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第16話 絵空事の駆け引き

「お待たせして申し訳ありません」

 和室に戻ると、紗希は座布団の上に正座した。足の痺れが限界に達していた時は、かなり本気で足を崩していいかと訊いてしまったが実行出来るわけもない。

(結局、皆とは殆ど話せなかったわね)

 生徒達との意識共有をしておきたかったし、同席に失敗した以上は『商談』の様子を知る方法が必要だろうと思ったのだ。紗希と生徒のスマートフォンを通話状態のままにして会話が聞けるようにと考えていたが、その必要も無くなった。

(まさか、盗聴器を持っているとはね……)

 黒い物体から真莉愛の声がした時は、『雪さん、遅いですね』に驚いて戻ることしか頭に無かったが、かなり常識外れだ。

(この部屋の何処かに仕掛けられているのよね……)

 見える範囲に視線を巡らせる。壺の中だろうか、収納場所の木戸の裏か、花瓶の中か――テーブルの下を手で撫でたくなるが、流石に自重した。

「どうしました?」

「い、いえ……」

 正面の真莉愛に声を掛けられ、ぎこちなく笑みを返す。

「では、私達のヴィジョンについて説明しますね。従兄弟の慧は、高校での成績が伸び悩んでいまして……」

 アレクシスが無駄に横文字を使いながら、偽のプレゼンテーションを始めた。ずっと黙っていた慧が抗議したそうに彼を見る。紗希と目が合うと、呆れのような諦めのような苦笑をして前を向く。

(そういえば……)

 自己紹介の時以来、慧は一声も発していない。今は落ち着いているようだが、先程の件についてはどう思ったのだろうか。

 天塚家を出るまでは、雪を演じなければいけない。直ぐに意見交換が出来ないことに、紗希は歯がゆさを感じた。


     ****


 聖夜が友人達を恫喝した時は、あまりの展開に驚き、特に後半の追い詰め方には怒りすら覚えた。その感情を、慧がどこまで隠せていたかは分からない。目の前の聖夜が放つ威圧感を恐れてもいたし、反意を見抜かれていないと思いたい。

「……ほう、そうですか」

 天使の父は今、アレクシスの方を向いていて少しばかり気が楽だ。退室した紗希を待っている間に気分を整えられたのは良かった。友人達が居た間は怯えや動揺から来たのだろう『負』の痛みを僅かに感じ続けていたが、それも治まっている。

「神谷君の偏差値は幾つになるのです?」

「それは……」

 ――アレクシスが数字を告げた直後。

「……!」

 突然、心臓が止まりそうになる程の強い眼光を受けて慧は軽く身を引いた。座布団ごと後方に下がった自分が慄き、顔に驚愕を貼り付けているのが分かる。恐ろしいのに、目を逸らせない。

 そして、これだけの激しい感情の動きがあるのに、怒りの『負』を一切感じない。

「おや、どうかしましたか?」

 アレクシスのとぼけた声が、二人を繋げていた不可視の糸を断ち切った。聖夜は笑みを浮かべ、慧から視線を外す。

「どうもしませんよ。続きをどうぞ」

「はい。慧は有名で偏差値の高い大学に進学して将来を安定させたいと言っていまして。高二の今からなら努力次第かと塾に通わせてみたのですが、他の塾生と合わないとストレスを抱えてしまい、勉強が捗らなかったんです」

 事前に決めた『設定』であるとはいえ、よくスラスラと喋れるものだと思う。そして、『設定』であるとしても、有りもしない問題点を抱えた生徒だと説明されるのは不本意な気分になってしまう。慧の実際の成績はもう少し高い。

 偏差値は天使の成績に合わせていて、慧は天使の代わりの役割を割り振られていた。慧に対する聖夜の態度で本心が分かるという計画らしいが、当人にはそれを事前に伝えていない。

(天塚は……)

 そう思った時、体に痛みを受けた。小規模の痛みが、消えずにピリピリと続き始める。

 斜め前の、テーブルの短辺の前に正座している天使を見遣る。にこにことした笑顔を崩さずに、彼はただそこにいた。

(天塚じゃないなら、誰だ……?)

