「ねぇ、お兄様。もしもわたくしが死んだら、その時は――決して悲しまないで下さいね」
ハッと我に返った時、オレは目の前で紡がれるそんな悲しい言葉をぼんやりと聞いていた。
囁くような、願うような、泣いてしまいそうな。なんと言えばいいのかわからないその声は、眼の前に居る驚くほど美しい女性の唇から零れ落ちていて。
オレは、彼女の事を知っている。
エリアスティール。
今ではオレの方がその名前で呼ばれるようになってしまった、【魔女の首魁】。彼女は、アレンシールに繰り返し同じことを言った。
やがて自分は死ぬ事。けれど死んだ後にも希望は残る事。死んでも悲しんでほしくない事。悲しむ必要はない事。
悲しむ事はただの停滞でしかない事。
なんでそんなにも「悲しい」という感情を殺させようとするのかオレには分からなかったけれど、エリアスティールのほっそりとした両手を剣の練習のせいで出来たのだろう
沢山、沢山の、エリアスティールの言葉のひとつひとつに、まるで彼女の言葉を噛んで飲み込むようにただ「うん」とだけしか言わなかった。
アレンシールの胸中には一体どれほどの感情が渦巻いていたのか、想像することも出来ない。今でさえ彼はずっと笑みを浮かべていてその内心を悟らせない人なのだ。ただ見ているしか出来ない立場では、その内面にまで突っ込む事は出来ないだろう。
エリアスティールはそれでもいいのか、兄に包みこまれた手に祈るように顔を寄せて、兄の「うん」という言葉をただ聞いていた。
美しい光景だと、思った。互いを信頼し合っている二人には細かい指示も言葉も必要がなくって、けれどその美しい
白銀と黒の真逆の髪色に、こればかりはそっくりな白皙の美貌。もし彼らが恋人同士であったなら、誰もがため息をつくような光景で……しかし次の瞬間には、アレンシールは彼女の前から消えていた。
代わりにあるのは、血溜まりだ。
アレンシールがついさっきまで立っていたはずの場所にまぁるい血溜まりが出来ていて、エリアスティールは血塗れの己の手をぶらんと垂らしてぼんやりとそこに立っている。
「何度も、何度も失敗したわ」
エリアスティールが、「オレ」を見た。彼女の赤い目は宝石のように涙でうるうると光っているが、反面ギラギラと内面から滲み出る何かで輝いているようにも見えて、オレは少しだけ怯んだ。
何度も、何度も。そのうちの何回、アレンシールは死んだのだろう。彼は、何度も地球とこちらの世界を行き来したと言っていた。その数の分だけ、死んでいたのだと。
目を閉じればまるで違う世界に居るというのは、たった一度だけでもそこそこに怖いものだ。自分が転生していると気付くまでの僅かな時間だってパニックと混乱でぐちゃぐちゃになったのに、アレンシールはそれを何度も繰り返したのだから、そりゃあ怖いだろう。
「でも、いい事もあった」
エリアスティールがゆっくりとオレに近付いてきて、まるでオレの中を通るかのようにぬるっと通り過ぎていく。思わず一瞬パタパタと自分の体を確認してしまったオレは、この身体が「エリアスティール」のものであると気がついた。
最初は触れる事も、見る事にも躊躇した女性の身体。ほんの何十日かですっかり馴染むとは思っていなかった。
ゆっくりと振り返れば、さっきオレを通り抜けていったそこに居たのはエリアスティールではなく
正確には、「今のエリアスティール」の姿なのだろうその身体は、本当に平凡な姿だ。短く切った髪は最近床屋に行けていないせいで自分で前髪をカットしたせいでちょっとガタガタだし、身長は平均より少し高いくらいで大した取り柄にもならない。唯一の特徴といえば何故か人よりも手が大きいというところだったけれど、死ぬ時には爪はボロボロになっているし消えないインクのシミが常に手の何処かにあった。
でも、今目の前に居る北条直は、前髪こそガタついていたけれどそれ以外は健康そのものという姿だった。爪だってガタついていないし、ボロボロだった肌はよく見れば粉を吹いても居ないしデキモノもない。目の下に常駐していた隈も消えていて、死ぬ前のオレとはまるで違う、別の世界のオレを見ているようだった。
「わたくしは貴方よ、ナオ。だから、貴方は
大丈夫、わたくしは一人ではないわ。
エリアスティールは言う。自分とエリアスティールは魂こそ同質の存在であったが、存在は同質というわけではない事。
二つの世界に別れた「まったく別の同質の魂」が、本当に助けを求めあった結果ぐるっと入れ替わったのだという事。
