ただただ、夢中だった。
ダミアンの身体は再生を繰り返して、少しでも傷をつければその傷から協力な酸を吐き出してオレの足を灼いていく。
どういうわけか足元は少しも痛くなかったけれど、どんどん溶かされていくフローリンの刺繍が凄く、凄く嫌だった。
ダミアンは生臭くって、身体は触手の分泌液のようなものでぬるぬるとしていて、リリの【火】もそのぬるぬるのせいで威力が落ちているのかあまり効いているようには見えなかった。
何かが、何かがおかしい。
それは分かったけれど、それを考えている余裕はなかった。
考えるために少しでも足を止めればダミアンの酸の雨と斬っても焼いても再生を繰り返す腕が攻撃を繰り出してきたし、足元がズルズルとして攻撃を回避するのも受け流すのも手一杯だった。
最初に持っていた剣は、あっという間に酸で溶かされてしまってすぐに投げ捨てた。
【物質強化】をかけていても結局は鉄鋼の剣だったから、酸なんかかけられたらひとたまりもなかったのだ。
だからオレは、床に落ちている沢山の武器を手にとってそのたびに剣に薄い障壁を張ってダミアンを斬った。
障壁を張る事で剣の威力は落ちてしまうけれど、それしか方法がなかった。
もう少し考える余裕があったならどうだっただろう?
今ここで戦っているのがオレではなくてエリスだったなら?
そうは思うが、そんな「もしも」を考えている余裕すらなくって、オレは指先を灼きながら酸でどんどん溶かされていく神殿騎士たちの死体から武器を奪って使った。
神殿騎士たちの身体はもう元の有り様を残していなかった。
鎧が溶けているだけならばまだいいけれど顔面や少しでも皮膚が出ている所に酸を受けた者は悲惨なもので、酸によって首が溶かされダミアンが動く振動で頭がグラグラ揺れて最終的に首が千切れてしまう者も居たし、顔面のど真ん中に大きな穴があいて灼かれた傷口からじわじわと脳症や体液がにじみ出てきて鎧がドロドロになっている者も居た。
ほんの少しでも油断をすれば自分もあんな風になる。
そんな確信が、余計に考える余裕を奪っていたのだろうと思う。
「アイツだわ……キルシー! アイツが邪魔をしているの!」
だから、リリの声はある種の光明だった。
いつの間にか後ろを見ながらセレニアを睨みつけているリリは、セレニアが「邪魔」だと判断をして叫んでいた。
あぁそうかもしれない。いやそうなのだろうか?
わからない。そうかもしれないし、違うのかも。
わからない。
頭が働かない。
酸と、血液と、体液と、汚物と、溶けた肉体と。
汚い色の液体で足を滑らせながら剣を振っていたオレには、もうどうすればいいのか、何が正解なのか分からなくなっている。
だから、だから、リリが「そうだ」と言うのならば「そうなのだろう」と思った。
リリは確信したのだ。だから彼女は間違っていない。
やりたいことを、してもらわなければ。
だから止めずに見守って、けれどセレニアがアッサリとリリの放った火の球を回避すして、なんだか凄く腹がたった。
リリに対して怒っているわけではない。こちらはこんなに必死なのにあの女が、セレニアが、ニヤニヤしながらこちらを見下しているような感じがして凄く嫌だったんだ。
なんだか、弟を思い出す。
自分の企みが上手く行ってオレを家から追い出した時の、あのニヤニヤとした弟の顔を、思い出す。
「もう一度よ!」
今のオレは立っているのもギリギリなのに、オレと同じように扇子を持って弟みたいなニヤニヤ顔をしながら優雅にふわふわさせているのが凄く凄く、ムカついた。
なんだよアレ、オレの真似か? エリスの真似か?
