ノクト侯爵フィリップは、眼の前で神妙な面持ちをしている若者が帝国の皇子であるとはいささか信じられなかった。
ノクト侯爵は過去に数度ユルグフェラー帝国の皇帝を目にしたことがあるが、遠くからでも威圧感のある王者足り得る男であったと覚えている。同じように、彼の兄なのだろう第一皇子も、第二皇子で皇太子だった男も、どちらも覇者としてのオーラを感じさせたものだった。
しかし彼には――何故か愛娘が「ジョン」などと呼んでいる彼には、それを感じることが出来ない。
今まで国王の補佐官として数多の貴族を見てきたノクト侯爵だからこそ感じる違和感は、恐らくは実弟であるジークムンド辺境伯も感じていることだろう。
エリアスティールによれば彼は神殿に連れてこられた際に薬剤を使われていたといい、その影響でまだ体調が悪い可能性もある。しかし、それならそれではっきりと言えばいいのにとも思ってしまうのだ。
どうして、自分の身分よりもずっと下の者に怯えたような表情をするのだろうか。エリアスティールとは、あんなにも普通に会話をしていたというのに。
と思うと、まさかアレンシールが居たというのに特別な関係を築いていたのかと邪推をしてしまう。
何しろエリアスティールの前の婚約者はあのダミアン・レンバスだ。外見も凡庸で性格がネジ曲がっていたあの男との婚約を許したのはこちらの失態だったが、あの男と比べれば確かに眼の前の男は外見はずっと良く見える。
長髪なのと片目なのはマイナスだが、ソレ以外は合格だ。
まぁ、そんなことを言えばエリアスティールを怒らせてしまいそうなのでまさか言えるはずもないが。
「第3皇子殿下」
「は、はいっ」
「……なにか、お飲みになられますかな。冷たいものでも?」
「え、あ、あぁでは……水を」
それにしても、彼の怯え方は少しばかりおかしい。
ノクト侯爵が声を掛けるとパッと顔を上げはするがすぐに視線は逸らされ、自分でもそれは無礼であるとは自覚をしているような表情でソワソワと侯爵を見上げてはまた目を伏せる。
その様子は、まだジークムンド辺境伯が若かった頃にあまりの迫力に子供たちが怯えてしまった時を思い起こさせた。最初は「叔父」という存在に会えるのをワクワクと待っていたジークレインとエリアスティールだったが、いざ本物を前にするとその大きさと威圧感に今にも泣きそうな表情をしてしまって、平気そうな顔をしていたのはアレンシールだけだったのだ。
第3皇子は齢にすればジークレインと同じ頃だろうから流石にジークムンド辺境伯に怯えているということもなかろうに、何故こんな反応をするのだろうか。
「……すみません。変ですよね。失礼な態度を取って申し訳ない」
「あぁ。何か怯えさせてしまったかと気になっていたのですよ」
どうやら自分でも自分の態度のおかしさを自覚していたのか、ややしてメイド長が水のボトルを持ってくると皇子が深く長く、ため息とともにかすれた声を出した。
こんなにカスカスの声をしていて、喉が乾いているのだろうに何故水を手に取らないのだろうか。
「実は、父と結構な確執がありまして……年上の男性がちょっと、怖いというか」
「……!」
「この片目は病気で喪ったものなんですが、散々呪われ子だとか、前世で悪いことをしたからだとか言われて色々あって……眼の前に年上の男性が居ると、無条件で身体が固まってしまうんです」
これこの通りで、と外された眼帯の下は、ただ病で眼球を喪っただけとは思えない有り様だった。
恐らくは火傷。それも、相当な温度のものを押し付けられたかのように落ち窪み引き攣っているその傷跡は未だ生々しく、顔の四分の一を隠す眼帯の意味をようやく理解出来た気がした。
それと同時に、彼の言葉にハッとしたノクト侯爵は眼の前の若者にさりげなく水を飲むように促した。途端、何かから開放されたように水のボトルとグラスを手に取った彼はゴクゴクと水を喉に落としていく。
その勢いは相当喉が乾いていたのだろうと思わせる勢いで、侯爵は帝国にも存在する大きな影の存在に気付いてしまった。
