【転移】を発動させたのは、まぁ一言で言えばトイレだ。
この世界のトイレは当たり前だが男女別に作られていて、どういう原理かは分からないがきちんと水洗式になっている。それでも詰まったり止まったりが日常茶飯事なのでメイドの仕事の中には毎日定期的にトイレに水を流す仕事が入っているというし、庶民のトイレの大半は未だにぼっとん便所みたいな感じのところもある。
勿論シャワーがない所だってあるが、王都はその変はしっかりとしていたので未だにオレは遭遇した事がない。でも、最初に立ち寄った村くらいの規模だったらトイレは未だに水洗じゃないだろうし、シャワーだってないだろう。
そう思うと、他のファンタジー小説とかのトイレ事情がちょっと気になってしまうが今はそんな事を気にしている場合じゃないし調べようもない。
とりあえず、大神殿はトイレ部分と女性と従者が化粧直しをする部屋は別なのでそこは安心して欲しいなと思う。まぁ男性のトイレにはそういうスペースはないので、アレンシールは想像つかないかもしれないけれど。
【転移】先を決めてからは、オレは躊躇しなかった。アルヴォルがどこに居るのかは知らないが、一先ずは手を繋いだまま裏路地に入って、そこから【転移】をする。裏路地に入ったのは一応だ、一応。
勿論【転移】はこの距離ではそう難しい事ではなく、一瞬歪んだ世界はすぐに別の世界に塗り替えられた。
元の世界では女子トイレに化粧室がついている事はあまりなかった、と、思う。むしろトイレイコールで化粧室で、化粧を直すためのドレッサーみたいなスペースがある方が珍しかったんじゃないだろうか。
でもこの世界では正しく化粧をするためだけのスペースがあり、オレが【転移】したのがそのスペースであった事にアレンシールがちょっとだけ安堵したような表情になる。
「あちらではあまり見ない部屋だね」
「まぁ、そうですわね。わたくしは向こうのは知らないのですが」
「あぁ……まぁ、君はそうか」
向こうの世界でのオレが男である事を知っているアレンシールは頷いて、ヴォルガとイングリッド夫人はこういうスペースに慣れているのか不思議そうな顔をしている。
女性用の化粧スペース。いわゆるパウダールームだが、この部屋は確か大神殿の一階の奥まった場所にあったはずだ。男性用のトイレはもうちょっと手前にあったので、その間に女性用トイレも別にあってもおかしくはない。
でも流石にエリスの記憶をそこまでひっくり返すわけにはいかないので、エリスが覚えているこの大神殿のフロアマップみたいなものだけをなんとか思い出そうとした。
「……大司教ってどこにいらっしゃるのでしょう? そもそも居るのかもわかりませんが……」
「探知は出来ないのかい?」
「……なんだかこの大神殿のあちこちに魔力を感じますの。そのおかげで多分、探知は狂ってしまうと思いますわ」
でも、と言葉を止めて、オレはパウダールームをウロウロ歩きながら大神殿の中にある魔力を探ってみる。
フローラの大神殿では感じなかった感覚だ。この大神殿にはあちこちに魔力の発生源みたいなものがあって、多分この建物を別次元に隔離しようとしてもそれに阻まれただろう。
多分コレは、セレニアが言っていた神聖石だとか魔石だとかいうアレなんじゃないだろうかと、複雑な気持ちになる。
一体どうやって作っているものかは知らないが、なんだかあまりイイものなようには感じなかった。
そもそも、【魔女】の力の源である魔力のこもった石を、神の力が宿っているとかなんとか言って「神聖石」とか言うの、ズルだろ。
「……地下に、大きな魔力の流れを感じますわ」
「地下か……私も一緒に行こう」
「では私は上を目指そう。かける時間は少しでも短い方が良い」
「んじゃーオレは騎士様とだな!」
サクサクと分担が進んでいくのは、全員が手慣れているからだろうか。
学生時代にもあまりそういう経験をしたことがないオレはちょっと驚いてしまうが、あまり驚いてもいられないと周囲を見回した。
