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第17話 出現

『うちには、教育方針というものはないの』

 受信機から、真莉愛の声が聴こえてくる。アレクシスが架空の学校計画を話している間は、彼の素性に驚いたり、詐欺師の方が似合ってるとか偽の説明が長いとか、さっさと天塚君について訊いたらいいのにとか好き勝手に話していたが、本題に入った直後に天使の部屋は静かになった。澪央を始め、全員が前屈みになって受信機を見詰めている。

『天使は優秀だから、毎日勉強するだけで問題無いの。進路も決まっているのよ』

「……出た。『決まってる』」

 雫が呟く。澪央も同じ気持ちだった。夫婦の『本』を確認した時から知ってはいたが、肉声で実際に聴いて、初めて「本当にこんな言い方をするのだ」と現実味が湧いた。初対面時に、聖夜は『椎名さんはどこの大学に行くんだね?』と言った。それは、受験の失敗を想定していない訊き方だった。真莉愛も同じ考えの持ち主なのか。

(自分達が、そうだったから……)

 理屈では理解出来る。しかし、別々の人格を持つ二人が、同一人物のような思考と言葉選びをしているというのは澪央には気味が悪かった。

 ――少し、寒気がする。

 知らないだけで、二人にも違う部分はあるのだろうし、あると思いたかった。

『決まっている、とは? 天使君はもう大学に合格しているのですか?』

『いいえ。勿論、受験はこれからよ』

『……はて、ではまだ進学先は確定ではないのでは……まさ、か、裏ぐ……いえ、これは失礼致しました』

 朗らかな声が聴こえた後、暫くの間、音声が途切れた。誰もが口を閉ざしている。視覚的には何も見えないのに、和室の空気が想像出来る。聖夜の迫力に満ちた視線が脳裏に浮かび、体が勝手に緊張する。小さな声で明日香が言う。

「裏口入学って言いかけた?」

「……うん。裏口入学だと思う……」

「すんごい度胸……」

 直斗と雫がやはり控えめな声量で答える。三人の突っ込みにも似た会話で、澪央の緊張は和らいだ。

「違うって知ってて言うのはからかってるんでしょうね」

 そう話した後、少し笑みが零れる。別の部屋に居るから笑うことも出来るが、慧と紗希は焦っているかもしれない。

 沈黙を破り、聖夜が話し始める。

『不合格になる心配が無いという意味だよ。いや、これでも足りないかな。天使は不合格にはならない。天塚家の人間は志望校には必ず受かるという決まりがある』

『なるほど、理解しました。ですが、それなら尚更……お二方には私の計画に賛同していただけると思うのですが』

『何故? 勉強が出来ない子供達を集めて名門校に合格させるというのよね。申し訳ないけど、私は成功するとは思えないわ』

 真莉愛の声は何処かのんびりとしている。裏口入学を疑われても、アレクシス達を責めるような口調ではない。

『では、真莉愛さんは、慧のような生徒は勉強しても難関大学には合格しないと?』

『ええ。私はそう思うわ。理想としては良いかもしれないけれど、現実的では無いわね』

『志望校に合格する者が出ても、入学者の数パーセント止まりだろう』

 妻に続き、聖夜が厳かな調子で言う。もう話は終わりだという空気を感じる。

『……そうですか。分かりました』

 だが、こちら側の話は終わっていない。アレクシスは残念そうな声を出しているが、ここからどうするつもりなのだろう。

「ええと……今日の目的って、天塚君の成績をご両親に伝えて……ちゃんと話し合いをさせることだよね……?」

 何だか自信が無さそうに、直斗が皆に問い掛けてくる。明日香も困惑顔をしている。

「うん。でも、話終わっちゃいそうだよね」

「ああもう! じれったいわね。さっさとしなさいよ!」

『……しかしそれは、天塚さん達が言う、天使君の進学は決定事項だという言葉と矛盾してはいませんか?』

 頭を掻きむしりそうな勢いだった雫が、ぴたりと動きを止めた。皆で盗聴器の受信機を注視する。

『どういうことかね?』

 聖夜の台詞に、初めて明確な疑問の色が乗る。

『天使君の成績は、慧と同じくらいと聞いています。彼が目指しているのは都内の、あの赤い門がある大学ですよね。お二方の考えが真理なら、彼が合格するのは難しいのでは?』

「言った!」

 誰も雫の声に反応しない。皆、小さな黒い機械を固唾を呑んで見守っている。

『……何を言っている? 天使は……』

『そうですよね? 家政婦さん……いえ、秘書の方』


     ****


「…………?」

 アレクシス以外の十の目が、瞬時にエプロンの女性に注がれる。保たれていた無表情にほぼ変化は無い。だが、瞳がやや大きく見開かれている。

 彼女が秘書だと気付いたのは、真莉愛が『森さん』と呼んだ時だった。キオク図書館で天塚夫婦の『本』に秘書の名前として『森 馨』と記述されていたからだ。

 馨が自分の素性を調べに行ったらしい行動をしていた頃から怪しさは感じていたが、真莉愛の一言と、あの時の様子で納得した。

 ここで馨に話を振るのは、“あなたは主人に嘘を吐いていた”という告発をすることと同義だった。だが、天使に本来の成績を訊き、彼が正直に答えたとしても、何故報告と違うのかという話になる。

