エリスの扇子に魔術を込める提案をしてくれたのは、アレンシールだった。
出来るだけエリスが【魔女】として周囲に知られないようにするために、ひとつ何か細工をしておこうと言ったアレンシールが、かつて【魔女】たちが人間の役に立つようにと造っていたというマジックアイテムの事を教えてくれたのだ。
マジックアイテムという名前は、正式名称じゃない。
正確にはかつては【魔女の指先】と呼ばれたアイテムたちだが、今では呪いのアイテムとなってしまい一部の好事家すらも入手してからは一度も触れようとしないものになってしまっているのだとか。
それまでは魔女が手助けをしてくれるアイテムだったものが、今では呪いのアイテムになってしまっているというのはなんともやるせないものだ。
でも、そういうアイテムが存在してくれていたからこそ、こうして扇子に魔術を込めるという知識が存在していたのだ。
ここまでの転移につかったアイテムについてもそうだ。
リリは【魔女の指先】の存在を知っていたから、転移の時にオレがアイテムをほのめかせば疑問に思わなかった。
彼女に隠し事をしたのは申し訳なかったが、あのタイミングでは仕方がない事だったと、思っている。
「あら? わたくしには貴女の方が魔女に見えましてよ、シスター」
「ふふ……残念ながら、私は逆ですわ」
扇を広げて顔を隠しながら、そっと腰のバッグからエリスの日記を取り出す。
このタイミングで本の中身を確認する余裕なんか勿論ないが、手元にあるのとないのとでは気分的なものが全然違った。
エリス。
どうかオレに、君の知識を貸してくれ。
「私は、魔女を狩る者ですわ」
「!!」
回避が出来たのは、奇跡と言っても良かったかもしれない。
一瞬前までシスターが立っていたその場所に残されたのは小さな石だけで、目にも止まらぬスピードで美女がオレの眼の前に出現し手にしていた何かを振るう。
それを咄嗟に回避出来たのは、不意に顔の近くに何かが来た時に回避行動を行うという幼少期から慣らされてしまった行動のせい、だろう。
まさか、昔から振るわれていた父の拳が、投げつけられていた硬い野球ボールが、こんな所で役に立つだなんて。
バクバクと凄い勢いで鳴り始める心臓に日記を押し付けて態勢を整えながら、横に跳んでシスターと距離を取る。
ナイフだ。
彼女の手には手首に装着をするような、刃の部分は短いが握りの長いナイフが握られている。
これが今、エリスの顔面を狙ったのだ。
殺意を、込めて。
シスターが、ニヤリと笑う。
アレンシールやリリが笑う時とはまるで違う、口角が横に広がり唇が捲れ上がるような嫌な笑み。
彼女は、確実にオレを、エリスを、殺そうとしている。
彼女が、エリスが【魔女】だと知っている、から。
「逃げないで下さいまし」
シスターは笑顔のまま身体を真っ直ぐに伸ばし、しかし不自然に左右にゆらゆらと揺れている。
どこから来るのか、左右のどちらに跳ぶのかわかりにくい、動き。
オレはとにかく扇を握り締めたまま日記を抱きしめ、ここ数日必死に覚えた呪文の中から一つを小さく小さく、唱え始めた。
オレは戦闘に慣れてない。
日本人だからだ。
いや、日本人だからというだけじゃなくて、ただの一般人だからだ。
喧嘩だって小さい頃に弟とやったくらいで、口喧嘩の経験すらほとんどない。
そんなオレでも何とかなるかもしれないと、必死に覚えたいくつかの呪文。
その中でひとつを心のなかで反芻し、言葉に魔術を乗せて、扇に込めていく。
魔術は【言葉の力】だとエリスの日記には書いていた。
【魔女】の言葉に自然界に存在する【マナ】や【エーテル】が反応して、それが魔術になるのだと。
マナだとかエーテルだとかの注釈はきちんとあったが今はそんなものはどうでもいい。
実践で役に立たない事をその場でぐだぐだ考えていても正解は導き出されないのだという事を、オレは何度も思い知っているんだ。
今はとにかく分かっている部分の回答を埋めていく事。
そして生き抜く事。
それが、一番大事な事だ
「神様へのお祈りは終わりまして?」
「……あいにくと、無神論者なので」
「あらぁ、ではやはり……異端者ですわね」
シスターはあくまでも楽しそうにナイフを握った手を左右に揺らしながらこちらとの距離を詰めてくる。
頭を左右にゆっくりと振って、顔はあくまでも笑顔のまま。
誰かが通る気配はない。
こんな早朝に、村の外に出ていく者は居ないということだろうか。
それとも……この女がすでに?
