眠る国王を眺めながら、ヴォルガは退屈すぎて欠伸を噛み殺しながら窮屈な身体を無理やり狭い室内で伸ばそうとした。
オーガは男も女も人間よりも遥かに大柄で、ヴォルガは女の中でも特に大柄の方だ。だからこそ力が強く、武に秀で、里を出る事を許された。
その結果こんな所に居ることになるだなんてのは想像もしていなかったが、想像していたよりも王の寝室ってのは窮屈なんだなと、そんな事を思ってしまう。
人間の居城だ。オーガに合わなくても仕方がないが、フロイトの言葉でなければこんな所で座り込んで護衛だなんて絶対にしていなかったなと、少々うんざりもしてしまう。
人間のためには広い部屋なのだろうが、国王のベッドの他に後でカイウス王子とジョンが使うのだろう簡易ベッドやソファも運び込まれて、狭い室内はさらに狭くなってしまった。人間サイズのものの中でも大きなそれは、ヴォルガにとっては大層邪魔だ。
ジョンもついさっき辺境伯に連れられて奥の部屋に入っていった事だし、少し位置をずらしてもいいものだろうかと、ヴォルガはため息を吐いた。
このエドーラに住んでいる種族は人間だけではない。ヴォルガたちのような亜人種もそうだが、森や山の奥を探せばコボルトやエルフなんかの少人数種族も居るし、町並みをよく見れば混血児だろう者が居るのだって普通の光景だ。
エグリッド王国の中ではそんなものよりも「人」と【魔女】の確執の方が溝が深くってヴォルガも少し注目を浴びるだけで済んでいたが、他の国に行けばもしかしたら亜人種の方が珍しいのかもしれないと思う。
エグリッド王国は亜人種は生きやすく、【魔女】は生き難い国だ。亜人種を同じ「人間」として分類してくれているのに、見た目なんかちっとも変わらない【魔女】を迫害するのはちょっとだけ意味が分からないなと、ヴォルガは思っていた。
「それは私も思っていた。だが、カイウス王子が即位なさればその迫害も是正されるだろう」
「されんのかねぇ」
「カイウス王子は【魔女】の歴史を研究されている方だからな。神殿の悪事が晒され【魔女】の歴史が明かされれば、国民たちも自ずとどちらが正しいかを理解していくことだろう」
同じ部屋で国王の護衛のために待機していたイングリッド夫人は、己の剣の整備をしながら実に頼もしいことを言う。
オーガは基本的には血族を大事にする種族だ。従うのは一族の中の長老や村長、そうでなければ己が主と認めた者か己を打ち負かした者にしか己の剣の先を定めさせることはしない。それがオーガのプライドであり、決して折ってはいけないぶっとい柱だった。
だが、女のオーガはそういった柱を男に委ねることが多いのもまたよくある事だ。別にプライドがないわけではない。ただ、オーガの女は他の種族よりも我が子をひたすらに愛する傾向にあるというだけのことだった。
オーガは男女共に身体が頑丈で、だからこそ子沢山である事が多い。一つの里が元は全て血縁であったりする事だってありふれていて、だからこそ血族の絆が強いのだ。
そんなオーガの女であるヴォルガだが、彼女にはあまりそういう「我が子への愛」というのはよくわからなかった。
兄姉は勝負相手であり、弟妹はライバル。いつだって自分の腕を磨くのが一番で、だからこそ一番に里を出て独り立ちした。己の実力を試したい。子供だの、家族だのよりも自分の腕を、もっと、もっと。
だから彼女は、自分から戦いの機会の多そうな護衛騎士の立場についたのだ。
「私の子らは可愛いぞ! 娘も息子も、目の中に入れても痛くない程だ」
「自分の子供じゃなくても可愛いんか」
「あぁ。領民の子らもみな可愛い。慕ってくれる子らの生きやすい領地にせねばと、夫ともども身の引き締まる思いだ」
「……なのに、こんなトコまで来てんだ」
「当然だろう。我らはエグリッドの国民。国王が揺らげば国が揺らぐ。そうならないようにするのが、騎士の務めだ」
わかんねーなぁ、と言えば、イングリッドは「はは」と大きく口を開けて笑った。
美人なのに、豪快な女だ、と思う。少しだけ、ヴォルガの母にも気風が似ているイングリッドと話すのは存外嫌ではなくって、けれど彼女の言う事はヴォルガには少しだけ難しい。
ヴォルガが神殿に居座っていたのは、フロイトが居たからだ。
護衛騎士になって初めて引き合わされた、人間の子供。出会った当時はヴォルガの腰の高さほどの身長しかなくって、常にビクビクと怯えて、見えない目玉をあちこちにきょろきょろ向けて落ち着きもなかった。
そんな彼が徐々に自分に慣れてくれるのは、確かに可愛かったなとヴォルガは思う。
毎日声を掛けて、毎日触れて、毎日抱き上げた。
最初のうちはびっくりして泣かれてしまう事もあったが、そのうち抱き上げれば安心したように抱き締め返してくるようになって、彼の細っこい腕を首に回された時に感じた胸がぎゅっと押し潰されるような感触はあの子が成長しても忘れられない。
アレが可愛いと言うのなら、きっと自分はあの子に「可愛さ」を感じていたのだろうとは思う。
「ヴォルガ・バルガ。子供はいいぞ。何より、誰かを愛するのはとても良い」
「なんかいきなり惚気始まってっか?」
「ははは! そうだな、我が夫は実に良い男だ。そんな良い男に愛されていると、自分まで良い女のように感じるようになる」
だがな! 相手は男でなくとも良い! 人間でなくとも良い! ただ愛し、愛されると自信に繋がるのだ!
