「あぁ……あっ、あああああっ!」
【ソレ】は、深い深い闇だった。
国王に触れ、まずは身体の悪い部分を探るだけの【診断】の魔術を流す。【診断】は、本当にただ身体の悪い所をはっきりと投影するだけの魔術はとても単純で、いつも誰かに触れると無意識に発動してしまうくらいにはフロイトの身体に馴染んでいた魔術だった。
だから国王の手に触れた時にも深く何かを考える事もなく、ただその身の悪い部分を探り出して治療の一助にしようと、そう思っただけの事で。
なのに、国王の手に触れた瞬間にフロイトの意識の中に流れ込んできたのは深い深い海の底。
口を大きく開けば塩辛い水が肺にまで入ってきてしまうのではと錯覚してしまいそうなほどに深く、手を伸ばしても水面までは到底届くような位置ではないそこに、フロイトは居た。
幻覚だ、わかっている。
わかっているのに、凄まじい息苦しさに本能的なパニックが起こる。目の見えないフロイトにとって、頭の中に直接叩き込まれる海底のイメージは、実際に見るよりも凄まじい恐怖を煽る映像だった。
沈んでいく感覚で足元は崩れ去り、口を開いても何かが肺にまで入ってきて呼吸を許さない。
幻覚だ、と己に言い聞かせても、わかっているのだと恐怖を塗り替えようとしても、直接本能に叩きつけられるような恐怖は少しも動いてはくれない。
いつも真っ暗な視界の中に突如現れたように思える海溝は深く、黒く、ただただ広い。
両手で喉をおさえなんとか呼吸をしようとしたフロイトは、しかしその深い海溝の底の底に薄っすらと光る何かを見た。閉ざされているはずの視界。その中に、明るくて広い世界がある。
街だ。
フロイトは、これも本能的に「これは街である」と脳に叩きつけられたような気がして弾かれたように仰け反る。現実ではない。わかっている。だがはっきりと、頭の中に「存在しないはずの都市」の映像が形作られていく。
その世界は、並行であった。
しかし平行ではなかった。
大地はまっすぐであるはずなのに真っ直ぐではなく、幾つもの高い建物が存在しているというのに正しく空に向かってはいない。
その建物すら、フロイトにはよくわからなかった。
ベタベタと何枚も何枚も表面に張り付いた輝く窓に、この国では考えられないような巨大な四角い建物。
それらが海中の中で、酸素すら必要とせずにただただ沈黙を保っている。
どのくらい深くかはわからない。何故明るいのかも、わからない。
ただ分かるのは、この都市を覆い隠している巨大な「何か」が居るという事。フロイトは、叫ぼうにも叫ぶ事が出来ずただただ喉をおさえて喘ぐことしか出来なかった。
何かが、見ている。何が見ているのかはわからない。都市に、巨大な「何か」が居るのはわかるのに、それが何であるのかは明確にはさっぱり分からなかった。
そもそもが自分は今何を見ているのかも、フロイトにはわからない。目で見ていないものは、果たして存在しているものなのだろうか? この都市は、本当に都市なのだろうか?
わからない。頭の中に突然串を刺されて引っ掻き回されているような頭痛と苦しさと気持ち悪さに、自分が床に倒れているという事すらもフロイトには分からなかった。
喉に何かが引っかかって、息が出来なくて、喉をおさえていた手がバタリと床に落ちる。手足が痙攣している事は自分でもわかったけれど、理解出来るのはそこまでだった。
何が起きているのか分からない。
わかるのはただ、己が死に行こうとしているという事だけ。だが何故死ぬのかも、何故自分が死のうとしているのかも、徐々にぼやけていく視界の中ではフロイトには全く理解出来ない事だった。
「フロイト! なんで! ねぇ、起きてっ!」
「誰か! 医者を呼べ!」
突然叫んだかと思えば泡を吹いて倒れた兄弟を抱き上げて、リリは必死にその耳元に声を挙げ続けていた。
何があったのかは分からない。国王の手をとったフロイトがなにかの魔術を国王に流したのまではわかったけれど、リリにわかったのはそこまでだ。
突如頭を抱えて叫びだしたフロイトは、叫ぶのをやめたかと思うと突如嘔吐し喉をかきむしりながら苦しみ出した。まるで何かに首を絞められているかのような苦しみ方に咄嗟に彼に組み付いたのはカイウス王太子であったが、王太子もフロイトに何が起きたのかさっぱり分からずに己の喉の皮膚を破ろうとするフロイトの手を止める事しか出来ない。
やがて喉をかきむしるのをやめたフロイトは嘔吐も出来ずに泡を吹いて痙攣し始めて、これはまずいと思ったときにはもう遅かった。