 慧とアレクシス以外の四人の誰かが、徐々に『負』を抱えつつある――

「最近は高校も不登校になって、自宅で勉強はしているのですが中々に成果が出ず……しかし、雪に家庭教師をして貰うようになってから、少しずつ成績が上がってきたんです」

「……ほう」

 聖夜が相槌を打った直後、馨が和室に戻ってきて隅に座る。それを一瞥してから、アレクシスは話を続ける。

「それで、私は考えました。慧のような学生が他にも居るのではないかと。もっと学習し易い環境を与えれば、成績が伸び悩んでいる子供の、良い大学に入りたいという夢を叶えられるのではないかと」

「その実現の為に、学校を作ろうと? 素晴らしいわ」

 にこやかに笑い、真莉愛が言う。慈愛さえ感じるその表情から、『負』を持っているようには思えない。

「それでも、飲食店のアルバイトが手を出せる範囲を超えているのではないかしら?」

「アルバイトというのは名称に過ぎませんから。マスターから仕事を引き継ぎ、経営を一手に担っています。貯金額も相応にありますよ」

「そうなの? 森さん」

 不意に問いを投げられた馨に、全員が注目する。慧達にとっては背後であったが、三人共、軽く振り向いた。無言のまま、馨は頷く。

「…………?」

 その意味を理解するのに、暫くの時間が掛かった。正面に顔を戻してからも少しばかり考える。

(……飲食店の経営者……!?)

 家政婦であろう馨は、アレクシスの名刺を受け取った後に退室し、戻ってきた時には聖夜に何かを耳打ちしていた。名刺の内容の裏取りをして、それを報告したのだと考えると今の真莉愛の振りも、馨の頷きも筋が通る。

 彼女の反応は、アレクシスの言葉が真実であることを示している。いつ連絡しても屋上経由で学校に来るから無職を疑っていたが、そんなまともな仕事をしていたのか。ある意味、聖夜の眼力を超える、今日一番の驚きだった。

「今回の学校計画も経営が成り立つとの考えからです。世の中には、授業との相性が悪かったり勉強方法が分からずに成績が上がらない子供も多いでしょう。入学希望者は十分に集まると思いますよ」

 更に、土地はまだ探している段階であり、天塚家所有の土地以外も検討していて今回の商談候補の一か所に過ぎないのだと言う。そのタイミングで『雪』――紗希が教職免許を持っていると開示した。

「雪には現場に立ってもらい、成績が上がるように尽力してもらいます。彼女もやる気に満ちています」

「はい。私は教職員時代から勉強を教えるのが好きで、生徒のテストの点数が上がることにとてもやりがいを感じていました。またあの世界に入れると思うと、大変嬉しいです」

「聞いていると、塾でも成り立つと思うのだけど。塾ではなくて学校でという方針なのかしら」

 真莉愛が微笑みと共に訊ねてくる。彼女は真顔にならず、常に笑みを浮かべている。その顔からは、本心が見えない時の天使の笑顔が想起された。天塚家の息子は、容姿に関しては母親似のようだ。

「はい。学校として開校する予定です。全日制で週五日、教育するのが望ましいと考えています」

 さらりと紗希が即答する。今の質問は想定内だった為、三人は打ち合わせ済だった。『学校』にするのは天使の状況に近付ける為だが、別にどちらでも良い、とアレクシスは言っていた。

「そう。土地を買いたいとは言っても一括購入では無いのよね。学校であれば建設費用も莫大になるわ。私達としても、途中で計画が頓挫するかもしれない方には売れないの」

「大丈夫ですよ。そんなことはありませんから」

 アレクシスは胡散臭さ漂う笑顔で答えると、やがて笑みを引き、神妙な表情になった。

「失敗するかもと思うのなら、参考までに真莉愛さんの教育方針をお聞かせ願いたいです。天使君の勉学に関して、どういった指導をしているのでしょう?」

 ここまで時間が掛かったが、遂に本題に入った。慧は緊張と共に真莉愛に注目する。ちらりと紗希を見ると、顔が強張っていた。力が入って、柔らかく美しい肌が硬くなっている気がする。

(……!)

 また、体が感電を起こしたような痛みを感じた。この『負』の持ち主は――

 ほぼ意識せず、慧は天使の方を向いた。


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