのだ。

 だからこそ、リリは魔力をエリスの日記とフロイトに向けて走らせた。それを感じたのか、フロイトもエリスの日記とオレに向けて己の魔力を走らせる。

 それはまるでリリの母がリリに遺したリボンのように美しい色で、フロイトに遺したチョーカーのように途切れぬ事のない確かな魔力。オレはソレに対して、両手を広げて全ての片をつなぐ魔力を流した。

 【魔女の首魁エリアスティール】。本の中に意志を残してくれていた彼女は、オレがこの魔力を束ねる事をどう思うだろうか。たった数十日間の魔女でしかないオレが全ての魔力をつなげる事に不満を持っていないとは思いたいけれど、「まだまだですわね」とか言われたらちょっとしょぼくれてしまうかもしれない。

 けれど双子から流された魔力をエリスの日記はしっかりと受け止めて繋いでいる。三人しか居ないはずなのにしっかりと4つの片で結ばれた魔力は、徐々に水面を上げていくルルイェの姿を輝いて映し出す。


「不思議だったんだ。何故ルルイェがピースリッジに出現したのか……でもこれは、ゲームマスターが作ったシナリオの上だったんだな。オレたちは結局、ゲームマスターとクトゥルフの用意したシナリオの上であがいていただけ。その呼び声に招かれて、シナリオを破るためにエリスは戦った……何度も、何度も、新しいエンディングを探して。けど、彼女の知識だけではトゥルーエンドには辿り着けなかった。当然だわ。この世界には、クトゥルフってものがそもそも存在してないんだ。だから、クトゥルフが存在している世界に助けを求める必要があった」


 そのエリスの盤面の裏側が、北条直オレだった。

 もしかしたら、地球上であったならば机の上で語られるだけだったかもしれない物語が、この世界ではこの国全体を巻き込む大きな動乱になってしまったんだ。いや、もしかしたらオレは別の世界に招かれたんじゃなくてゲームの中に飛び込んでしまっただけなのかもしれない。

 小説なんかではよく見る、ゲームの中に閉じ込められてクリアしなければ戻れないストーリー。それが、オレの場合には電子ゲームではなかっただけの事なのかもしれない。

 でも、そんなのはどうでもいい。

 この世界がゲームであろうがなかろうが、誰かが作ったシナリオだろうがそうでなかろうが、オレたちはこの世界で生きている。これからも、生き続ける。

 もしオレがこの世界から元の世界に戻されたとしても、それは絶対的に変わらない事実なんだ。


「オレは……この世界が死ぬ事を認めない!! 別の世界の邪神に潰される事なんか! 認めてやるもんかよ!!」


 エリスの本エリアスティールとオレが守る対角線上にある片から、魔力の柱が迸る。それを見て、リリとフロイトは彼ららしい鮮やかな緑色の魔力を空に解き放った。

 心臓がドキドキする。内側から破裂してしまいそうなくらいに激しく打っている鼓動は、緊張からくるものなのだろうか。円形が作れないから、四角形でどうにかするしかないこの中途半端な結界を維持するためには、元々は40人必要だった魔力を誰かが肩代わりしなきゃいけないという事でもある。

 それなら、オレがやるしかないだろう。

 エリスの本エリアスティールにどこまで魔力が残されているのかはわからない。攻撃や治癒に特化している双子の潜在的な魔力がどのくらいあるのかも、オレはハッキリとはわかっていない。

 リリは攻撃魔術に天賦の才を見せた。彼女の一番小さな攻撃魔術はオレにとっては強力な魔術の一端で、しかしそれはリリが無意識に魔力を節約しているのか、それとも一度に放てる魔力の量が多いのか、それはわからないままだった。

 フロイトは治癒魔術に特化した魔女だった。彼はオレに「治療されている」と気付かせる事無く治療し、痛みを感じさせる隙間すらも与えなかった。一度に沢山の人の傷を癒やす彼は、そのうち千切れた手足を戻すことすら出来るようになるだろう。

 じゃあオレは? オレの魔術は、エリスのものだ。エリスの魔術でエリスの魔力なら、エリスの日記とどれだけ違うのだろうか。

 わからん。ぜんっぜんわからん。そもそも魔力を数値化出来ないこの世界では、その辺の事はなんとなくの感覚で受け取るしかないのだ。

 それにオレにはエリスにはないでっかい得意なものがある。あっちの世界の記憶っていう、この世界おいては物凄いアドバンテージだ。


 "大丈夫だよ"


 そのアドバンテージは、オレにとってはめちゃくちゃ大きな自信になり得た。今まではどうでもいい、向こうの世界の記憶なんかこっちの世界では何の役にも立たないと思っていたけれど、こうなってみればオレとアレンシールしか知らない最強の剣にも思えた。

 海は、相変わらず内側から膨れ上がるように黒さを増している。

 段々と空が暗くなってくるとその黒さも嫌な深さに思えてきて、オレは思わず眉間にシワを寄せていた。

 オレは海が嫌いだ。大嫌いだ。

 子供の頃に溺れたとか、そういう記憶があるとプールでもなんでも嫌いになるとか聞いたからその類かと思っていたけれど、もしもオレにもエリスと同じような過去から巻き戻る力があるのならこの記憶が……ルルイェを封印するための記憶が関係しているのじゃないかと、ようやく思えた。

 オレに前世があるかは知らない。どうでもいい。前世はエリスかもしれないし、前世もボードが同じ盤面だったかもしれない。

 でも、絶対的に言える事がある。

 それは、今は前世とは同じではないっていう事だ。前世……いや、前のループでは居なかった人がここに居る。前のループでは生き延びられなかった人も、もしかしたら居るかもしれない。

 殺されたリリやアレンシールだってここに居るし、そもそも前のループでは、ここまで来れたかどうか。


 "大丈夫"


 でもこれ以上、これ以上はどうすればいいのか分からない。

 頭の中で何度も何度も、今のオレを支えてくれる声を、言葉を繰り返す。それでも、最後の一手が浮かばない。

 ルルイェの浮上は止まらない。それはやはり、円形がないからなんだろう。でもこれ以上、もう流石に魔女の一手はない。

 魔女は、もう居ない。魔法陣は完成しない。

 なら、どうすれば?


「待たせたな! お前ら!!」


 グールたちの声と、騎士たちの怒号と。

 その隙間を縫う声は、ピースリッジを見下ろせる小高い丘からほとばしった。

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