似合ってないんだよ、厚化粧女。
イライラして、火の球を外してしょんぼりしているリリにもう一度、声を発する。
「一度が駄目なら、もう一度!」
「はいっ!!」
今度こそ正面からぶっつけて、痛い目を見せてやってくれ。なんなら、扇子を焼き飛ばしてしまってもいいぞ。
そんな事を思いながら、ダミアンを睨みつけつつリリを叱咤激励する。
冷静に考えてみると当たり前の事を当たり前に叫んでいるだけだったのでちょっと恥ずかしいけれど、でも、リリがハッとしてもう一度構えたから有難かった。
けれど彼女がチャージしている間にもダミアンは容赦なく襲いかかってきて、オレはリリに酸が飛ばないように剣の周囲に張っていた【障壁】を広く展開し直した。
自分には、書けない。【模倣】を解いたらきっとオレはもう動けなくなってしまうから、優先すべきはリリの方だった。
ダミアンはもう元の人間の姿はしていなくって、巨大になった身体の表面は黄色っぽい触手がうぞうぞと蠢いていて、なんだかテントウムシとかの卵を思い出した。昔、まだ弟と仲が良かった頃に葉っぱの裏側で偶然見つけて一緒に悲鳴をあげたのを、思い出す。
もう戻れない過去だ。
時間的にも、場所的にも、二度と戻れない。
戻りたくもないけど、なんで今日はそんな昔のことばっかり思い出すんだろうか。
なんだかそれにもムカついて、オレはそのテントウムシの卵みたいになっている所を狙って床から拾い上げた槍を投擲した。
防がれる。当然だ。わかっていて投げた。ただちょっと、ムカついたからだ。
だってもう、あの怪物の一部なってしまったダミアンの顔は元にあった位置から凄くネジ曲がった位置にあって、捻じ曲がった顔が肩辺りにへばりついているようだった。
その顔も、自分で放った酸に灼かれてあちこちが焼け爛れて、そのたびに痛い痛いと泣いている。その声はエリスの記憶の中にあるいつものダミアンの声で、それがさらに腹が立った。
ダミアンの顔はこの怪物が肉体を再生させるたびに捻じ曲がっていく。皮膚が引っ張られているのか、上顎と下顎のラインで捻られてでもいるかのようで、酷く不自然な形になっていて。
オレが斬った箇所を触手が覆う時にまた引っ張られたその顔面の火傷から血が吹き出したのが、凄く嫌だった。
早く終わらせてやりたい、なんて、そんな風に思ってしまう程に、その姿は無惨で、痛そうで――
なぁ、ダミアン。お前は本当に、そんな風になってまで玉座が欲しかったのか? エリスの夫では満足が出来なかったのか?
聞きたいけれど、そんな余裕はない。
酸を避けながら、ズルズルになった足の裏で必死に踏ん張ってリリに酸が行かないようにするだけで精一杯で。
でもその踏ん張りは、突然のパァンという何かが弾けたような音とともに終わりを迎えた。
何事かと振り返った時にはもう、頭が半分無くなったセレニアの身体が2階席から落ちる所で、ドチャッと生々しい音をたてて頭から落ちてくるその姿まで普通に見守ってしまった。
落ちる直前に、なんでかセレニアの腰にしがみついていたフロイトがセレニアを支えようとしていたみたいだけど支えきれなかったのか手を離してしまって、今は柵にしがみつきながら呆然とセレニアの身体を見つめている。
なんだよ、思ったより呆気ないな。
ちょっと呆然としながら落ちていったセレニアの身体を見つめていたオレは、しかしその死体を見ていると段々と頭がクリアになっていくのを感じて思わず額に手を当てていた。
さっきまでの「わからない」という感覚が、消えている。
頭の中が重苦しくて痛くって、凄く怠かったはずなのに、セレニアの死体を見つめているというそれだけでスッキリしていくのだから、オレはちょっとばかり自分の性癖というかなんかそういうものが心配になってしまった程だ。
でも、理解出来た。
さっきまでの茫洋とした心地も、リリが「アイツが邪魔をしている」と断言した理由も、わかった。
セレニアが何かをしていたのだ。その「何か」は分からないけれど、少なくともダミアンが有利になるように立ち回っていたという事なのだろう。
つまりはもう、ダミアンをフォローするものは、何もなくなった。
「リリ下がって!!」
「は、はいっ!」
「わたくしの魔術は見ていたわね? 自分たちを守るために【障壁】を張りなさいっ」
もしもセレニアの妨害が今まで自分たちに作用していたのであれば、今までのちんたらした戦闘もセレニアのせいだったというわけだ。
それならもう、そんな妨害がなくなったオレたちは……いや、エリスは、無敵だ。
リリが【障壁】の魔術に集中し始めたのを確認してから、オレはオレで魔術の集中に入る。今まで使った事のない、攻撃を目的とした魔術だ。
今までオレは、戦闘をする時にリリのような攻撃魔術を使ってはこなかった。理由は特にない。
ただ、人の命を奪うのならちゃんとその命の重みを感じ取っておかないといけないと、そう思っていたのかもしれないとは思っている。
けれど、ダミアンはもう人間じゃない。人間では、なくなってしまった。
それならば、遠慮なんかいらない。ダミアンを解放するためにも、そんなにちんたらしている場合でも、ない。
今のダミアンの身体がリリの【火】をある程度弾くのをオレは見ていたし、それならそれでその防御を突き抜ける威力のものをぶつけてやればいいだけ。
つまりはさっきのリリ以上の威力の魔術をぶつけてやればいいだけで――エリスには、それが容易だ。
オレはほんの数歩だけ後ろに下がってダミアンの攻撃を回避しながら、自分に【障壁】をかけつつ攻撃魔術に集中した。
リリとは違う、アイツらの大好きな神様の怒りとも言われている【雷】の魔術を。すべての生物の共通の弱点である頭部にぶつけてやろうと、痛みに泣き藻掻くダミアンの顔を睨みつけながらチャージしていく。
攻撃したら酸で反撃をされるのなら。
あのヌルヌルした魚の鱗みたいな皮膚で攻撃の威力を減衰されてしまうのなら。
そのすべてを一気に消し飛ばす【雷】で全てを一瞬で始末してしまえばいいだけ。
さようなら、ダミアン。
オレはきっともう二度と、赤い悪夢を見ない。