「フロイト……?」
本当に何気なく、記憶の中にある三人目の金色の髪の主の名前を呼ぶ。
不思議ではあったんだ。セレニアを含めて金色の髪の人と最近縁があるな、リリも貴族の血でも引いているのかななんて、そんな事を思っていたりもした。
かつてこのエグリッドでも「青い血」とか言われて金髪碧眼の人間のみが王侯貴族として相応しいと言われていた時代があったと聞く。
そんな時代から比べればブルネットに赤い瞳のエリスはまさに【魔女】のように見えていたことだろう。
それなのに今この場では一番【魔女】らしいオレが一番地位が高いと言うのだから、なんとも皮肉なものだ。
「エリス様っ!」
真後ろに立っていたセレニアと金髪の神官を見つめていると、突然エリスが【火】を放ちながらオレの背中を強く押した。
身体を向けていた方だからギリギリ踏みとどまったオレは、彼女の【火】がダミアンから放たれた触手を焼き払う匂いに思わず眉間に深いシワを刻んでしまった。
後ろに気を取られている場合ではなかった。「ダミアンの中のヤツ」は最早ダミアンに話もさせずに血でダミアンの口の中を真っ赤にしながら汚らしく血混じりの涎を垂らし、笑っている。
振り回した腕は触手に飲まれて一本の長いムチのようになってしまっていて、軽く振るうだけでも大聖堂の中の石柱が叩き折られる程の威力だった。
アレをそのままにしてはいけない。
アレを放置してしまえば、遠からずこの神殿がそのまま崩れてしまうはずだ。まだこの中には街の人も――ジョンも居るっていうのに、お構いなしになっている。
いや、ダミアンならともかく最初からアイツは人間の命なんかただの自分の飲み物としか感じていなかったのかもしれない。
オレの知る悪魔というのは、そういう存在だ。
「ふふっ、面白いわね。もっと早くあぁしてしまえばよかったわ」
「セレニア……」
「同じ無能なら戦いに使える無能の方がマシというものよ。ねぇ、魔女のお嬢さんたち?」
クスクスと笑うセレニアの声は、今この場では場違いなほどにスルッと耳に入ってきて、不快だ。
ダミアンから吐き出される唾液や触手液はまるで酸のように周囲の全てを溶かし、今は鎧を溶かされた騎士たちの「中身」を啜っている、その音よりも。
じゅるじゅる、ぐちゅぐちゅ
笑いながら片腕を振り回しながらも、もう反対の腕では騎士の死体を啜っている。
その姿のなんと醜悪なことだろう。血生臭さもすでに肉を溶かす腐った匂いに変わり始め、リリが気持ち悪そうに口元をフローリンの刺繍されたハンカチで覆った。
あれは、アレンシールが持っていたのと同じものだ。
アレンシールと街を歩いている時に同じものを買ったのか、それともアレンシールがあげたのかは知らないが、少なくとも今のリリの支えにはなるだろう。
まったく、食欲に走ってしまったオレとは大違いだ。
「下らないわ。殺してしまえばみんな同じよ」
ダミアン。お前は本当は、なにがしたかったんだ? 本当に玉座なんて望んでいたのか?
そんな姿になってもいいと思う程に、悪魔に望んでしまう程に、人の上に立ちたかったのか?
クスクスと笑っているセレニアの声を背に、無言で床に転がっている結局使われないままだった騎士の剣を拾い上げると、オレはソレに【物質強化】をかけ、自分自身にもかける呪文の準備をする。
剣なんて勿論使ったことはないけれど、アレンシールが使っているのを何度も見ている。エリスだって、2人の兄が使っているのを見ていただろうし、ダミアンと練習をしているのだって見ていたはずだ。
なら、それだけでいい。
見ていただけでも、【魔女の首魁】には十分だ。
「
速度を強化しても、筋力を強化しても、技術を強化しても、きっとアレンシールには追いつけないだろう。彼よりも強いジークレインになんかもっと追い付けないから、魔術を何個同時発動しても彼らの技量には到底追い付けない。
ならば、【模倣】してしまえばいい。
剣にはそのものの強化を。
オレ自身には騎士の強さを。
ダミアンを憎さで殺すのではなく、殺してやるために出来るだけのことは、やろう。それも、出来るだけ早くだ。
あぁこんなことならスカートじゃなくてズボンで来ればよかった。まぁオレとしては見られても少しも気にしないけれど、エリスはそうではないだろうから。
「エリ! 駄目だ、離れろ!!」
と、ジリとダミアンに近寄ろうとした時、2階席の柵に縋り付いて彼が――フロイトが立ち上がって叫んだ。
さっきまで俯いていて見えなかった目元の包帯はぐちゃぐちゃで、その隙間から多分彼の目が見える。