パウダールームにあるのは香水の染み込んだ磨かれた石と、鏡と、カーテンと、ソファと椅子くらいのもの。だがこの、エリスの子供の頃は不思議で仕方がなかったというお香変わりの石があれば問題ないと、石を4つばかり失敬して握り込む。
即席の【
吹き込む呪文には悩んだが、最終的に【筋力強化】を入れておく事にした。全身の筋肉を強化するこの魔術は重ねがけすると明日は辛いかもしれないが、まぁ慣れてそうだし大丈夫だろうと判断する、ことにする。
防御系の呪文とも悩んだが、回避してくれという意味を込めて、だ。筋力が強化されていれば今までより避けることはいくらか簡単になる、はず。
自分の肉体ではないからどうにも分からないが、オレは小石を三人にひとつずつ渡した。1個は、自分のだ。咄嗟に2つ以上の呪文が必要になるかもしれない事を考えると、自分用にもあった方がいいかなと思って、ポケットに入れる。
将来的にはもっと魔術を一気に使えるようになりたいなが、今はやっぱり集中力的にも2つが限度だ。
「お守りですわ。筋力を強化する魔術をこめてあります」
「マジかよ。こんな簡単にそんなモン作れんのか」
「……お前は無理をしていないな、エリアスティール?」
「勿論ですわ。無理のしどころはこの先ですもの」
そう、無理はこの先にとっておくのだ。
バルハム大司教とジョン。どちらがどっちに居るのかは知らないが、どちらにせよ戦闘が起こるのは間違いがないから。
オレは少しばかり不安に思いつつも無言で三人を見渡してしまい、やっぱりオレの気持ちを察したのだろうアレンシールがオレの背後に回って頭を撫でてくれた。
そのままどこからか取り出したリボンで髪を括ってくれたので、何となく気合が入った、ような気がする。
心配事は尽きない。王城組が心配な気持ちだって勿論ある。
だがそんな事に意識を持っていかれて大事な事が出来なければその心配だって何の意味もないものになってしまうのだ。オレは一つ頷くと、全員も首肯を返してくれる。
「参りましょう。世直しですわ」
リリやフロイトもそうだが、みんな当たり前のようにオレの言う事を聞いてくれて、オレの指示に従ってくれる事に少しだけ面映ゆい気持ちになりながら、行動の開始を宣言する。
本来であれば目上であるはずのイングリッド夫人も、フロイトの護衛であるはずのヴォルガも、無言で笑って即座に行動を開始してくれた。
オレが【魔女】だからなんだろうか。今更余計なことを考えなくてもいいのにと自分でも思うが、彼らの気持ちが照れ臭くってあえて悪い方に受け取ろうと考えてしまう。
【魔女】だからでもなんでもいい。ただ誰かを助けるためにみんなが協力出来るのはいいことだ。
自分で自分にそう言い聞かせて、静かに控えてくれていたアレンシールを見る。
「行こうか」
「はいっ」
それでも、自分の背中を押してくれる人というのはとても大事なものだ。
オレのやりたい事を否定せず受け入れて、時に補助してくれたり手助けをしてくれるアレンシールの存在は本当に大きいと思う。
今だってアレンシールは剣に手を置きながらオレを背後に回して、警戒しながら先に立ってくれている。エリスがここに来たことがあるのならアレンシールだってここの構造を知っていてもおかしくはないが、頼もしいことこの上なかった。
でも、なんで彼がループをしているんだろう。
ノクト家の中で2人も転生者が居るっていうのは、やっぱり確率としておかしいんじゃないだろうか。今考えている事ではないので思考を中断する事に決めるけれど、これはいつかきちんとアレンシールと話をしなければいけない話だとは、思う。
理由がわかりさえすれば、何度もループしているという彼のループを途切れさせる事だって、いつかは出来るかもしれないんだ。
やっぱり未来に進めないっていうのは、誰だって辛いとは、思うし。
何度も何度も繰り返した結果前に進めず強くなっていったのだろうアレンシールの事を考えるとなんだか胸がぎゅっとする気がして、オレは胸元をぎゅっと握りしめた。