ずんっ、と太い腕が指代わりの女の細腕をへし折りながら床に押し付けられ、這いずりながらジョンに向かって別の腕を伸ばす。
ジョンは意識がないのか少しも動く気配がなくて、口の中の布のせいか呼吸が少しばかり荒い。
流石に口の中に布を突っ込まれた事はないが、歯医者の治療で口の中に手を突っ込まれただけでも息苦しく感じるのだから口の中を抑えられればその圧迫感は相当のものだろう。
早く解放しなければいけない。そうは思うが、あの異形がジョンの近くに居るせいで身動きがとれなかった。
「アレが【魔女】……? 本当かい、エリス」
「えぇ。それぞれ別の魔力が固まっている気配を感じますわ。お兄様は、今までアレに遭遇した事は?」
「……ないね。あんな、おぞましいもの」
おぞましい。
その言葉は【魔女】の異形を示すのにこれ以上ないほどにしっくりくる言葉だった。
全裸のままツギハギにされたのか一瞬ぎょっとしてしまうが、彼女たちが服を着ていない事にドキドキしてしまうような余裕なんかは勿論ない。
あの大きさの肉塊が動けば元は柔らかかったのだろう胸も尻も、ただ押し潰されて血を吹き出すばかりなのだ。
元々移動は想定していない作りなのか、それとも移動を必要としないと思っていたのか。それはわからないが、動くたびにあちこちから血や膿を吹き出し床にねっとりした液体を撒き散らす【魔女】たちの姿は、静止するに堪えない。
「アルヴォル。あの異形に隙があれば皇子を救出出来るかしら」
『……勿論です』
「お兄様……アレは死体です。生命反応は、ありません」
「だろうね」
手の中でくるりと剣を回転させてから、アレンシールが【魔女】に切っ先を向ける。
あの【魔女】たちは、恐らくは今まで魔女狩りで殺されたか拉致されたか――とにかくそういう経緯でここまで連れてこられたのだろうと何となく推測が出来た。
オレがこの世界に来たばかりの頃に見ていた夢の中ではエリスは火あぶりにされていたように思うのだけれど、実際あの瞬間に彼女が死んでいたかはわからないから確実ではないのだと思う。
何より夢の中ではリリはまだ死んでいなかったから、脅威であるエリスを殺してからリリをこうして異形の材料に使っていた、という可能性も考えられる話だ。
反吐が出る。
神殿が何をしたいのかはわからないが、ここまでして【魔女】たちの魔力を利用したかったのだろうか。
ここにイングリッド夫人たちがいなくて良かったと、心から思う。彼女たちは心の決まりきった強い女性であると理解はしているものの、同性のこんな姿を見せるのは流石にはばかられた。
ビタン、と大きく音をさせて【魔女】が動く。
【魔女の異形】は、ゆっくりゆっくり床を血塗れにしながら動いてジョンに向けて近付いていく。
実際には彼を狙っているのか、それともただこちらに向かってこようとしているのかはわからない。だがどちらにせよ、明らかに「良くない」存在を今のジョンに近付けるのはリスクしか見えなかった。
果たして、同じように考えていたのだろうアレンシールが血塗れの床を飛び越えて一足跳びに【魔女の異形】との距離を詰める。
振るわれた剣は一瞬天井からの光を反射させて輝き、恐ろしい切れ味で【異形の魔女】の中央に一筋の切れ目を入れた。
だが当然そこは「大きな人間の腹部」ではなく、「ツギハギにされた巨大な塊の中央」だ。繋ぎ合わされていた【魔女】の死体が切り開かれて幾人かの身体が床に落ちていく。
血液は、思ったよりは出ない。
なんでかは、考えたくなかった。
大きく切り開かれた「切れ目」。ツギハギにされているとはいえそこだって人間の肉体なのだから当然溢れ出ていてもおかしくないモノもまた、床には落ちなかった。
代わりに彼女たちの内側にあったのは、空洞だ。
内臓のすべてを奪われたのか、それともただこちらから視認する事が出来ないだけなのか、真っ暗な胸部が、腹部が、頭が、こちらにぽっかりと暗闇を向けている。
その空洞がコチラをギョロリと見たような気がしたのは、果たして幻だったのだろうか。