でもそんな事を気にしている余裕もなく、オレは剣と身体にかけていた魔術を咄嗟に解除するとオレとリリを包み込むようにして二重に【障壁】を張った。
離れている余裕がないなら、これしかない。
リリを抱き寄せて出来るだけ身体を小さくして、分厚い壁を意識して、張る。
と、凄い重さの水がオレとリリを溶かし切ろうとするかのように降り落ちてきた。
障壁の外、大聖堂の床に敷かれていたカーペットや長椅子がじゅうじゅうと音を立てて崩れていってそれが酸だとわかっても、ダミアンは何もしていないのに何故と驚くしかない。
だがその答えは、すぐにわかった。
意識していなかった、ダミアンの脚。もうすでに人間の脚の形を成していない木の幹のように太くボソボソとした質感になっているその脚が床に転がっていた騎士の肉体を隠れ蓑にして破れた皮膚の隙間の触手から酸を一気に放出したのだ。
当然隠れ蓑にされた騎士は全身のほとんどに穴を開けられて、そこからは焼かれた体液と煙だけが燻り血液さえも出てこない。
死んでいて良かったと、心から思う。
生きている間に彼がこんな苦痛を受けなくてよかったと、心から。
「リリ、大丈夫?」
「は、はいっ」
「……アイツは本気でわたくしたちを殺すつもりだわ。ならば、わたくしたちも本気で相手をしましょう」
「エリス様……」
「……殺すのよ。それが、ヤツへのせめてもの
セレニアと共に現れたフロイトのことは気になる。【聖者】と呼ばれていたが、セレニアからの扱いが少しもそう見えないのも、勿論気になる。
でも、今どちらも相手にしている余裕はない。
オレは再び剣を拾い上げるともう一度同じ魔術を展開し、リリもキルシーと共に【火】のチャージに入る。
「とにかくずっと【火】を放って! 威力を加減してはダメ!」
「はい!」
「フロイト! 話は後で聞かせてもらうわ!」
床にヒタヒタと染み渡っている酸は、近付けば近付く程にツンと匂い呼吸を奪う。
それでも出来るだけ息を止めて、酸が浸っていない足場を探してダミアンに駆け寄る。
床の惨状を見れば酸を踏んで足を痛めてしまうのは間違いがなかったが、今はそんな事は気にしていられない。騎士たちの流した血と混ざり合い少しでも酸が薄くなっているだろう場所を選んで、ぬるつくのも出来るだけ踏ん張って剣を翻す。
アレンシールの剣技はパワーよりもテクニックだ。
オレを近付けまいと木の幹よりも太くなった腕を横薙ぎに払うが、元々は指先だったのだろう箇所はリリによって焼き払われ、残った部分に刃をスルリと真っ直ぐ縦に通してやる。
横に斬ろうとすればその太さに負けてしまうだろうから、縦だ。少しでも勢いを削いで、酸を吐く触手の表面を削ぐ。
しかしダミアンの腕は、まるで魚の皮膚のようだった。見た目は木なのに、弾力のあるぬるぬるした皮が剣を滑らせてダメージを受ける部分を出来るだけ減らしているような感触。
ベリっと音を立てて剣で引き裂いた部分は本当に表皮のような層で、触手は一瞬腕の中に潜り込んで身を隠し、表皮が剥がれるとその部分を覆うように触手が集まって、固まる。
気持ち悪いが、アレではまた剣の刃がすべって触手の表面を削るだけなのではと思わされて、酷く腹がたった。
しかし手を止めていればそれこそ触手による防御を許す事にしかならないから、オレはもう一度剣を触手の表面を削るように振るうしかない。
もう一度、縦に触手の表面を削ぐ。途端、表面を守っていた触手が破れて内側からぶわりと酸があふれオレに降り掛かった。
「エリス様!」
咄嗟に張れた【障壁】は、一枚。咄嗟に飛び退いても足の裏の灼けた靴では遠くまで跳ぶ事は出来ず、酸を焼き払ったリリの【火】と自分の【障壁】に守られても足元から嫌な音がするのが、聞こえた。
酸で足を灼かれるとこんな感覚なのか、と思っている余裕が一瞬だけあるのは、何故だろうか。
妙に冷静な頭は皮膚の表面の焼けた足と溶けて落ちたスカートの裾を無言で見つめさせる。
あぁ、スカートの裾にはフローリンの花が綺麗に刺繍されていたのになぁ、なんて思う余裕すら、ある。
痛いはずなのに、痛くはない。ただ、ムカついた。
『へぇ、綺麗じゃん。その服』
ワンピースを着替えた時に茶化しながら言ったあの男の声が不意に脳裏をよぎる。この服が綺麗だと言っていたのは分かっている。知ってる。
なのになんで、今あの言葉を思い出すのだろうか。
足をジリ、と動かすと、酸が足に触れてまた足先からかすかな煙が上がった。でも、痛くはない。皮膚が灼けて
ただ、ムカついた。凄く凄く、ムカついた。
ダミアンをあんな風にした中のヤツも、セレニアも、勿論ダミアン本人も、なんかなんか物凄くムカついた。
「…………殺す」