「キルシー……!」
「しっ。始めてますわ」
リリが黙り込んでから少しして、バタバタと足音をさせて隣の部屋からジョンとアレンシールが駆け込んできた。
と言っても、アレンシールとは系統の違う見たことのない正統派なイケメンがジョンだと分かったのは彼が眼帯をしていたからに過ぎない。
おめぇ、髭剃ると顔変わるなぁ!
この世界の男どもの顔面偏差値に軽くイラッとしてなんか言いたくなったけれど我慢して、飲み込んで、この短時間でジョンの身なりを整えてくれたアレンシールに視線だけで感謝する。
だってもう、ジョンは自分の身なりのことなんかよりもキルシーしか見ていない。
ほのかに光を放つ魔法陣と、その魔法陣の真ん中に置かれたキルシー。そして、キルシーを見つめているリリ。
今リリとキルシーがどんな会話をしているのかは流石のエリスでも分からないけれど、リリとキルシーが大事な話をしているのだろう事は分かる。
こんなに長い時間向かい合っているのだ。
きっと、とてもとても大事な話をしている。
彼女たちが繋がるためにとても大事な話を。
「キルシー、頼む、生きてくれ」
その様子をどう見たのか、恐らくアレンシールのものだろう服に着替えたジョンが泣きそうな顔をして鼻をすすりながらキルシーに話しかける。
その瞬間キルシーのくちばしがピクリと動いたのを、オレは見逃さなかった。
大事な人の声ならばどんな状況でも聞こえるものだ。人間でも、鳥でも、それはきっと変わらない。
「頼む、キルシー……一緒に居られなくても、お前が生きていてくれるなら、俺は……」
「ボブくん……」
おいお前ジョンって偽名即忘れてアレンシールに違う名前伝えてんじゃねぇよ大事なシーンが台無しだよ。
「俺と一緒に居てくれたのはお前だけだったんだキルシー……頼む……」
ついに一つしかない瞳から涙がこぼれて、ジョン(ボブ)が子供みたいにグスグスと泣き始める。
彼の様子をチラリと見たリリは、その姿を見て何を思ったのだろうか。
あえて何も言わずにキルシーに視線を戻したリリは魔法陣の先端に押し付けた指先に更に力を込めて、先程よりも血を強く、床に押し付ける。
ジョンは本能的に察したのかもしれない。
キルシーが、リリの使い魔になる事を拒んで彼の腕の中で旅立とうとしているのだろうという事を。
思えば残酷な話だ。
ジョンはキルシーがただ生きていてくれればいいと願っているが、キルシーにとっては生き残れば大事な飼い主との別れを強制されるのだ。
カラスはとても賢く、貴族の中では喋るカラスを飼う者もこの世界には居るという。
キルシーがどういう種族のカラスであるかは知らないが、きっとジョンの願いもきちんと理解して、その上でリリと話を続けているに違いない。
正直、人間とカラスがこんな絆を育むなんて意外というか、びっくりではあるのだけど。
『魔女よ』
ベソベソ泣いているジョンをアレンシールに任せてリリとキルシーを見守っていたオレは、ふと聞き慣れない声がどこからか聞こえてきた。
どこからか、というか、まぁこういう時には「ひとり」しか居ないのだけど。
『どうなさいましたの? リリさんの使い魔になるのがそんなにお嫌?』
『いいえ、そうではありません。ですが魔女の長よ。私は貴方にお願いがあるのです』
『お願い?』
『えぇ。どうか……私の友達を……彼が本当に困った時に助けて差し上げて欲しいのです。その願いを聞き入れて下さったら、私は貴方達に力をお貸しいたしましょう』
『それは……』
貴方のお友達が今後困る事があるという事なの?
