"眠りが破られる時には自らの身を以てルルイェの眠りを守るべし"
それはつまり、【魔女】たちの命をかけて陣とやらを作り上げて封印を完成させろと言うことなのだろうか。
その一文を何度も何度も読み返しながら、オレは無意識に無い腕で前髪を掴もうとしていた。実際に動いたのは本を持っていない方の腕の肩のあたりだけで、ほんの少し持ち上がっただけだ。
でもそれが逆に誰にも気付かれなくて良かったのかもしれないと、思う。
これは、アレンシールにも見せてはいけないものかもしれない。アレンシールはこれを読むことが出来るから、もし、もしも本当にこれしか手段がなかった場合にはきっと彼は、彼は、心を痛めることになる。
勿論オレだってコレを受け入れるつもりなんかはない。オレ一人ならいいが、リリもフロイトもこれからが新たな人生なんだ。両親を喪うという悲しい現実はあったが、ようやく兄妹揃って幸せになれるかもしれない、ならないといけないという最後の戦い。
そんな時にこんな、お約束みたいな命を賭した最後の力を使わないといけないなんて、そんな馬鹿な話しあるかよ。
でも、
「……円形と、四角形です、お兄様」
「円形と、四角形?」
「ここに書かれています……魔女の"魔力"をもって円形と四角形の陣を完成させ、重ねて、ルルイェを封印させるのだそうです」
「円形と四角形を作る……?」
カイウス王子も首を傾げて、ジークレインの持ってきた紙にアレンシールが丸と四角を大きく描く。
そうなんだ。命を賭けることも問題だが、丸と四角という陣を作るということだって今の【魔女】には出来ないことだ。
表紙の裏側に書かれている文章をそのまま受け取るなら、おそらくこの陣を完成させるのには【魔女】が陣の重要な場所……つまり、四角形で言うのならば4つある角の部分に立っていなければいけないということなんだろう。
でも、【魔女】は今現在3人しか居ない。
丸を作ろうにも、四角を作ろうにも、その人数が足りていないのだ。
「図形には意味が宿る、と書かれていますので、おそらくは何とかしてこれらを完成させる必要があると思うのですが……」
「人数足りなくないですかぁ?」
「えぇ……わたくしもそう思います。わたくしと、リリさんと、フロイト。三人で最前線に出ても、四角形すら作れない」
円形ならばどうだろう、と思ったが、円形を作るのに三人で作ろうとすると結構歪みが出るのはやってみなくてもわかる。例えば、オレたち三人が魔力を円形に伸ばすことが出来るのであれば何とか作れるだろうが、三人で腕を繋いで円形を作るには相当腕を伸ばして意図して腕をまぁるく曲げないと無理なのだ。
それこそ、人数が要る。
この本が書かれた当初のような時代にはもしかしたら【魔女】が沢山居てそれが可能だったのかもしれないが、今はそんなのは無理だ。
「……なるほど、それが魔女狩りの真の意味か」
カイウス王子もそれに思い至ったのか、腹の底から憎しみを込めたような小さな声が聞こえてきた。
そう。神殿が積極的に行っていた魔女狩りは、この陣を作らせないように行われていた可能性が高いんだ。可能性が高い、というよりも、絶対にそうだ。
その上で、まだ若く治癒という他人を癒す能力に特化したフロイトを【聖者】として自分の肉体の後釜としてとっておいたのも、本当にいやらしい考えだ。
腹が立つ。
やっと解決策が見つかってもそれらがそもそも使えない策だと、先に敵に潰されていた策だとわかってしまうのが、めちゃくちゃに悔しい。
「いや」
「カイウス王太子殿下! 急報です!!」
場がシンと静まり返った時、きょろきょろと周囲を見回していたジョンが何かを言いかけて、しかしその声は突如開かれた扉と駆け込んできた騎士の大声にかき消されてしまった。
「何事だっ」
「怪我を……っ」
「っ、フロイトっ」
「あぁ」
駆け込んできた騎士のボディアーマーは割れ、腹部からおびただしい血液を吹き出していた。後からついてきたメイドたちの手に持っている布にも血がついていて、メイドたちが止めるのを無視して彼が駆け込んできたのだということがわかる。
騎士は部屋の入口で膝をつき、激しく嘔吐する。胃の内容物を吐き出す酸っぱい匂いと同時に、吐き出された血液のドロドロとした生々しさに近づこうとしていたフロイトの足が一瞬だけ止まった。
