大神殿。文字通りに、大きな都市に置かれている大きな神殿だ。
【蒼い月の男神】信仰は最早唯一信仰となり、一定以上の人口や規模のある街には大神殿よりもワンランク低い神殿を、少人数制の村や町には神官が一人にシスターが数人だけの小神殿を。
そしてこういうフローラのような貿易や観光的にも人の出入りが多く、元々の在住人数が多い街には一際大きな大神殿が置かれていた。
勿論大神殿は規模が大きく、見上げるくらいに高い塔には定刻で鳴らされる金があり、神殿を囲う柵は高く門の前には神殿騎士が控えていて、貴族の宿泊施設もある。
フローラには貴族御用達の高級な宿は勿論あるが、信仰心の強い貴族なんかは大神殿に泊まることも多いという。
もしもノクト家もそういった宗教家であったなら貴族の宿泊部屋に即座に飛べたかもしれないが、残念ながらエリスたちは大聖堂までしか入っていない。
どうせ神殿を先に切り離すのだからと思っていても、さっきの光景を見てしまうとどうにも冷静になれない自分を、自覚していた。
あの女は危ない。知らない人なのに、見たことも話したこともない女なのに、そんな警鐘が頭の中でガンガン鳴っていて頭が痛かった。
なにより、さっきのセレニアのジョンに対する言葉。
この方を、王都へ。
あの女が「この方」と言うということは、想像通りジョンはある程度の地位がある人間だったということで間違いがないだろう。
もしかして、とは思っていたし、そうだろう、とも思っていたから今更驚きはしない。なんで黙っていたんだなんて言うことも、しない。
だって出会った時、ほんのつい何日か前、彼は死にかけのキルシーと共にボロボロの格好であんな汚い裏路地に居たのだ。例え元々は地位ある存在だったとしても普通の状況じゃなかったってことはわかる。
本当に、なんであの時彼を見逃してしまったのだろうか。
ジョンなら大丈夫だと思ったから? 言い訳でしかない。
彼なら多少の相手には負けないと思ったから? そう言い切れるほど自分は彼の事を知っていたのだろうか。
あんなに、あんなにもジョンが神殿という存在への警告を発してくれていたのにこのザマ。しかも手放してやっと焦るだなんて、本当に愚かだ。
「切り離しますわ。お二人は先に敷地の中に居て下さい」
「は、はいっ」
「わかった」
あの女――セレニアとくっついて歩いていたというダミアン・レンバスは神殿と関係深いレンバス家の男で、おそらく今このフローラにも来ているはず。
今のダミアンは何をするか分からない。もしもジョンとオレたちが関係者だと知られれば一体どうすることか。
急がなければ。
【転移】で神殿の門の中まで転移したオレは、先にアレンシールとリリを出来るだけ神殿に近付けて頭の中で神殿と「こちら」の境界線を引いていく。
神殿そのものをこの空間から切り離し、元々の場所には幻影の神殿を被せておいて外からは何の問題も起きていないように見せかける術。
オレは今まで自分が
ようは同時に使わなければいいだけだ。
【切り離し】も【幻覚】も神殿そのものに設定して使い、自分からは切り離しておけばいい。
維持には、即席で作った【魔女の指先】を使う。本当に即席で作ったから数時間しか魔術を維持してはおけないだろうけれど、数時間以内に片付ければいいことだ。
「
神殿をぐるりと円形に切り取るイメージをして、地面の下まで深く深く、イメージを広げていく。見えている場所だけではなく地下室まで全てを包み込んでこの世界から【切断】するのだ。
この神殿のどこにまで地下室があるのかは分からない。わからないから、とにかく深く深く切り取ってやる。多少地面がえぐれた所で、地中の土が少し混ざったくらいは誰も分からないのだ。
身体中を魔力が巡っていくのがわかる。
今までちょこちょこと使っていたものを一気に放出する感覚は、【転移】をする時のものとは少し違うかもしれない。
こんなに一気に魔力を使って大丈夫か? と、少し前のオレなら思っていたかもしれないが、今のオレはそんなこと少しも考えやしない。
エリスなら大丈夫だ。
エリスの魔力なら、絶対に大丈夫。だからオレがやっても、大丈夫なんだ。
『だからわたくしは、未来のわたくしに希望を託す事にしたわ。貴方の死も、わたくしの死も避けられないけれど、でも、わたくしの残った魔力を使えばまだ死んでいない未来のわたくしと今のわたくしを入れ替える事は出来る』
不意に、日記に書かれていたエリスの言葉を思い出す。
オレはエリスではない。でもエリスはオレを信じて全てにオレを託し、賭け――許してくれた。
今までこうやって一気に魔力を使っていなかったのは、魔力というものをここに来るまで知らなかったオレがチキっていただけの事。
こうするだけのポテンシャルは最初からあったんだって誰かが教えてくれていたら……いや、最初からオレが理解していれば、このくらいは楽勝だったはずだ。
オレの足元を起点に、神殿自体が僅かに光を放ち始める。