そう聞きかけて、扇子を口に押し付けてグググと黙る。
それを聞いてどうしようというのか、というか、それを聞いてしまうのはズルいんじゃないかとか、ちょっとそう思ってしまって。
だってそれを聞いてしまったら、彼が困っていない時には何も手を貸さないんじゃないかと、そう思われてしまいそうで。
それは違う、と思う。
きっとこういう縁が出来た以上、オレもリリも、もしかしたらアレンシールも、今後ジョンが困っていたらキルシーのためとかそういうのとは関係なく助けようとするだろう。
お腹が空いたとか、ちょっと怪我をしたとか、そんな程度のものだけじゃなくもっと大きな問題にだって首を突っ込むかもしれない。
だってそれは、キルシーという彼の唯一の存在を預かる者としての責任というものじゃないか。
『えぇ、約束しますわ。本名もまだ知らないですけどこの方、貴方が居なくなったらきっと一人ぽっちでメソメソし続けていそうですもの』
『子供の頃から、泣き虫なのです。寂しがりやで……とても可愛い子』
『貴方の大事な弟さんなのね』
『そうです……えぇ、そうなの。私の可愛い子……彼から貰った知恵を貴方達のために使う事を約束します。だから、どうかあの子の味方で居てあげて』
『勿論よ、キルシー。わたくしだけでなく、リリだって絶対に同じ返事をするわ』
魔法陣に指を押し付け続けているリリの肩は、小さく震えている。
もしかしたらオレよりももっとたくさんのことをキルシーと話して、キルシーと約束をしているのかもしれない。
キルシーに生きていて欲しいと泣いているジョンと、彼らの絆を知って目にいっぱいの涙を溜めているリリ。
あぁまったく、オレまで釣られちゃいそうだ。
ふふっと小さく笑ってから魔法陣に近付き、ストールで巻いていたキルシーの身体を解放する。
多分キルシーの傷は剣でつけられたものだと分かっていたから、ジョンは誰かに追われでもしてキルシーがそれを庇ったんだろうっていうのは、わかっていた。
カラスの寿命ギリギリのキルシーは、人間の年齢で言えばもうとっくにおばあちゃんと呼ばれていてもおかしくないくらいだろう。
だから、可愛い可愛い弟のような子だから、最期の力を振り絞って守ったのだ。
「大丈夫よ、キルシー。わたくしの弟子の使い魔になった以上は絶対に貴方のことも死なせないわ」
キルシーの傷口に触れながらそっと【治癒】の呪文を流し込む。
魔法陣は光を失い、混ざりあったキルシーとリリの血が魔法陣の形で床に残っている。
恐らく、リリとキルシーの契約は完了しているから【治癒】を流し込んでも大丈夫だろう。
治癒呪文の苦手なエリスの【治癒】は、【治癒】を受ける側にある程度の生命力がないとより消耗させてしまいかねないのだが、今ならもう大丈夫。
それを示すように、【治癒】の光が消えるとキルシーは閉じていた目を開いて大きく翼を広げてオレの腕を掴んだ。
そのままガッシガッシと腕を登って肩に乗れるだけの元気が戻ってきたのは素晴らしいことだが、これだけ大きなカラスの足の力は正直ちょっと痛い。
「キルシー!」
翼を閉じていたからわからなかったが、キルシーの大きさはちょっとした猛禽類くらいはある。
お腹だけでなく翼の先も白くって、日本にいる野生のカラスとはちょっと違う種類なのかもしれないと、翼を広げればベソベソ泣いている大男の上半身を包み込めてしまいそうなキルシーを見てしみじみと思う。
ジョンを相手にあの大きさだ。
リリならば簡単に上半身を包み込めてしまえるだろう。
「……エリス様」
「お疲れ様、リリさん。これで使い魔契約は完了ですわね」
「はい。私……私、キルシーのこと、ちゃんと守ります」
立ち上がり、いつの間にか傷の塞がっている指先を見つめながら、リリは決心したように目を細めた。
今までよりも大人びた表情。
彼女がキルシーと何を約束したのかは分からないが、彼女にこんな表情をさせてしまうような約束を結んだのだろうか。
リリはもうちょっと、ゆっくり大人になっても良かったのにな、なんて、ちょっと思う。
エリスとリリは一歳しか違わないけれど、オレとリリは7つくらいは違うはずだ。
だからこそ、使い魔を得る前と得てからで一気に表情が大人びてしまったリリを見て、そう思ってしまう。
「これが、使い魔を得る責任なんですね」
「……そうね。自分だけの命ではなくなるから」
「そうですね……私、キルシーのためにも、死んだら駄目なんですよね」
【魔女】と【使い魔】は一心同体だ。
【魔女】が死ねば使い魔も死ぬし、使い魔が死ねば【魔女】も大きなダメージを負う事になる。
使い魔を失った程度では【魔女】は死ぬ事はないが、その分精神や魔力そのものにダメージを受けるのだと、エリスの日記には書いてあった。
きっとキルシーを失えば、リリは自分1人分どころではないダメージを心に負う事になるだろう。
だがそれも、使い魔を得た【魔女】が負うべき責任っていうやつなのかもしれない。
だとしたら、その使い魔を選び彼女に与える選択をしたオレは、もっと重い責任を負うべきだ。
キルシーを抱きしめて泣いているジョンを見て、彼を見守っているアレンシールを見て、己の指先を見つめているリリを見て……
オレは未だに一向に見慣れないエリスの白くて細い指のついた手のひらを見て、【魔女】の責任って何だろうかと、【魔女の首魁】であるオレには何が出来るのだろうかと、グッと手を握り締めた。