 聖夜達に成績を正しく申告していなかった事実は、どういう流れでも明るみになるのだ。今日の目的を果たす為には彼女を犠牲にするしかない。

「仮に天使の成績が悪かったとして、何故、君がそんなことを知っている?」

「取引をしようと考えているわけですから。森さん程ではありませんが、多少は情報も集めますよ」

 肩を竦めて見せると、聖夜は苦々しそうにして顎を引いた。彼が表情を歪めたのは『商談』開始から初めてのことだ。ふてぶてしい仮面を剥がさざるを得なくなったということか。

「馨、彼の話は本当なのか」

「……………………」

 名指しされた直後の驚きは消え、馨は完全な無表情に戻っている。人形ではない証拠に、数度瞬きする。

「森さん……」

 心配そうに、紗希が彼女の名前を呼ぶ。少しばかり距離が近そうな言い方だった。廊下に出た時に雑談でもしたのだろうか。アレクシスは無機質な両の瞳と視線を合わせて、全てを知っていると伝わるような笑みを浮かべてみせる。

「……!」

 何かの衝撃を受けたような顔をした馨は、少しばかり目を伏せた。その状態で、恨めし気に睨みつけてくる。

「安心してください。話しても悪いようにはしませんよ」

 我ながら悪役の台詞だが、あながち嘘でも無い。彼女の『本』で人柄を確認してからになるが――もし解雇されたら「月と金木犀」で働いてもらっても良いだろう。

「…………」

 馨は短く溜息を吐いた。

「そうですね。ここで私が認めないと、そもそも……」

「待て、アレクシス……」

 余裕の欠いた慧の声がして、いつの間にか馨しか見えていなかったと気付く。彼は青白い顔をして汗を掻いていた。息も荒い。

「一回、止めた方が良い。天塚が……」

「慧? まさか……」

 室内の誰かがかなりの規模の『負』を放っているのか。彼が『天塚』と呼ぶのは天使だけだ。もしや、ここに来て『負』を持つようになったのか。

「か、神谷君、“また”? どうしたの? どこか悪いの?」

 天使は慌てた様子で慧に近付き、背中を擦る。直後、痛みで歪んでいた彼の顔から『苦』が無くなった。

「あ、いや、今、消えて……」

「本当に? もう大丈夫?」

「……ああ、平気だ」

 背を丸めていた慧が姿勢を正し、ほっと息を吐く。本当に痛みは感じなくなったようだ。

「良かった。神谷君は僕の特別な友達だからね」

「天使、彼とは前にも会ったことがあるのか?」

 聖夜の厳しい声が和室に響く。束の間見せた感情の片鱗は既に消えている。

「うん。そうだよ。神谷君とは友達なんだ」

 そこで、天使は黙り込んだ。馨の方を見て、今までに無い真面目な面持ちになると、父と向き合う。

「馨さんには、僕が頼んだんだ。本当は成績が悪いのを黙っててって」

「天使様、それは……」

「でも、高校受験は何とか間に合って合格したし、大学だって……」

 秘書の言葉に被せて早口で話し、時間を置いて下を向く。慧がびくりと体を震わせ、アレクシスは「慧」と声を掛けた。

「君は外へ出ていた方が良い」

 だが、慧は首を振って立ち上がろうとしない。ややあって、天使が顔を上げた。

「……お父さん、僕の成績じゃ、大学には受からないの?」

「ああ、難しいだろう」

『商談』をしていた時のように、聖夜は冷静で厳かだった。怒りの類は感じられない。

「だけど、馨さんに勉強を教われば……」

「馨が進学したのは数レベル落ちる大学だ。最高峰と呼ばれる大学は不合格だった。合格する方法を知らない」

「…………」

 馨が俯く。両腿に置いた彼女の手が、強く握られる。

「じゃあ、もし、僕が決まってる大学に行けなかったら? 別の大学でも、認めてくれるんだよね?」

 天使の声は、震えている。聖夜があの、全ての人間の意欲を奪い、怯えさせるような眼力を放った。紗希が、*馨が一瞬震える。

「合格出来ないなら、お前はもう不要だ。天塚家には必要無い」

「……!」

 隣で、慧が声にならない悲鳴を上げた。

「慧」

 アレクシスは急いで彼の腕を自分の肩に回した。和室の出口へ向かう途中で、心配そうに――そして哀しそうにした天使と目が合った。

「……やっぱりね」

 美しすぎる程に美しい少年は、この時確かに、こう言った。


     □■□■


 ――完全なる否定を受けて、解放されたか。

 キオク図書館で、退屈と感じることも無くなった退屈な時間を過ごしていた“彼”は、アレクシスが持ち込んで来たテーブルを見下ろしていた。何故見下ろしているかといえば、ただの気分である。

 テーブルに置かれたままのビリジアン色の『本』と鮮やかな赤の『本』の隣に、金色の『本』が現れた。

 皮肉にもそれは、クリスマスツリーの天辺に飾られる星の色をしていた。


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