ピースリッジ。それが、エルディたちの居た神殿から一番近い街であり、馬車を預けた商人たちと合流する事になっている街だった。
神殿からは馬を走らせて2日ほど。
急ぐために馬を走らせた結果尻が割れそうになった所で素直に尻と馬具の間に【緩衝】をかけて走ってその日数なので、もっとのんびり走っていたらもっと時間がかかっていたんだろうなとちょっとうんざりする。
リリも「お尻が4つに割れそうです」と真面目な顔で【緩衝】を習ってぎこちなく試していたが、そんな事をしないでも平気な顔をしているアレンシールの尻はどれだけ鍛えられているのだろうか。
……いや違う。そういう意味じゃない。
乗馬、乗馬に慣れているっていう意味でだ。
誰に言うともなく心の中で弁明しつつ、リリとアレンシールにも【認識阻害】の魔術をかけて街に入る。
ピースリッジは大きな湖の近くなので、漁が盛んな街だ。
街に入るための税金が安いのは、このピースリッジがそこまで高い税を課さなくても栄えているから、というのと、領主この街以外で稼ぎどころを持っているからというのもあるのだと、街に入る前にアレンシールが教えてくれた。
正直な話、大きな街に入るのに税金が必要だっていうのもオレは知らなかったのだが、アレンシールがサクサクと手続きをしてくれるのは助かる。
こういう場合の税金とは「通行税」のようなものらしい。
つまりは、この街を通って行くなら金を払え、だ。
そんな馬鹿な、と思うのは、オレがまだ日本の常識を引きずっているからだろう。
日本だって高速道路だとかがある事を考えると妥当なのかもしれないが、ただ街に入るだけでもお金が必要だというのは新鮮な驚きだった。
「例えば、登録商人だとかは登録証を見せれば税金は免除になるんだよ。商品の方に税金がかかるからね」
「あぁ、なるほど」
「じゃあ、私たちも商人になるべきですかね……?」
「この程度の税金なら目的地まで困らないから大丈夫だよ」
「そういえば、目的地ってどこなのですか? お兄様」
目的地、なんてそういえばあんまり考えてなかったなって今更に気付く。
いや遅い遅いって話なんだけど、出発したばかりの時はそんな事考えている暇はなかったし、どこか行ける先があるとも思っていなかったからろくに考えてもいなかった。
【魔女】の逃げられる先。
そんな場所は、今のエドーラの中にあるのだろうか?
「言っていなかったっけ? ジークムンド辺境伯領に行く予定だよ。すでに手紙も出してある」
「ジークムンド辺境伯領、ですか」
「ジークムンド辺境伯って……あのジークムンド辺境伯様ですか!?」
「おや、リリさんも知っていたんだ」
「知らないわけないじゃないですか! アカデミーを卒業してすぐに家督をお継ぎになり、モンスターの軍勢からこのエグリッド王国をお守り下さっている軍神夫婦!」
「ぐ、軍神夫婦」
「はは。叔父様と叔母様が聞いたらきっと喜ぶよ」
「おじさまとおばさま!?」
ジークムンド辺境伯。
オレの頭の中ではイマイチピンとこなかったが、リリの叫びでなんとなく頭の中でエリスの記憶と紐付いた。
ジークムンド辺境伯グウェンダルと、その妻イングリット。
どちらも騎士としてかなりの実力を持つ夫婦で、確かエリスの父親の弟がグウェンダル伯だ。
エリスの父・フィリップは結構なブラコンで、グウェンダル伯爵が母方の実家であるジークムンド家を継ぐとなった時に生まれた次男のジークレイン兄上にその名を半分貰ったほど、だとかなんとか。
そしてかなりのおしどり夫婦でプロポーズはイングリッド様の方から。
王都の近衛騎士の地位を捨てて押しかけ女房のようにモンスターの跋扈するジークムンド領へと飛び込み結婚。
彼女の出現によりジークムンド辺境領ではモンスターの出現率もかなり下がったとかなんとかそういう……
なんつーか……凄い夫婦だな、という、記憶ばっかり出てくる。
エリスももしかしたら軽くひいてたのかもしれないし、尊敬していたのかもしれない。
どっちにしろ、すげー女性だ。イングリッド女史。
リリといいイングリッド女史といい、この世界の女性は強くないと駄目なんだろうか。
「お二人からのお返事はありましたの?」
「部下に連絡をしておいたから、次の宿に届いてるはずだよ」
「宿、と申しますと、商人の方の?」
「そうそう。えーと……
アレンシールが何と言って2人に救援を求めたのかはわからないが、事前に準備していたとしても7日の間に連絡をしてその返答が戻ってくるような距離感なのだろうか。
かつての日本のように足軽が居るとも思えないし、やっぱり鳥とかを使って連絡を取り合うのだろうか。
この世界のこういう細かい所はまだエリスの記憶もあやふやだ。
なんというか、記憶の引き出しが必要な時にだけ開くような、そんな感覚。
知らない事を考えるといちいち開く記憶の扉は、少しだけ変な感じだった。
「私が先に宿に行ってくるから、2人は少し街を見てくるかい?」