それを確認してから、【幻覚】を上から被せる。こうすれば、光を放っている方の神殿はこの世界では認識されなくなり、ただの転写映像のような何も無いこの神殿が現実となるだろう。
もし神殿騎士ではない誰かが中に入ろうとしたなら、【幻覚】を通り抜けて気持ち悪い思いをするだろうがきっと門の外に居る神殿騎士は庶民を中には入れないだろうと思うから今は無視をする。
神殿騎士が中に入ろうとして入れない場合は、まぁどうでもいい。次元の狭間で潰すでも、何も無い空間に叩き落とすでも好きに出来るのがエリスの魔術だ。
元々優しくしてやろうなんて思った事はないけれど、今はもっとどうでもよくなった。
そのくらい、オレは今めちゃくちゃに怒っている。
「お兄様、何の違和感もありませんか?」
「ないよ。ちょっと空の色が変だけど、そのくらいかな」
「ここなら魔術をいっぱい使っても大丈夫なんですか?」
「そうね。この神殿ごと消し飛ばしてもいいのだけど、恐らくジョンやお祭りで連れて行かれたっていう方々も居ると思うからその方々を助けてからにしましょう」
「はい!」
ちょっとだけ空間に隙間を開けて、オレも切り離した神殿の空間内に入る。ほんのちょっとだけあるように思える段差を飛び越えれば、そこはもう「外からは見えない別の空間」だ。
この空間の原理は、オレも知らない。
ここに取り残された人間がどうなるかとか、そんなことも分からない。
どうでもいいんだ、正直。
ここを支配しているのは実質オレで、ここを作っているのはエリスの魔力なのだから何の心配もいらない。オレの、味方であるのなら。
「なぁるほどな。何か変だと思ったら、魔女が直接お出ましだったか」
ジャラ、と鎖を引きずるような音がして、神殿の裏から誰かがこちらにやってくる影が不意に視界の端に見えた。
運がいいのか悪いのか、神殿の外に居たのにエリスが切り離した空間の狭間には引っ掛からなかったラッキーな者が居たようだ。
即座に前に出たアレンシールが剣を抜き放ち、オレは扇子を広げてリリの前に出て己の顔を半分だけ隠す。
そして、目を丸くした。
現れたのは巨大な身体の女性だった。身長はアレンシールの倍近くあるだろうか。見上げなければ顔も見えないくらいの大きさの女の着ている神殿騎士の鎧は胸元や腰回りを少し守っているだけで、他の部分は革で守られている。そりゃあ、神殿の白い鎧は確か高価な素材で作られているはずだから、この身体の全てを包むだけの鎧は用意出来なかったのだろう。
彼女の手にしている戦斧は斧部分だけでリリを覆えるくらいに巨大で、後頭部でポニーテールに括られているくすんだ赤の髪は束ねれば縄くらいは編めそうだ。
「……神殿騎士か?」
「臨時だがな。本職じゃねぇよ」
「そうか。では……見逃してもらっても?」
「出来ると思うか?」
褐色肌の女戦士が戦斧をぶぅんと振れば、前に出ていたアレンシールの前髪が風圧で揺れた。あまりにもリーチもパワーも、違いすぎる。
だが、彼女は少なからず神殿の加護を受けた鎧を着ている。リリの魔術をここで少し使うくらいして倒してしまったほうがいいのじゃないだろうか、と、考えて、気付く。
パッと見でわかる程に背の高い女性。手にした斧。
「あなた……もしかしてヴォルガ?」
「……なんで魔女がアタシの名前を知ってんだ」
「フロイトが、貴方を探していたから」
「フロイト?」
やはりそうだ。ヴォルガ。街中で迷子になっていた盲目の少年の護衛だというオーガ種。
何故彼女がここに居るんだ? しかも、神殿騎士も着ている鎧の一部を着て、敷地の中に。
フロイトを放置してまで、どうしてこんな場所に?
「エリス、リリさん。先に行きなさい」
「お兄様?」
「急いでいかないとボブくんが何をされるか分からないだろう。君たちは先に、彼らの救出を」
「で、でも! アレン様っ」
「大丈夫」
私はこれでも女性の扱いは得意なんだよ、なんて言って、アレンシールが着ていたマントを脱ぎ捨てる。
アレンシールは剣の達人と言えどそれは対人間での話だ。オーガ種の戦士を前にすれば、彼の身体はあまりにも頼りなさすぎる。
しかしさっきの様子から見てジョンが危ういのもまた事実だ。
オレは強く強く閉じた扇子を握りしめて、背後でオロオロとしているリリに見えないように割れんばかりに歯を噛み締めた。
けれどそれ以上何を言う事も出来ず、リリの腕を掴んで神殿の正門へ向けて走る。他の神殿騎士たちはまだ何も気付いていないようで人の気配はないから、アレンがヴォルガを止めてくれていれば問題なく中に入れるだろう。
「はっ! このアタシをただの女扱いか! 生意気だねぇ王子様っ」
「どんな種族でも、女性は女性だからね」
ヴォルガの雄叫びのような笑い声と、アレンシールが構える僅かな足音。リリはその音から耳を塞ぐように両手で耳を覆いながら頭につけていたリボンをぎゅっと握りしめ、キルシーは彼女の彼女の肩から空に舞い上がった。
けれどオレも彼女も決して、決して振り返りはしなかった。