フロイトの身体は一分間ほど痙攣したかと思うと、医者が到着するよりも前にパッタリと動かなくなり呼吸を止める。
そんな馬鹿なと思ってしまうほど早くに呼吸を止めたフロイトに動揺するリリとカイウスの間に割って入ったのは、ジークムンド辺境伯だった。
カイウスが抱いていたフロイトを即座に横に倒すと、口の中に指を突っ込んで顎が外れてしまいそうなほどにその口を開けさせる。
まだ生きている筋肉の反射だろうか、その手をフロイトの歯が激しく噛み締めたがそれにも構わずに指を口の奥まで突っ込んだ辺境伯は、再びフロイトがビクリと痙攣するのを見ると今度はフロイトの身体を立てた己の膝にみぞおちが当たるようにうつ伏せにさせた。
そして強く二度、三度とフロイトの背を叩く。
途端、フロイトは再び嘔吐を始めてびしゃびしゃと吐瀉物でカーペットを濡らした。
「……なに、これ……」
しかし、異常だったのはその吐瀉物だ。
馬車の中で少しばかり口に入れた菓子でも胃液でもなく、フロイトが吐き出したのは彼の身体のどこにこんなに入っていたのかと思えるほどの水であった。
時折ゲホゲホとむせながら吐くフロイトは、幾度か喉を喘がせ嗚咽しながら水を吐く。
その水の中には、生きている魚が居た。
フロイトの口から出たにしては大きすぎるのではないかと思えるほどの魚は、リリも港町のピースリッジで見たことのある海の魚で、吐き出された途端にビチビチとカーペットの上で跳ねるそれらにリリの気分まで悪くなる。
「……馬鹿な、こんな事が……」
「うっ……」
カイウス王太子も言葉を失い、呆然と嘔吐を続けるフロイトの姿を見守るしか出来ない。
やがてフロイトが喉を喘がせるばかりになった頃、再びジークムンド辺境伯がフロイトの口内にその大きな手を押し込んで指で喉を探る。
大人の男の大きな手で探られたフロイトの喉は明らかに異物があるのが見て取れる嫌な動きをして、しかし程なく辺境伯はズルリとその手をフロイトの口から引きずり出す。
指に、何本もの触手のような肉質で細長いものを絡めながら。
「ゔ……げほっ、げほっ!」
「フ、フロイト……!」
「辺境伯、それは一体……っ」
「さぁ、なんでしょうな……おそらくはこれで全部だとは思いますが」
フロイトの口から引きずり出された長いソレは、彼の上半身ほどの長さのある異様なものだった。引きずり出される間も数度痙攣したフロイトは、口いっぱいの本数があったソレが抜き出されるとようやく呼吸が落ち着いたのか、辺境伯の膝から崩れるようにして床に伏した。
異様、なんてものじゃない。
フロイトが吐き出したのは通常であればありえないほどの量の水と、生きた魚、そして彼の頭頂部から腹部までほどの長さのある触手のような蔦のような生物だ。
こんなのはおかしいと、誰でも分かる。だってさっきまでフロイトは普通にお茶を飲んだり話したりしていたし、そもそも彼の口よりも大きいと思われる魚を生きたまま腹部に収めておける訳が無い。
こんな大きな魚、丸ごと食ったとしてもフロイトの身体のサイズから見れば胃が裂けてしまいそうな大きさだ。リリは魚の種類は分からないが、背びれもギザギザしていてこんなものとてもじゃないが飲み込めるわけがない。
彼の吐いた水もまた、変だ。普通嘔吐したら胃液の匂いだとかがするはずなのに、フロイトの吐いた水からは嫌な匂いがしない。多少の生臭さはあるが、吐き気を誘われるようなあの独特な酸っぱい匂いはまったくしなかった。
何が起きているんだ。
か細い呼吸をしながらぐったりしている兄弟の手をぎゅーと握って、リリは小さく身体を震わせる。
マクシミリアン国王陛下。
病に伏す前は賢王と名高かったこの人がフロイトに何かをしたのだろうか。まさか、国王はまだ眠っている。微動だにしていない。
一体何が、なんで、こんな事になったのか。
リリにはさっぱり、分からなかった。
「あぁ……一足遅かったですわね」
全員が呆然としながら医者を待つだけしか出来なくなった空白の部屋に、不意に聞き慣れた声がしてリリは勢いよく顔を上げた。
ベッドのある位置からずっと壁際にある、大きな鏡。なんでこの部屋にあんなものがあるのだろうと思っていたその鏡に、リリの心を落ち着かせてくれる姿が映り込んでいる。
その姿を見てあぁ、と思わず息を吐き出してから、リリは冷たくなっている兄弟の手をぎゅうと両手で握り込んだ。