「これは実に勇ましいな、ノクト侯爵」
拳を作っては開きを繰り返していたリリは、聞き慣れない声に再び意識を警戒に傾けた。
リリは王都の下町育ちだ。貴族たちよりも圧倒的に人数の多い庶民の出である彼女は、人の声の聞き分けが得意だった。ごちゃごちゃと沢山の人たちがいっぺんに喋っても誰がどこで喋っているのか分かる程には、その精度も高いと言っていいだろう。
勿論声を覚えるのも得意で、だからこそ今まで一度も聞いたことのない声には反射で警戒をしてしまっていた。
しかし声のする方を振り返ってみれば、そこに居たのはさっきまで居た司教とはまるで違う穏やかそうな背の高い青年。
年頃は彼の背後に控えているジークレインと同じくらいだろうか。鎧も身につけておらずラフな格好に見えるが、服に施された刺繍や装飾を見るだにとんでもなくお高い服である事が一目でわかる。
一瞬「官僚だろうか」と思ったリリだったが、しかし彼のその目と髪の色を見て即座に違うと理解した。
夕日のような青みを帯びた赤い髪は、【蒼い月の男神】と【赤い月の女神】の祝福を受けているという王族にのみ発現する珍しい髪色だ。
青みを帯びたブルネットであったりただの赤毛だったりはエグリッド王国では珍しくもない髪色だが、そのどちらもを有しているのは王族の他にない。左右で色の違う色だって、同じように特別なもの。
リリは急いで頭を下げて、フロイトにも頭を下げるように促した。
しかし当の王太子はリリが頭を下げたのを見ると「あぁ」と言ってからすぐにリリに歩み寄って肩を叩くと、穏やかに顔を上げるようにと促す。
「顔を上げよ。君の話はノクト侯爵から聞いている、バートランド嬢」
「は、はひ……」
「王太子殿下?」
「うむ。君のことも聞いているぞ、聖者殿。まぁ詳しい話は奥でしよう。不快な者を見せてすまなかったな」
カイウス・アーデルハイド・エグリッド王太子殿下。エグリッド王国で唯一の王子であり、第一王位継承者。
齢20を越えたばかりだと聞くが、その政治手腕と父王の代行執務をこなす頭脳にこの国の将来も安泰だと、誰もが口を揃える存在だ。
しかしリリは、彼の顔を正面から見たのは初めてだった。
卒業式には顔を出していたと聞くが、彼の存在はほとんど秘匿されていると言っても支障がないくらいには隠されていたからだ。
別に彼が側室の子であるとか、母が恥ずかしい出自であるとか、そういう話ではないはずだ。それなのに彼はアカデミーにも通わずほとんどの時間を執務室で過ごしていると聞く。
公爵家も他の直系男児も居ない状況では唯一の王太子をそうやって守るしかなかったのかなと思うと、なんとも窮屈そうな生活だとリリは思ってしまう。
実際、応じに案内されて渡り廊下から少しばかり歩いてたどり着いた入った部屋はカーテンも閉じ切られていて薄暗くって、しかもカーテンの上からもなんらかの留め具で絶対に窓が開かないようにされているようだった。
これじゃあ監禁じゃないかとびっくりしてしまったが、「奥の部屋に陛下がいらっしゃる」と言われれば「なるほど」と思うしかない。
王の居室には強力な結界が張られているようだと、リリは聞いている。きっと王族の居る部屋というのはみんなこんな感じなのだろうと思って、なんだかとても、言葉に出来ない気持ちで胸がぎゅっとした。
「聖者殿……で、よろしかったな」
「えぇ。そう称号を与えられたが……実際に実感はなくて」
「そのようなものよ。オレとて、未だに王子だとか王太子などと絵空事のように感じる事もある」
その部屋の扉はリリが知る中ではもっとも分厚く、重く、ゴトンと音をたてて閉じられた。
部屋の中に居るのは王太子とジークレイン、ノクト侯爵と辺境伯と、リリとフロイトだ。キルシーは外から見ているが、リリが感知する限りは中までは見る事が出来ていない。ここにリリが居るというのに、キルシーとの繋がりを強制的に絶たれているような感覚がした。
「ノクト侯爵。彼は本当に信用出来るのだな?」
「我が娘のお墨付きです。それに彼は、ここに居るバートランド嬢の双子の兄弟でもあられるとか……それを思えば、神殿の中に居たとしても、大丈夫でしょう」
「ふむ……では、バートランド嬢と二人で我が父を診てもらえるだろうか」
「わ、私もですか?」
「魔女とは得意な魔術が違うものなのだろう? もしも聖者殿になんとも出来ずとも、君がなんとか出来るかもしれぬ」
「お、お詳しいんですね……」
「これでも、もう10年ばかり魔女の研究をし続けておる」