「いいのですか?」
「認識阻害をかけているんだろう? 少しの間なら大丈夫だよ」
折角遠くまで来たんだから楽しんでおいで。
アレンシールがそう言ってくれたのは、完全にオレやリリへの配慮だろう。
ここに来るまで色々と考える事の多かったオレたちは、旅というものを楽しむ余裕なんて勿論なかった。
あの廃神殿で過ごした一夜はなんとなく楽しかったけれど、どっちかというと血なまぐさい事ばかりだ。
だから、ぱぁっと顔を明るくしたリリを見てオレも断る気にはなれなくって、アレンシールに宿の場所を教えて貰ってから解散する。
有名な宿だからその辺の人に聞いても教えてもらえると思うよ、という言葉は慣れない街ではとっても心強い言葉だった。
さて、ピースリッジだ。
残念ながらここの事はエリスも地図上にある街、くらいの感覚でしか覚えていないようで、特産物が小魚だとかそのくらいしか知識はなかった。
それでも大きな通りに出れば大きな市が出ているし、市から少し入った所に行けば貴族でも入れそうな衣装店なんかも並んでいる。
この時代、大きなガラスを使ったショーウィンドウだとかドアだとかはその店の品格を決める大事なものだと聞いているから、ここにあるお店は結構いいお店なのかもしれない。
「あ……」
「どうなさったの?」
「エリス様、あっち……」
店に並んでいる新鮮な果実は森からとってきたものだろうか、とか考えながら市を見ていたオレは、ピタリと立ち止まったリリの指差す先になんとなく視線を向ける。
何か、彼女の好みのアクセサリーでもあったのかもしれないと思った程度だったからだ。
しかし彼女が指さしたのは市場から少し外れた場所にある明らかに薄暗く、工事途中で放置されている建物ばかりのような、そんな裏路地だった。
オレでもハッキリ分かる言葉で言えばスラム、ってやつだろう。
王都にだってそういう場所はあったんだ、この規模の村でも当然あるだろうな、と思ったオレは、しかしリリがそのスラム自体を示したわけではない事に気付いて眉間にシワを刻んでしまう。
リリが指さした先。
それは、赤い血を流している男が路地の暗がりに座っていたから、だ。
膝を抱え込むようにして座っている髭面の男は明らかに身汚くて家なしなのは間違いがなさそうで、しかも地面にも染み込んでいる血を見ると明らかに「触れてはいけない人」なんじゃないかと思わせてくる風貌だ。
しかしリリは視線を外そうとしたオレをうるうるとした瞳で見上げてくる。
しまった、リリはオレが簡単な【治癒】を使っていたのを見ているのだ。
怪我人を放置なんかしませんよね? と、その目は言っている。
絶対にあぁいうタイプの男に関わってイイことなんかないだろうし、アレンシールがここに居ればそれとなく視線誘導して気付かせないだろうそんな、そんな男なのに。
オレはひとつ「はぁ」と溜息を吐くと最近棍棒としてしか使っていない扇子をバサリと開くと、
「……リリさんがお声をかけてきてくださる?」
「わっかりました!」
コミュ障のオレの出来る事なんてこれが限界だ。
リリを勧誘した時は必死でひたすら頑張っていた記憶しかないのだけれど、完全に存在すら知らない他人に声をかけるのはオレには難易度が高い。
反面、コミュ強リリはオレが許可した瞬間に髭面男の所に飛んでいっている。
凄い、これがコミュ強ってやつなのか。
なんて思っている暇すらない。
「あの、大丈夫ですか? 怪我してますか?」
「……?」
「あのあの、もし怪我をしてるんだったら! 治療のお手伝いくらいできないかなって思って、あのっ!」
ぴゅーっと路地に入っていったリリは、臆さず男に声をかける。
路地は正直言って生ゴミと小便の入り混じったような物凄い匂いがしていて、市がここから少し離れた場所にあるのも納得、といった感じだ。
リリはこの匂いが気にならないのか? と思いつつも、オレも髭面男が気になってマジックバッグから薬草の軟膏を取り出しつつリリを追う。
「……誰だ」
「偶然通りかかった者です!」
嘘です、嘘ですはい。ごめんなさい。
元気なリリに大して髭面男は怪訝そうに顔を歪めるが、その顔は思ったよりも若そうだ。
アレンシールと大差ないくらい、だろうか。髭も髪も伸ばしっぱなしの放置しっぱなしだからハッキリとした年頃はわからないが、オレが思っていたよりはずいぶん若い。
そして、彼の片目は恐らく、義眼だ。
眼帯で隠されているそこは不自然に凹んでいて、瞼があるのだろう場所だけ膨らんでいて、眼球そのものは存在していないのだろう事が分かる。
なるほどな。それじゃあ普通の仕事なんかは出来ないだろうしこんな所に居てもおかしくはない。
「わ、わぁ~!」
だが、男の顔を先に覗き込んでいたリリは、不意に大きな声を上げてその場に座り込んだ。
男の片方しかない目がリリを追い、オレは咄嗟にリリに向けて走り出す。
彼女の手が震えている理由は、遠くからではサッパリ分からなかった。