バルハムの首がとばされると、空に居る【魔女】たちに僅かな安堵がうまれた。これで、これ以上グールが生成される事はない。ジークレインの叱咤が飛び、騎士たちが「今いるグールに集中しろ」と叫び合う。
だが、その中で新たな変化に気付いているのはおそらく船の上に居るユルグフェラーの騎士たちだけだろう。
海水が、増えてきている。
見た目だけで言えばそう変化は見えなさそうだが、さっきまでよりも明らかに海岸を舐める海水の比率が増えていると、船の上で直接波を受けているユルグフェラーの騎士たちは気付いていた。
今まではほとんど海岸に押し込まれて波間と浅瀬の間で殴られているようだった船の動きが、ゆらゆらと衝撃のない穏やかなものになっている。それも、徐々に徐々に、動きの滑らかさは大きくなっていた。
「海水が増えている! 退避しろエグリッド兵!」
「海水が増えているだと……!」
「王子! 海面がっ!」
空からも様子を見守っていた【魔女】が、騎士たちに警告を発した。今のうちに船を降りなければユルグフェラーの騎士たちも波に飲まれてしまうかもしれない。
事は一刻を争う。エグリッドの騎士がユルグフェラーの騎士に退路を示し、船の中に隠れていたユルグフェラーの騎士たちも武器を持てるだけ持って船から飛び降りる。さっきまでは海岸だったはずの場所に飛び降りてバシャリと水が跳ねた時、騎士たちはゾッと顔色を失った。
「ボブくん!」
「わかってる! ユルグフェラーの騎士たちよ、今戦う意志がないのであればエグリッド兵と共にグール討伐に力を貸してくれ!」
「お、皇子殿下! ご無事でしたか皇子殿下っ!」
よくもまぁ無事だとか言えたものだ。ボソリと呟くと同時に、自分が吐き出した言葉をそこで押し留めるために片手で口を閉ざす。ジョンと呼ばれている彼の境遇を思えば、ユルグフェラーの騎士たちの反応には違和感しかなかった。
もしかしたら騎士たちが船に残っていたのは第3皇子を待っていたからなのかもしれない。あの船の大きさに反して乗っていた騎士が少ないのは、勢力がいくつかにわかれていたかもしれない。
かもしれない、という気持ちはいくらでも浮かんでくるが、どれもこれも希望的観測だ。出来れば彼に近付けたくはないけれど、同じ国の皇子と騎士という立場の人間が居るのであれば統率すべきはカイウス王子ではない。
「エリス様! グールの数減ってきてます!」
「……封印の準備をしましょうっ」
ユルグフェラーの主従を見ていた視線を引き剥がして、手にしている本に視線を落とす。本に描かれている図形は2つ。地上の◯と、空中の□だ。
上空から見れば魔法陣に見えるかもしれないが、個々の図形は単純で幼い子供にだって描けるようなものだろう。だが、この2つを3人で作るのにはやはり、無理があるのではないか。
額に汗が滲んで、海風が長い髪を巻き上げてベタベタとした。
地上の円を魔力で描いたとして、上空の□をどうするのか、それが大きな課題だ。
円形には角がない。ということは、円形には恐らく【魔女】が「ここに居なければいけない」というポイントはないはずだ。ただ、魔力を正円形にするためにきっとかつてルルイェを封印した魔女たちは繊細な魔力をコントロールしたのだろうという事は、わかる。
だってさっき、バルハムは40人の魔女がルルイェを封印したと言っていた。それが本当か嘘かは分からないが、つまりは四角形を作るために4人と、正円形をつくるために36人の魔女が必要だったという事。
それは、つまりは……角度が一度動くたびに人間を一人配置して作らなければいけないほどに、そのコントロールは繊細だという事だ。
その正円形を、自分から切り離した魔力で作る。それが出来たら、足りない残りの一角も切り離した魔力で補充する。
出来るか分からないその方法をとるしか出来ないと、額の汗を何度も拭いながら少しずつ少しずつ、魔力を溜め込んでいた。
リリとフロイトは、徐々に高まっていく魔力を感じたのかピタリと口を閉ざすと、各々図形を確認してから慣れない【飛行】で位置につく。
どんなにあがいても三角形にしかならない人数。地上と残りの一角を一人の魔力で補うなんて、到底無理としか言いようがない方法だった。
でもそれしかない。北条直は考える。リリとフロイトを死なせたくない。これ以上ルルイェを浮上させたくない。そんな気持ちでいっぱいいっぱいで、さっきから吐き気と汗が止まらない。
額を拭う手は一本しかないから、何度も汗を拭う時に本を落としそうになってしまってそのたびにヒヤッと心臓が冷たくなるような心地がした。どうしてかとても泣きたくて、焦りと、苛立ちと、躊躇と、困惑と……とにかく色々な感情がぐちゃぐちゃになって、けれどそれを何度か深呼吸をして必死に律しようと、頑張っていた。
胸元をぎゅうと握る手は、もうない。あるのは、おぞましい人皮の表紙を握る一本の腕だけ。
それを自覚するたびに、北条直は随分と遠い場所に着たのだと、そう、思っていた。
「ナオ!!!!」
どうする、どうする。ぐるぐると回る思考の中に、船から飛び降りてくる騎士たちを迎える皇子が張った声が、聞こえた。
「どうすればいい!? 何が出来る!? 一人で考えるな、ちゃんと言え!! 馬鹿っ!」
「お、皇子殿下……!」
「呪いを落とされますよ!!」
「魔女はンな事しねぇ!!」
もう知ってる!! 異国の皇子の声に、エグリッドの騎士たちの目が空に向けられた。
ただそれだけだ。それだけの事だ。
それなのに頭が張れるような、霧が吹き飛ばされたような、そんな感覚がして鼻の奥がツンとした。
これはきっと、北条直の感情。北条直の焦りが、不安が、吹き飛ばされる気配に笑みが浮かんでしまう。簡単なことだ。本当に、簡単なこと。
不安な時には、悲しい時には、辛い時には、「ひとりじゃない」と思えるだけで力は驚くほどに湧いてくるのだという事を、きっと北条直は今まで知らなかったのだ。
「"大丈夫だ"!! 人ならいっぱい居る!!」
大丈夫。北条直が何度も噛みしめるその言葉は、きっと彼がずっとずっと、誰かに言ってほしかった言葉なんだろう。
大丈夫。そばにいる。一人じゃない。
その言葉が心の支えなのは、きっと私も彼も、同じことだったのだ。