今起きている神殿と王国の問題は、エリアスティールや皇子の親の世代が種を植えたものと言ってもいいだろう。信仰と法律の諍いが、何十年もかけて溝を深めてこの瞬間に芽吹いてしまった問題。
彼はこの国の人間ではないが、彼の境遇だってきっと同じようなもののはず。【蒼い月の男神】はエグリッド王国だけの信仰ではないから、もしかしたら彼も今回の王国の問題のために差し出された生贄なのかもしれない。
儀式的なものではなく、信者たちが水面下に手を取り合うための、異分子を捧げ合う生贄。
もしエリアスティールたちが彼に出会っていなかったら、今ここに座っていることすらなかったかもしれない存在なのではないかと、ノクト侯爵は頭を抱えたくなった。
「……あなたのことを、我々はなんとお呼びすれば良いのだろうか」
「それ、なら……ジョン、と」
「その名でいいのですかな」
「……彼らが、そう呼んでくれているので」
彼ら、というのは、エリアスティールたちのことだろう。エグリッド王国の中でも男性名としてはよくある、平凡でありふれた名前。それでも彼にとっては、本名よりもずっと親しみやすいものなのかもしれない。
ノクト侯爵はあっという間に水のボトルを一本空にしてしまったジョンを見て、もう一本水を持ってくるようにとメイド長に身振りする。
「ではジョン。あなたは、これから先の戦いに参加する意志がおありか?」
「えぇ。エリアスティールには恩があるので……それに」
「それに?」
「……国では、俺はもうとっくに死んでいると思われてると思うんで、今更死ぬのは怖くないというか」
水の入っていたグラスを置いて、ジョンは少しばかり視線を泳がせてそんな事を言った。
その言葉に、話を聞いていたノクト侯爵だけでなく「聞いている」という素振りを見せずに見守っていた辺境伯までもが顔を上げてジョンを見た。
「生まれた頃から、生きていることを望まれたことはありません。でも、俺にも出来ることがあるならきっと、生まれた意味くらいはあったんじゃないかって思えるんですよ」
でも、残念ながら帝国とエグリッドが戦争にならないように俺を人質にするなら、多分役には立てません。
あっけらかんと、あまりにも残酷な事をジョンは言った。
その言葉は、父として、貴族として、国の重鎮としてのノクト侯爵の胸を酷く抉り、先程「娘と旅をしていたポッと出の男」というだけで醜い嫉妬を抱きかけた侯爵に強い後悔を抱かせる。
皇帝には複数の男児がおり、全てを後継者にするわけにはいかない。
病に倒れ片目を喪った末子は、確かに帝国の長にするためには弱く、立っている場所すら盤石ではないだろう。
だが、だからといって「生きている事を望まれたことはない」などと、自分の子供に言わせる親がどこに居るだろうか。ノクト侯爵は、今はここに居ないジークレインとアレンシールの事を思った。
娘は可愛い。当たり前だ。
だが、二人の息子だって侯爵にとっては目に入れても痛くないほどに大事な存在だし、身体の弱いアレンシールがエリアスティールと共に旅立った時には娘よりもアレンシールの事を心配していたくらいで。アレンシールがもう20代も半ばなのだということは分かっている。それでも、子供はいつだって可愛いもの。
ジークムンド辺境伯も同じだ。彼には娘も息子も居て、まだ幼い彼らに辺境伯はデレデレに甘い。男だろうが女だろうがどちらも愛おしくてたまらないと、会うたびに新しい肖像画の写しを見せてくる程の溺愛ぶりだ。
そんなだから、そんな父である二人にとっては皇帝の息子であるジョンから吐き出さえた言葉が信じられなくて、まるで自分が彼を殴りつけてしまったかのような衝撃を後悔を感じさせた。
「大丈夫です。エリアスティールは……彼らは、いざとなったら生命を捨ててでも守ります」
俺に出来ることなんかはほんのちょっとのことだろうとは思うんですけど、出来ることもあるんです。
そう語るジョンの声が、段々と遠くに聞こえてくる。
ノクト侯爵にとって自分の生命を守ることを作戦の中に入れていないジョンの言葉は、彼をエグリッド王国の人質にすることよりも痛く感じることだった。