彼女に出会う前のオレならば「脳外科に行け」とでも言って終わらせそうなその話は「そうなのか」と納得が出来る話で、つまり彼女が言いたいのは「双子が別の世界で別れ別れになってしまったのだ」という事で完結する話だろう。
年齢が合わない理由は、わからない。多分、オレは一度の人生を生きていたが彼女は何度も何度もやり直したせいで経過時間が過ぎたからとか、そういう事だ。
どうしてか、今は、この空間では、彼女の言う原理も、彼女の言う言葉に嘘がない事もわかる。
この空間がどこなのかだけはわからないけれど、彼女は確かに「居る」のだという事は確かだった。
「これからお友達に会いに行くの。貴方も行くでしょう?」
お友達? と問うと、エリアスティールはにっこりと笑った。「貴方が生きた時間だけ、わたくしにも時間があったのよ」と。
それでようやくオレは、ここがオレが住んでいたアパートではなく綺麗な1LDKの部屋で壁には綺麗なスーツが掛けられている事や、安物なのに使い込みすぎてガムテープで補修していた財布が綺麗な皮財布になっていることにきがついた。
あぁ、オレがエリアスティールとして生きていた時間だけ、彼女も北条直として生きていたのか、と、不思議な気持ちになる。だってオレは死んで、転生したと思っていた。なのにカレンダーを見れば今この場所は「オレの死んだ続き」なんだという事がわかってしまう。
じゃあ元の世界では……エリアスティールも、一度死んで蘇ったって事になるのか? わからない。
エリアスティールが上質なジャケットを着て高そうなスニーカーを履いて外に出ると、オレは動いていないのに周囲の風景が流れていく。それで、気付いた。ここは卒業した大学の近くだ。なんでこんなところに住んでいるのだろう、と思ってなんとなく彼女が掴んだ財布を見ると、透けて見えた財布の中に大学職員の職員カードが入っていて驚いてしまった。
そういえば、元々ゼミの方からもそういう方面の打診を受けていた事があったんだったと、思い出す。でもオレは、あの時のオレはそんな道は考えてもなくって、親の指示した試験をただ何も考えずに受けていて。
「お待たせ」
目の奥がじんわりと熱くなって、鼻の奥がツーンとする。エリアスティールが片手を上げて挨拶をした先には、あの日、あの試験会場で爆睡していたオレを起こしてくれた人が立っていた。アレンシール。この世界の、彼だ。
「すまなかったな。卒業後の進路が心配だって言うから、そういうのは君に聞くのが一番だと思って」
「お前は彼女ちゃんと弟くんには甘いよなぁ」
「可愛いものはしょうがないだろ」
「よろしくおねがいしまーす!」
「し、しますっ」
本当に歩いてすぐの、大学の門の前で、この世界のアレンシールと彼の後ろに隠れていた明るい金茶の髪の男女が緊張の面持ちで頭を下げている。双子なのだろう二人にも見覚えがあって、目の奥から水が溢れそうで困ってしまった。
オレとアレンシールが、そしてバルハムもまた「そう」な段階で考えていた事ではあったのだ。もしかしたら、オレたちだけではないんじゃないか、っていう事は。
ただ確証はないし、そんなのはまるで神様の悪い悪戯――そう、まるでボードゲームをひっくり返して両面で遊ばれているみたいで、それは嫌だなと思ったから言い出せなくて。
でも、そうか。エリアスティール。君は一人じゃなくて、ちゃんと彼らを探していたんだね。
アレンシールにただただ「悲しむな」と言い続けていた彼女が一人ではなかった事を知ってどうにもこうにもぐちゃぐちゃになっているオレの横を、誰かが通り過ぎてエリアスティールの背中をぽんと叩いた。
オレの身長の、肩くらいの背の高さの女の人だった。長い髪を一本にまとめて、でもその髪は急いでまとめたのかちょっとボサボサしていて。バッグに下がっている大きな黒い鳥のチャームが、やけに目立ってる。
「ごめんな。忙しいのに呼んじゃって」
「いいよ。大丈夫」
大丈夫。背中しか見えない女の人の声に、オレは背筋がゾワッとしたような気になって、「あ」と声を出していた。
今まで動かなかった身体が途端に動き出したような気がして、上半身がガクリと揺らぐ。その手には、エリスの日記だろう本の重さが、あった。
「"大丈夫"だよ」
振り返ったその人の目は、こちらからは片目だけしか見えないのに確かに、オレを見ていると、思った。