「エリス様っ!」
涙を浮かべながらこちらに助けを求めるような表情をしているリリを見て、急いで【転移】から抜ける。
神殿まで飛んできてくれたキルシーのおかげでこの部屋にリリたちが居るのはわかったけれど、流石に王宮に張られた強い結界を向ける事が出来なくって困っていた時、大司教の部屋を漁っていたヴォルガが発見した姿見が突破口になってくれた。
地下ドームで謎の本を手にしたオレたちは、怪しい本をそのまま持っているのがあまりにも嫌でアルヴォルの着ていたマントに包んでヴォルガたちに合流した。
ヴォルガたちは幸いにして何にも遭遇していなかったらしく、そのかわりに合流するまでの時間たっぷりに大司教の部屋をあさりまくってくれたらしく、恐らく大司教がつけていたのだろう記録はごっそりと持っている。
問題はそれをどうやって王宮に持ってくるかというところだったのだが、その部屋にあった姿見にフローラでやったのと同じように【遠見】をかけた結果、それを使えばなんとか王宮にアクセスする事が発覚したのだ。
一体それで何をしていたのか、何をしようとしていたのか。
「反吐が出るぜ」とヴォルガは言ったがまさにその通りで、あからさまに怪しいソレにオレたちはみんな微妙な表情をしたまま鏡の前でその向こうで眠っている国王陛下を見守っていた。
状況が変化したのは、リリとフロイトが部屋に入ってきてからだ。
角度的に二人に何があったのかは視えなかったけれど何か異変が起きたのはフロイトの叫びを聞いても明らかで、オレは即座に【転移】を鏡に付与する事を決めた。
【遠見】が通る姿見だ。多少の無理をすれば多分【転移】だって通る。そう信じて、その段階でオレが使える魔力の全てを姿見と【転移】の注ぎ込んだのだ。
結果は成功だったが、かかった時間が長すぎた。オレは、アレンシールたちが後についてこちらに移動してくるのを確認してから急いでフロイトのところへ走る。
その光景の異様さったらない。
彼の周囲ではまだビチビチと跳ねる魚が居て、明らかに「触手です」といった出で立ちの濃い肌色の蔦のようなものもうぞうぞと床を張っていた。
なんだこれはと、思う余裕はない。
まだ荒い呼吸をつきながら辺境伯の膝に突っ伏しているフロイトの顔を上げて口を開かせれば、彼の口内は恐らく魚の背びれやゼイゴのようなもので傷つけられたのだろう傷で血だらけだった。
でも流石に、これに治癒をかけるのには躊躇をしてしまう。
流石に喉や口の中が痒いのばかりは、いやだろう。誰だって。
「坊っちゃん!」
「大丈夫ですわヴォルガ。でも、喉や口内が傷ついているから横にしてしばらく休ませないと」
「なんだ、何があったんだ! あんたら、ちゃんと守るつったろうが!」
「……すまん。だが、我々にも何があったのかさっぱりでな」
「オレの居る前でこのような事が起こるとは思わなんだ。すまぬ、エリス」
フロイトの口を開けて口内に溜まっていく血を吐かせていたオレは、「すまぬ」と謝られてようやく辺境伯とリリの他にもう一人誰かが居る事に気がついた。
フロイトの悲鳴しか聞こえない状況で、リリだって泣きそうな顔をしていて。
そんな状況で他の誰かに目を向けろっていうのがぶっちゃけオレには無理な話で、だから、ようやく気付いたその人をチラッと見た時にだってその人が誰かと気付くまでにはしばらくかかってしまった。
赤と藍色が混ざったような髪色に、左右で赤と青の色が違う瞳。そんでもって、アレンシールとジョンとはまた種類の違うくそイケメン……
「………………………!! カイウス王太子殿下!!」
エリスの記憶の引き出しが突如バーンと音をたてて開いて、オレは自分でも笑えるくらいの速度で背筋を真っ直ぐに伸ばした。
フロイトの口に手を突っ込んだままだからそれ以上の事は出来なかったが、背中がギシギシ言うくらいには一気に背筋が伸びる。
「はは、随分時間がかかったな」
「も、ももも申し訳御座いません! その、フロ……聖者様がっ!」
「良い。オレとて状況は理解しておる。聖者殿は大事ないか?」
「え、えぇ。大丈夫だと思います……ただ、喉と口の中に切り傷が多いので、血を飲み込ませないようにしながら対処をせねば、と……」