女が、ナイフに愛おしそうに頬摺りをする。
それを見ながら、オレは数回深呼吸をして、さらに扇子を握る手に力を込めた。
オレはいつも考えていたんだ。
戦闘というものにおいて一番有効な武器は何だろうか、と。
それは子供の頃に偶然読んだファンタジー小説で主人公に投げかけられていた質問のひとつで、主人公は色々な武器を選びながらその話を聞いていた……ような気がする。
オレはその小説を読んでから、自分だったらどういう武器を選ぶだろうかと時々考えるようになっていた。
同じ学校の生徒同士で殺し合うバトルロワイヤルや、異世界に突然召喚されるファンタジー小説。
そういうものの中に自分が飛び込んだなら、どういう武器を選ぶのだろうか、と。
そうして浮かんだ結論は、いつだってひとつだった。
「現在教会では……異端論者には死という恩寵を積極的に与えておりますの」
シスターはあくまでも笑顔のまま、まるでダンスでもするように足をするりと肩幅まで広げたかと思えば片足にだけ力を入れて、地面が凹んでしまいそうなほどに全体重を乗せて――跳ぶ。
その速度は、オレが覚えた呪文のうちの1つである【速度強化】を身体にかけていなければ気付かないくらいのものだったかもしれない。
何しろ、速い。
普通の人間のそれではないその速度は、前方に向けて跳ぶその瞬間に爆発的に膨れ上がった太ももとふくらはぎの筋肉がもたらしたものだろう。
訓練された、「そういう事」に特化された人間の筋肉だ。その事実に、一瞬で額に汗が浮かんだ。
だが、女に気付かれない間に自分の身体に【速度強化】をかけたエリスには、その全ては視えている。
むしろ遅すぎるくらいに感じる女の移動は、ゆっくりゆっくり、まるで時間そのものが遅れているのではと思える程にゆっくりと感じられた。
まるで歩いているみたいだ。
【速度強化】と共に己の腕一本に重点的にかけた【筋力強化】で握った扇を振り上げる速度がまるで一流野球選手のバットのスイングに思えてしまう程の速度の差は、ちょっとだけ気持ち悪く感じるほど。
時間の流れそのものが違ってしまったような、そんな感覚だった。
それでも、シスターの仮面を被った気味の悪い女は少しずつこちらに近付いてくる。
ので、オレはその横っ面を思いっきり……横っ面どころか顔面を【筋力強化】で強化した腕で、【硬質化】をかけた扇子でもってフルパワーで殴りつけてやった。
まだ同時に2つしか呪文を同時に使えないオレでは【硬質化】がかかった直後に【速度強化】が解除されてしまって、まるで顔面を殴打した瞬間に時間の流れが戻ってきたかのようにシスターの顔面が砕ける生々しい音と共に物凄い速度で道の脇の木に直撃する。
一本、二本。
背中から木の幹に叩きつけられた女の悲鳴は、女性のものとは思えない牛みたいな声。
その声も木の倒れる音によってかき消されて聞こえなくなり、オレがフルスイングの体勢から戻った頃にはもうもうと土埃が立ち込めている奥で女と木が倒れているという不思議な構図が出来上がっていた。
だが残念ながら、その音は【筋力強化】を解除した瞬間にオレが展開した【静音】の魔術で一切聞こえてきていない。
顔面を殴った瞬間の声は流石にタイミングが合わなくて聞こえてしまったけれど、木が折れる音も倒れる音も、村の誰も気付いていないだろう。
エリスの日記にはごくごく当たり前みたいに書かれていた技術だが、実際に使ってみるととんでもなく便利で……とんでもなく疲れる。
肉体的な疲労というよりは精神的疲労、と言うべきだろうか。
解除と、発動。
そのタイミングを考えるのはそこそこに難しくって練習の時には何度も失敗したものだった。
だが、もうもうと立ち込める土煙の中からあの女が起きてこないのをぼんやり眺めながら、オレは「最終的に一番便利なのは血や脂でも威力が落ちる事のない鈍器」説はそこそこ正しいのじゃないかと、思えた。