「急いで王都を出よう、ふたりとも。ここは……私の部下に任せて」
何も出来ずに、泣き続けるリリを抱き締めていたオレは、少ししてアレンシールの声でやっと顔を上げた。
もしかしたら自分も泣いたのかもしれない。
泣いてないかもしれない。
わからない。
もしも泣いてしまったら、折角フラウが整えてくれた最後の化粧が崩れてしまったんじゃないだろうか。
この世界には、この時代には、まだウォータープルーフなんてものもないだろうし、すぐに化粧も崩れてしまうだろう。
いや、魔術を使えば大丈夫なのかな?
そもそもエリスは化粧なんかしなくても全然美人なんだけど。
ぐちゃぐちゃと考えながら、震えるリリの背中を撫でる。
家に入るまではあんなに笑顔だったリリの表情は強張って、涙を流し続ける瞳はまるでどこも見ていないかのようだ。
そりゃあ、そうだろう。
眼の前で、こんな、家族が無惨な姿にされて、しまったら。
オレだって人のことは言えない、けど。
今はエリスの身体に入って魔女だなんだ言っているが、オレは平和な国と名高い日本の出身だ。
鼻血以外に血を見たことなんて、校庭でスライディングしてしまったやんちゃな男子が膝を擦りむいたりなんなりしたような、そんな時くらい。
ずっと勉強漬けだったオレは自分が怪我するほど暴れる事もなかったし、出した鼻血だって運動会の組体操で他の生徒の膝が顔面ヒットした時と、勉強のし過ぎて知恵熱を出した時くらいのものだ。
血がこんなドロドロと床を這うなんてことも知らなかったし、頭があんな風に……あんな、布切れみたいに破れて白い骨が見えるなんてことも、知らなかった。
血があんな風に、ゲームの中みたいに、天井や壁に散るなんて、まさか、そんなものを見るなんて。
思わずぎゅっとリリを抱きしめてから、ハッと気づいてアレンシールを見る。
いつの間にここに来ていたんだか分からないアレンシールは、血塗れの家の中をウロウロとしてから裏口を確認してから無言で戻って来る。
彼の顔色はかぶっているフードのせいでよく見えないが、握りしめられた拳がその感情を現しているようだった。
ちゃんと隠れててくれたのか、とか、いつの間にここに、とか、部下って誰ですか、とか、聞きたいことはいっぱいある。
いっぱいあるけれど、オレも、リリも、頭の中がいろんなことでぐちゃぐちゃで、それを素直にアレンシールに向けて言葉にする事が出来なかった。
「と、とむら、いは……」
「私の部下に任せよう。今は、誰にも知られないようにここを出るんだ」
「そんな……そんな……」
「……今は、それがベストなんだ」
ブツブツと小さく囁きながらアレンシールに縋ろうとしたリリの手は、軽くアレンシールのマントを握ったかと思うと力なく垂れて落ちてしまった。
身体の力が入らないのか、絶望が強くて身体を動かす気力がわかないのか、どっちかは分からない。
どっちもかもしれない。
ただ見ているだけのオレが、腰を抜かしたみたいに立てなくなっているんだ。
当事者であるリリの頭の中がどうなっているのかは、想像しないでもわかる。
「おそらく、ここを襲撃した者はバーラントさんを確実に魔女に仕立て上げるつもりだろう……君が、君たちがここに居れば、ご家族の後を追うことになるかもしれない」
「それは……」
「今は……逃げよう。絶対に、報いは受けさせるから」
リリとオレの前に膝をついて、アレンシールは苦渋の表情でリリの手を握った。
リリを魔女に仕立て上げる。
それは、多分、間違いない。
オレが夢で見たあの断罪を、処刑を、無事に行うために「誰か」がここを音もなく襲撃して邪魔者を排除していったのだ。
標的の一人であるリリが登校して、オレと共にこの家にやって来るまでの、ごくごく短い間に。
悔しくて苦しくて、胸の中がむしゃくしゃする。
出来る事なら今すぐに「誰か」を見つけ出してぶん殴ってやりたい。
でもそれは、出来ない。
リリを魔女に仕立て上げようとしているのは、まず間違いなくダミアンだろう。
あの夢が現実になるのなら、確実にリリとオレを断罪するためにまずは始末するのが簡単な方を殺したのだ。
しかし、だからってダミアンをぶん殴りに学校に行けばそれこそ魔女裁判だ。
あの学校の様子を思い返せばダミアンは確実にすでに登校をしているだろうし、あの性格からして平民の排除のために自分が出ていくはずがない。
部下を使って、自分は完璧なアリバイがある状態で邪魔者を排除する。貴族にとってはそれが一番確実なやり方だ。
もしここでオレが、エリスがダミアンを殺しに行けばエリスが【魔女】である事は確定し国中から追われる身になってしまうに違いない。
そして結局、魔女狩りが行われるのだ。
きっと、「あのエリアスティールも魔女だったのだからお前も」と、あちこちに火花を散らしながら。
だから、アレンシールの言う事は正しい。
正しいけれど、リリの胸中を思うと、ただただ悔しい。
弔う事すら出来ずに逃げるだなんて……これから狙われるだろうノクト家にも何も、してあげられないだなんて!
「ウチの方はきっと大丈夫だ。ノクト家には私設騎士団があるし、王家にもツテがある。そう簡単に手出しは出来ないさ」
「……はい、アレン兄様」
「約束をするよ、バーラントさん。ここの弔いは私の部下に任せて。いつかきっと、墓参りに戻ろう」
「……っは、い!」
リリの声は、叫んでいるかのようにも聞こえた。
彼女の手は震えながらもエリスの身体を抱きしめ返していて、さっきまでぼんやりとしていた緑色の目は炎が挿したように燃えている。
怒っているんだ。
当たり前だ。
いや、きっと、怒っているだけじゃない。
彼女は、立ち上がろうとしているんだ。
アレンシールの言葉を聞いて、ダミアンへの怒りを胸に家族の復讐のために今は堪らえようとしているんだ。
強い子だ。
本当に、強い子。
こんな、エリスになる前のオレよりも10歳近くも若い子がこんな目に遭うなんて。
こんな気持ちになるなんて。
なんて、酷い。
「約束するわ、リリ。必ず戻りましょう。そして、ご家族に花を手向けるのよ」
「エリアスティール様……」
「立って! わたくしの転移で移動するわ。そして逃げたら……いっぱいいっぱい怒りましょう!」
リリは魔女じゃない。
まだ確定していないし、リリの希望だって聞いていない。
けれど、でも、リリが望むのなら、きっとリリは魔女になれる。
リリがそう望むのなら、オレが絶対にダミアンに負けない最強の魔女に……「魔女の首魁」に負けないくらいのスーパー魔女に育ててやる!!
グッとリリの手を強く握って立ち上がると、呆然としていたリリも繋いだ手を握り返しながら立ち上がった。
沢山泣いた頬は真っ赤で、ゴシゴシ擦ったからちょっと痛々しくもある。
でも、彼女の目はまるで新緑の季節のように綺麗に燃えていて、黒か茶色の目ばっかり見ていたオレにとっては凄く新鮮な気持ちだった。
アレンシールと手を握って、3人ぎゅっと身を寄せ合う。
今のオレの転移魔術でどこまで行けるかは分からないが、とにかく遠く遠く……イメージ出来る中で一番遠くの、海の見える場所をイメージして自分の姿を送り込む。
そこまで行けなくったっていい。
とにかく遠くへ。王都を出てその先へ行ければいいんだ。
2人を安全な場所へ。
オレはとにかくそう願いながら、転移の魔術を発動させた。