10年、という事は10歳くらいの時から魔女の研究をしているのだろうか。
ちょっとびっくりしてフロイトの方を見ると、フロイトも驚いたのか口をぽかんとあけていた。
「王族が魔女の研究をしているとは……初耳です」
「はは、であろうな。魔女狩りだとか迫害だとか……ここ何十年かでこの国は魔女に愚かな事ばかりしておるようだと知ってからな、気になったのよ。魔女とは何なのか、と」
「殿下……」
「オレはまだ魔女の魔術を見たことはないが、その存在が確かなら確実に国のためになる力よ。なのに何故迫害するのか、何故嫌うのか……オレにはさっぱり分からん。だから、知りたかったのだ」
話しながら、王太子は奥のさらに重厚な扉へとリリとフロイトを導く。
ジークレインはひっそりと入口の扉に控え、辺境伯は窓辺に寄った。ノクト侯爵は後を付いてきているから、きっとこの部屋に入る事を許された人なのだろうと解釈をして、リリは王太子を見上げる。
エグリッド王国の王族というのは神殿よりも遠くって、だからこそ平民にとっては神殿こそが崇める存在であると思っているものが多く居るのだろうとリリは思っている。
だがそれも、もしかして神殿の仕業なのではないだろうかとも、思った。
王族と平民を引き離し、自分たちの信者を増やし、王宮の中に平然と入り込めるような権限を手に入れる。もしかしたら、王子どころかこの国に公爵家も無ければ王族の子供も少ないのは、その影響なのではないかと。
アカデミーで国史を学んでいる時、リリは「何故他国に比べてこの国には王族が少ないのだろう」と常々不思議に思っていた。普通王族とはもっと沢山居るもので、最もたるものは王の直系血族であるはず。
なのに、エグリッド王国には王族がほとんど居ない。親族も、二大侯爵家がギリギリ薄く血を引いているかいないかくらいの遠い遠いものだ。
もしそれが神殿の影響であるのならとんでもない事だ。
何年も……下手すれば何十年も、この国を侵食してきたという事なのだから、恐ろしいどころではない。
カイウス王太子が【魔女の指先】なのだろうペンダントで扉を開くのを見ながら、リリは己を抱きしめるようにしながら、ゾッと背筋を走る悪寒と戦っていた。
「入るがいい。ここにおわすのが、我が父王マクシミリアンだ」
ガチャン、という大きな音の後に、重厚な音をたてて扉が開いていく。
その扉の奥には広い広い空間があって、そこは前室よりもずっと暗く奥にぽつんと置かれている大きなベッドにはおそらく人なのだろうと思える僅かな膨らみが部屋の外からでもギリギリで見て取れた。
呼吸の音も、生命が存在している気配も、リリの所からは感じる事が出来ない。なんとも重くって、見ていて苦しい空間だ。扉を開けた場所から見て真正面の壁にある大きな鏡がいっそ違和感に覚えるほどの冷たく、静かな部屋。
それでもなんとか足を動かしておずおずと前に出ようとすると、先にフロイトがサッサと部屋の中に入ってベッドに近づいていってしまった。
あっ、と思うよりも前に、ベッドの横に跪いてそっと国王の手を取るフロイト。カイウス王太子は止める様子もなく、一人であわあわとしていたリリは慌ててフロイトの横に並んで膝をついた。
フロイトが触れている国王の手は、まるで枯れ枝のようなそれだった。
細長い指は皮膚と骨だけといった感じで、何となく近所の働き者の老婆の手を思い出した。彼女はリリが幼い頃によく焼き立てのパンをくれた人だったが、リリがアカデミーの合格を勝ち取ったという報を聞いたほんの5日後にはやせ細りまるで枯れ枝のようになって、死んだ。
働き者で優しい老婆だったが、思えばリリが子供の時から老婆だったのだからあの段階でもう随分な歳だったはず。
国王陛下の息子であるカイウス王太子がまだ20そこそこという事は国王陛下とてリリの両親やノクト侯爵とはそう年齢も変わらないはずだが、その手はまるでそうは見えない。
全てが吸い取られた後みたいな、そんな手、だった。
「……うっ」
「? フロイト?」
リリがしんみりと国王陛下の手を見つめていると、不意にフロイトの頭がガクリと揺らいで身体が大きく跳ねた。
床についていた膝が分厚いカーペットを越えてゴツンと激しく硬い音をたてて、前に揺らいだ首が今度は後ろに跳ね上がる。
「ぁあ……ああああああああっ!」
「フロイト!」
一際強く身体を跳ねさせて、フロイトの喉の奥から苦痛なのか悲鳴なのか分からぬ声がほとばしる。
目が見えていれば見開いているのだろうその引きつった表情と叫びに、リリは咄嗟に立ち上がって国王の方を睨みつけていた。