「血を飲ませぬようにだな。ジークレイン、頼めるか」
「かしこまりました」
「お、お兄様っ」
「パパも居るよ、エリス」
「おぉおぉ父様! すみませんっ」
なんだこの勢揃いは。
鏡でこちらを見始めてからも誰が居るとか誰が来たとかは分からなかったから、突然現れた見知った人たちに無意味に手をワタワタさせてしまう。
何しろオレも、アレンシールも、戦闘で怪我しましたーって感じの格好をしているのだから格好がつかない。
特にアレンシールは腕や腹部にめっちゃ怪我をしてて服もボロボロだし……と思ったら、ササッとアルヴォルがマントで前を隠してくれているから、流石だ。
「エリス様……」
「リリさん、貴方は大丈夫ですの?」
「エリス様……うえええん」
「リリさん?」
こちらにやってきたジークレインにフロイトをバトンタッチして運ばれていくのを見ていると、緊張の糸が切れたのかリリの目に大粒の涙が浮かび始め、ついに決壊してしまう。
その表情はあの日、家族を失ったリリを連れて王都を逃れた時を思い出させて、彼女がとても怖い思いをしたのだなという事が嫌でもわかってしまって、飛びついてきた彼女を引き剥がす事なんか出来やしない。
これが「エリス」じゃなくてオレそのものだったら、リリを抱きとめて頭を撫でてやる事なんかは出来やしなかっただろう。可哀想とか、慰めてやらなきゃとか、そんな事を思う前にひたすら緊張して動けなくなってしまっていただろうし。
それに、オレはフロイトに何が起きたのかはまだよくわかっていないけれどこの魚や触手を彼が吐き出したのだろうとか、そういうのは音でわかった。
苦しそうな嗚咽と、何かを吐き出す音。それがこんなにも焦燥感を煽るものだなんて思っていなくって、【転移】を鏡に付与するのにだってなんだかめちゃくちゃ苦労してしまって。
その時にもジョンが「落ち着け」と言ってくれたから落ち着けたのだけど、アレは本当になんなんだろう。
ジョンだから落ち着いたという感じじゃなくて、もっと別の何かを感じるのだけど、本人が何も言わないのであれば突っ込んで聞く必要もないだろう。多分。
きっと、もっと突っ込んで聞くタイミングは別にありそうだし。
「リリさん。もう大丈夫よ」
「い、いきなりフロイトが……! くるしみだして……! わた、わたし、なにもできなくて……っ」
「……この魚も、彼が吐いたの?」
「そ、そうです……! 国王様に触った瞬間に……なんか、もう何がなんだか……」
「陛下に触れてから……」
泣きじゃくるリリの頭を撫でてやりながら、チラリとカイウス王太子を見る。
カイウス王太子は汚れた床を見て神妙な面持ちだったが、オレがじっと見ているのに気付くと黙って頷いてくれた。
国王陛下は、こんなにもわちゃわちゃとやっているというのにピクリとも動かない。きっとフロイトが国王陛下に触れたというのも、まずは陛下の様子を伺うために手をとっただけのことなのだろう。
だというのに何も反応しない陛下には、違和感しかない。
これは確実に、ただの病気やなにかではないとわかってしまう、違和感。
何より大きい違和感は、「フロイトが吐いた」と言う魚とその残り香だ。
普通嘔吐したら胃液だのなんだのの匂いでめちゃくちゃ臭いはずなのに、この場で感じる匂いは海辺のような磯臭さだけ。胃液の匂いなんかは少しもしなくって、しかも吐き出されている魚も明らかに変だ。
いや、そもそも生きている魚を吐いたというのがまず変なのだが、吐き出された魚はフロイトの口よりも大きな魚だし……オレも知ってる魚も居る。
「アジと……それは、深海魚だよね? 節操がないな……よく吐けたね、このサイズを」
「水族館みたいになってますわよね」
「スイゾクカン……ですか?」
「こちらの話よ。大丈夫」
まだエリスの胸に顔を埋めているエリスを優しく撫でながら、オレはまだ口をパクパクとさせている魚を見る。
アレンシールの言う通り、フロイトが吐いた魚の種類は節操なく様々だ。共通点があるとすれば海の魚、という事だけだろう。
海の魚。
また、海だ。
国王陛下の枯れ枝のような手を見つめながら、オレはなんだか凄く嫌な感じがして眉間にぎゅっと皺を刻んだ。