「ハッ!」
息を呑んだのと、吐き出したのとはどっちが先だっただろう。
オレは陛下の中に流し込もうとしていた魔力を一気に自分の所へ引き戻して、それから何度も何度も、深呼吸をした。
まるで喉元まで水が迫ってきていたかのような感覚に、少しだけクラクラする。
あのまま魔力を流し続けていたならばきっと、きっとオレの意識まで食われていたんじゃないだろうかと思ってしまうような、酷い気配だった。
ほんの少し魔力を流しただけでこの有り様だ。【診断】をしたフロイトはどんだけのカウンターを食らった事だろう。ぐったりとしているフロイトと床でビチビチを跳ねている魚を見比べてちょっと、ゾッとする。
「エリアスティール。大事ないか」
「大丈夫ですわ、カイウス殿下……でも、今視たものは、皆様にお伝えしなくては」
「そうだね。でもその前にお前たちの話も聞きたいな、エリス?」
「……あ、はい」
一体あの空間は何だったのだろうかと真剣に考え込もうとした時、ぬるっと入ってきた父親の声にオレはちょっとビクッとしてしまった。
別に、
ちょっと、陛下と殿下以外の事を見ていなかったせいかなんか凄い、ノクト侯爵が怖い。
笑顔なのに、物凄く笑顔なのに、なんだか凄く背後にオーラを感じる。背後? 違うかもしれない。背景? よくわからないが、にっこり笑顔の背中に何か凄いメラメラしたものを感じるのだ。
なんでそんな表情をしているのだろうとちょっと顔を上げたオレは、そこでまた「あ」と声をあげかけた。
オレたちが出てきた鏡の前で、所在無げに立っているジョン。ノクト侯爵の身体は明らかに彼の方を向いていた。
彼の他にもイングリッド女史だとかヴォルガだとかも居るのにピンポイントでジョンを警戒している顔だ、アレは。
「お父様! ご紹介が遅れましたわ! そちらの方がえーと! 第3皇子殿下です!」
「第3皇子殿下……?」
危うく「やっべ」と声が出そうになった所を飲み込んで、アレンシールに目配せしつつ立ち上がる。
ほんとはもうちょっと、もうちょっと陛下の様子だって見たいし今までの状況だってきちんと話をしたいのだけれど、ここでノクト侯爵の機嫌を損ねたらジョンだけ外に放り出されてしまいそうだ。
こんな、敵の本拠地の一部とも言える場所でジョンだけ外に放り出されるのはまずい。色んな意味で。
「父上、こちらであった事もご説明いたします。一先ず場所を変えましょう」
「そ、そうだな。ここの片付けも必要だしな」
「手配いたします」
オレの焦りに気付いたのか、リリを支えながら状況を見守っていたアレンシールがスッと挙手をして助け舟を出してくれた。
真面目な顔の長男に言われればノクト侯爵もちょっとばかり背中のオーラを隠して、これ幸いとジークレインもサッとこの場から逃げるように去る。
あの次兄、流石だ。
真ん中の子供は要領がいいと言うがジークレインはまさしくそれで、シレッとこれから起こりそうな修羅場を回避していた。
くそ、オレだってこの場から逃げられるものなら逃げたい。ずるい。
ノクト侯爵が、ユルグフェラーの皇子に優しければいいのだけど……
「ジョン。事情はわたくしが話すから……大丈夫よ」
「あ、あぁ……えーと、」
「あちらの方がわたくしとアレン兄様のお父様であるノクト侯爵で、さっき去った騎士がわたくしのすぐ上のジークレイン兄上よ」
眠っているのが陛下で、今立ち上がったのがカイウス殿下。
と、隣の部屋にゾロゾロ移動していくメンバーを紹介しながら「ちょっとした国家の中枢だな」なんて思う。
万一の事があっても困るのでヴォルガと、自分も残ると言ってくれたイングリッド女史にも頭を下げて警護を任せる。
これは、現状彼女たちがこの部屋に居る事を知っているのはここに居るメンバーだけだから突然の襲撃があったとしても切り札になってくれるはず、というアレンシールの提案が通った形だ。
まだ王宮の詳しい様子は知らないが、やっぱ警戒は厳重なのだなと思うとちょっと……いや凄く、気が重くなる。
一先ずフロイトをカイウス殿下が仮眠に使っているというソファとは言えない凄まじいクオリティのソファに横にならせ、リリには彼の近くに座ってもらう。
アレンシールもオレもジョンもアルヴォルも、さっきの戦闘そのままの格好だからそこそこボロボロではあるのだが、一先ずはマントを借りて身体を隠し治療やなにかよりも状況把握を優先する事にした。
国王陛下にかけられているのが呪いとなれば、情報の共有は何よりも優先されるべきもののはずだ。
「改めまして……ユルグフェラー帝国第三皇子、アルヴァ=レイフ・ベネトルトホルン……現在は、アルヴァ・レ・クライゼツェリヒと名乗っています」
何で名前が2個あるんだろうとか、きっと帝国にも込み入った事情があるんだろうなとか、そういう事を考えつつも眼の前に座っている父のオーラがやはり物凄くて、オレはジョンの隣に座ったことをめちゃくちゃ後悔した。
でもアレンシールはリリの隣に座っているし、アルヴォルはいつの間にかまた姿を消しているし、立ち位置的にオレがここに座るしかなかったのだ。
ジョンの眼の前にはノクト侯爵と、その隣に辺境伯が座っているからなんか凄いその気迫がエグい。
別に高校生の娘が彼氏を連れてきたとかそういう状況なわけでもないのに、なんだろうこの空気は。ていうか地位的には帝国の皇子の方が侯爵より上なはずでは!?
「私は、フィリップ・ノクトと申します。爵位は侯爵。この国の宰相をさせていただいております」
「こ、侯爵のお話はエリスからは度々伺って……」
「ほう、
「侯爵令嬢からお話を伺っております!」
やめろ馬鹿今はそういう場合じゃないんだうっかり口を滑らすんじゃない!
あまりにも居た堪れない空気に、オレは頭を抱えたくなってしまった。辺境伯から「実はお前はカイウス王子の婚約者候補だったんだよー」とかいう爆弾発言を聞いたばっかりだというのに、カイウス王子の前でこの状況はキツすぎる。
今はそんな事よりやるべき事があるだろうマジで。
他にいっぱい考える事があるはずだ! ねぇそうでしょう侯爵!!
「父上、こちらの本をご存知ですか」
そこに助け舟を出してくれたのはやはりアレンシールだった。
何度もループをしているだけあって、空気を読むのも首を突っ込むのも最高に上手い。オレ、もう一生アレンシールについていく……って言いたいくらいにはナイスなタイミングだ。
しかし彼の持っている本は物騒この上ないもので、隣に座っていたリリはぎょっとして仰け反るしちょうど部屋に戻ってきたジークレインが持っていた茶器がガシャリと派手な音をたてた。
それもそのはず。アレンシールが持っているのはあの、人間の顔面がそのまま貼り付けられたような、あまりにも不気味すぎるあの本、だからだ。
オレたちが神殿で発見した唯一の戦利品とも言っていいこの本は、よく見れば神殿から出て来た時から表情が変わっているのが分かる。
それが分かるのは地下ドームでこの本を見たオレとアレンシールとジョンだけだが、その表情の変化は露骨かっていうくらいにわかりやすかった。
地下ドームではまるでデスマスクのような穏やかな眠り顔。
しかし今は、まるで何かを呪うかのような、忌々しいものに呪詛を吐き出すような、ぐしゃりと崩れた苦悶の表情を、していた。