そんな事を大声で話されては、もう一つ奥の部屋に引っ込んでいった侯爵やこの女の夫にも話が聞こえてしまうのではないかと冷や冷やして、それでも「自信につながる」という言葉は悪くないとヴォルガは思った。
結婚しなくて良い。子供を作らなくっても良い。だが、誰かと愛し合うという事は自分が愛される価値のある者なのだと実感出来る手っ取り早い方法なのだ、と。
「そうして誰かを愛せるようになったなら、今度はその愛を誰かに伝えてやるのもいい。それが我が子であるのか、それとも別の誰かであるのかは人それぞれだろうが、私は夫と子供たちを愛している自分を愛しているぞ」
イングリッドの言葉を何故か黙って聞きながら、ヴォルガは己を打ち負かした銀髪の美青年の事を思い返した。
オーガは男女に関わらず力が強い種族だ。身体が大きいのだから当たり前なのだが、アレンシールはそんなヴォルガを翻弄し、彼女の持っている武器を彼の持つ細っこい剣で叩き折ってしまった。
あの時の衝撃ったら。神殿騎士の中で自分に敵う男なんかは居なかったのに、あの男は笑顔を浮かべたまま、髪を乱す事もせずに倒したのだ。
オーガの流儀に則るのならヴォルガはフロイトだけでなくアレンシールにも頭を下げるべきで、そしてアレンシールに愛されたなら確かに自信にもなるだろうなとぼんやりと思った。
しかしやっぱりしっくり来なくって、なんともモヤモヤとした気持ちになってしまう。
「母親ってのは、無条件で子供が可愛いモンなのかな」
「それはどうだろうな。どうにも相性の良くない親子というのが居るのも仕方がない事だろうが……出来ればそうであって欲しいとは思うな」
「じゃあ、フロイトは母親に愛されなかったから捨てられたのか?」
ピクリと、笑顔しか浮かべていなかったイングリッドの表情が動いて、固まる。
ヴォルガは、フロイトがバルハム大司教に引き取られた経緯を「親に捨てられたから」だとか「親が死んだから」だとか、その時々で違う言い訳で聞かされていた。どちらにせよフロイトは両親に愛されず、引き取ったバルハムにも愛されていなかったのだろうと理解もしている。
血族を大事にするオーガには無い感覚だが、フロイトは出会った頃から親を求めて泣くこともなく、ただバルハムにまで捨てられないようにと気を張って生きているのだけは痛いくらいに分かって。
それがとても、こんな状況になってしまえば余計に痛々しい。
次に戦うのは――この国においての悪の親玉とされているのは、フロイトの養父なのだ。
ヴォルガにとってどっちが正しいとか、【魔女】と神殿の確執とか、そんな事は実際にはそこそこどうでもいい話ではある。ただこちら側にフロイトがついて、同じようにこちら側にアレンシールが居るからこそヴォルガは彼らについてきた。
そこに、どちらが正しいかという正義だ悪だの感情は介在してはいない。
それでも……フロイトが誰にも愛されず、ただあの力を利用されているだけだというのは、酷く哀れで堪らない気持ちになった。
『あぁ、あぁそうとも』
そんな思考の端に、聞いたことのない声が引っかかってヴォルガとイングリッドはすぐ側に置いていた武器を反射で握っていた。
狭い室内。ヴォルガの武器は大きく、こんな所で振れば護衛対象に接触する可能性がある。
しかしそんな彼女の懸念は、ベッドの上――そこに起き上がっている「護衛対象」の姿を見てすぐに塗り替えられた。
「国王陛下! お目覚めですかっ!」
イングリッドも驚愕して、手にしていた剣をすぐに下に向ける。いくら護衛といえど国王の前で剣を抜いているのは無礼な行為でしかないのだ。まさか今国王が目覚めるとは思わなかったが、武器を振らなくて良かったのは行幸と言える。
しかし、ゆっくりとこちらを見た国王の表情を見て、近付いてくるイングリッドを見る国王を見て、ヴォルガは背筋に走る嫌な予感に目を剥いていた。
これは、神殿で何度も経験した得体のしれない感覚だ。
ここであってはいけない、衝動。
「イングリッド、近付くな!!」
「あ"っ」
ヴォルガが叫んだのと、イングリッドの身体がビクリと跳ねたのは、ほぼ同時だった。