「お兄様下がって下さい!」
「!」
ギャアアアアアアアアアッ
警戒の声を上げるのと同時に、ジョンとアレンシールの前方に【障壁】を展開する。
が、突如上がった【魔女の異形】の放ったものは魔術でもなんでも無く凄まじい音の悲鳴で、アレンシールが剣を引いて耳を押さえ、ジョンが苦しげに身体を丸めた。
オレは少し距離があったお陰で多少目眩がする程度で済んだが、すぐ近くに居たアレンシールの膝がガクリと僅かに折れる。
しくじった。魔術ではないただ純粋な超音波は、流石に【障壁】では防ぐ事は出来ない。
だがただ大きいだけの音というのは、「ただ大きい」というそれだけでも思ったよりも威力を発揮するものだ。一瞬だけだが目眩を起こしたオレの視線は僅かにブレて数回の瞬きを必要とし、耳をふさいだ事でアレンシールの両手は【魔女の異形】から離れた。
唯一、アルヴォルだけが動いてジョンを抱えて姿を消す。それでも遠くまでは移動出来なかったのか、すぐにオレより僅かに後方に姿を表していた。
真っ黒なマントを纏う姿ははっきりとは見えないが、それでも彼が姿を消している余裕がないくらいにはダメージを受けたという事だろう。ジョンを回収出来た事だけでも、彼の咄嗟の判断を褒めるべきだ。
「くそっ、耳を……!」
「お兄様っ!」
何回か頭を振ったアレンシールが、僅かに【魔女の異形】から距離を取りながらも頬を流れる血を拭う。
耳からだ。きっと鼓膜を損傷している。
これではきっとオレの声は彼には届かないだろうし、もう一度同じ攻撃を受けたなら本格的に耳を駄目にしてしまうかもしれない。
オレは少しだけ悩んでから、扇子を【魔女の異形】に向けて【消音】の魔術をかけた。
これでデカい音は外には溢れ出ないはずだが、あの異形に魔術をかけ続けている限りオレの魔術は常に一個封じられているという事になる。
ジョンやアレンシールを治療している余裕はない。
彼らに治療を施したければ、一刻も早くあの【魔女の異形】を倒してフロイトに合流するのが手っ取り早い手段だ。
「お嬢様。こちらをっ」
「! 感謝しますっ」
扇子を向けた事でオレが魔術を使った事に気付いたのか、アルヴォルが腰に佩いていた剣を鞘ごとオレに投げて寄越した。
流石にアレンシールが自分の側近に選んだだけあって判断が早い。
思ったよりも軽めの剣をパッと受け取って、オレは即座に鞘を抜き捨てた。女性のエリスの腕でも十分に持てる細さと長さの剣は、アレンシールのものより小ぶりだが両刃でよく磨かれているのか同じくらいの輝きで光を反射する。
狭い範囲で二人が剣を振るというのは無謀と言うしかないだろうが、位置さえ注意すれば十分に戦えそうな長さだ。
オレは剣を構えてジリジリと距離を詰めながら暴れる【魔女の異形】を睨みつける。
ジタバタと暴れている異形は【消音】のお陰で少しも音がしなくなったものの、最初のうちに音を聞いてしまっていたせいか、暴れるたびにひしゃげる腕や足の音が耳の奥に残っているようで酷く不快だった。
どこを攻撃すればいいのか。
剣を持ちながら思案するオレの視界の中で、アレンシールが再び剣を振るう。しかしやはりどこを攻撃すればいいのか定まっていないようで、振り上げられようとしたツギハギの腕の先端――指を模した数本の腕を薙ぎ払うに留まっていた。
普通の人体であれば心臓があるし、脳もある。
しかし女の肉体をつなぎ合わせて作られたコイツには心臓もなければ頭部もない。つまりは、人間における弱点のウチの最も狙いやすい部分がどこにも、ないのだ。
アレンシールの剣は的確に【魔女の異形】の攻撃を受け流し、ツギハギされた女性の隙間を縫って何人かをバラバラと地面に落としていく。
しかし地面に落ちた【魔女】たちもまるで蜘蛛の子のように関節を無視した動きで起き上がろうとするし、一人の肉体が欠けただけではこの巨大な塊は少しも堪えた様子がない。
つまり――弱点がないのなら、一撃で消し飛ばせばいい。