それでも、パクパクと口を開閉しながら何とか喋ろうとする騎士の横に座って、メイドから受け取った布をすぐに騎士の脇腹に押し当てる。
しかしフロイトの表情は一瞬歪み。それから悔しげに唇が引き絞られた。
「王太子殿下……海が……海が、くろく、そまっております……!」
「なんだと……」
「かいちゅうより、くろいまものが……騎士がおうせんし、いちじてったいさせるも、被害はじんだい……きゅうえんを……」
騎士がまた激しく血を吐き出し、フロイトの白い僧衣の裾が汚れる。
フロイトは弱々しい治癒の光を彼に当て続けているが、パッと見た限りではあれはただの【鎮痛】だ。きっと、彼の触れた部分には致命的な部分が、損傷があって、あの騎士は、もう――
「ピースリッジのたみ、は……高台、に……きし、だけが……」
「……そうか。わかった。今すぐに援軍を送ろう。貴様は少し……休むといい」
「王太子殿下……」
「……よく走った。俺は貴様を……誇りに思う。エグリッドの騎士よ」
ゆっくりと歩み寄ったカイウスの手が、真っ赤に汚れていた騎士の手をぎゅうと握り、騎士の目が驚きに見開かれてから涙を浮かべて嬉しそうに、それはそれは幸せそうに溶けた。
それは、彼が見せた最後の感情。
最期の灯火。
己の吐き出した血の上に伏しそうになった騎士をジークレインが抱き止め、そっとそのまま床に横たえる。両手は胸の上に組まれ、家臣たちの誰が持ってきたのか白いシーツが騎士の上にかけられた。
彼の報告は、何日前のことなのだろうか。ここからピースリッジまでは、どれだけ馬を走らせても数日はかかる。
それでもこの騎士は走ったのだ。脇腹に致命傷を負いながらも、まだ生きているかもしれない仲間をひたすらに駆けて、駆けて、駆け続けて。
そうしてたどり着いた城で、主君に急報を告げて、死んだ。
騎士としての本分を全うした、素晴らしい死だった。
オレは、何をしているんだろう。フロイトのように近付いて支えようともせず、カイウスのようにその気持ちを受け取ろうともせず――この騎士のように、己のやるべき事をやらずに命を惜しんで。
グッと、歯を噛みしめる。
オレが怖気づいたんだ。この運命を、この宿命をフロイトとリリに伝える事に躊躇をしてしまった。彼らの未来を決定づける最悪の結末を知って、怯えてしまったんだ。
自分の出来る事を、やれる事を、やることをやろうともせずに。
「……フロイト、リリさん。少しだけこちらに来てくれるかしら」
「……エリス様?」
「カイウス殿下。わたくしの【転移】で、できる限り多くピースリッジに連れていきます。出来るだけ精鋭を……出来るだけ早く、集めて下さい」
「……よかろう。何人ほど連れていける?」
「……50ほどかと。足りないのは承知の上ですが」
「いや、すでに走らせている騎士もじきに着く頃だ。後詰めとすれば良い」
そう言い切ったカイウス王子は、死んだ騎士に騎士団の鎮魂の意を捧げるとすぐに立ち上がり、ジークレインを見た。
ジークレインは即座に己の周囲の騎士を呼び寄せ、何人かの名前を伝えて走らせる。
50人。オレの魔力が届くギリギリの人数だが、決して足りているとは言えないだろう。でも、少しでも多く、少しでも強い人間をと考えれば今ここに残っている人間ならばそれなりの戦力にはなるはずだ。
後は、オレが【魔女】に真実を告げればいいだけ。
それだけだ。
「ナオ。オレも言っていいんだよな?」
「……ナイフを山程持っていかなければいけなくなるぜ」
「剣も多少は使える。アレンほどじゃないけど」
「……止めても来るんだろうな」
「行くさ。一人で残されるなんて、死ぬよりも嫌だ」
本を持ったまま思考に耽りそうになるオレの腕を掴んで、ジョンは周囲には聞こえないような小さな声でオレを「ナオ」と呼んだ。
ただそれだけの事なのに、酷く苦しい気持ちになる。
"大丈夫"
今まで何度も、ジョンがオレに言ってくれた言葉だ。その言葉を聞くだけで、オレは何故かすごく安心して、納得して、本当に「大丈夫だ」という気持ちになれた。
あぁ、大丈夫だ。大丈夫だとも。
オレだって、みんなが死んでしまうのは、自分が死ぬよりも嫌なんだから。