「な、何を言ってるんですか? 私は上総 雪です。松浦でも先生でもないですよ?」
スマートフォンを手にしたまま、紗希は家政婦だろう女性に反論した。何故、正体が――本名がバレたのか。思考がまとまらず、平静な返しが出来なかった。
「教師の免許は持っていますが、結婚してからは教壇に立っていませんし」
学校を作るという建前上、経験者が居ないというのもリアリティが無いというので、元教師という設定で打ち合わせていた。しかし、先程の自己紹介ではそこまで開示していない――否、そんなことは関係無い。
(この人は、確実に私を知っている……)
松浦という本名を言い当てているのだから、間違いない。それでも、認めるわけにはいかない。
『あの、失礼ですが、どこかで……?』
彼女はそう言っていた。過去に何処かで会ったのだろうか。紗希を見上げ続けている女性は無表情だ。こんな特徴的な人物を忘れるとは思い難い。
「現役で高校教師をされていますよね?」
「あの、何か人違いを……」
「三者面談には出席しません。必要がありませんから」
「……!」
紗希の脳裏に、職員室での記憶が蘇る。受話器から聞こえた声が、今の声と重なった。
「あなたは……」
「こんなに手の込んだことをするくらいならもう少しお話を聞いたのですが。どちらにしろ、私には何も出来ませんが」
女性は口以外を一切動かさずにそう言った。あまりにも人間らしくなく、マネキンにすら思えてしまう。
「秘書の方、ですか」
「森 馨と申します。椎名さん達は天使様の部屋に戻られました。案内しますね」
家政婦――もとい秘書の馨は階段に足をかけ、はたと動きを止めて紗希に言う。
「邪魔なので、先に上ってください」
****
天使の部屋に戻った澪央達は、柔らかいソファに身を預けて脱力した。重力に逆らうことを放棄し、存分に体を沈める。高級感が有り過ぎてスイートルームみたいで落ち着かないとか、堂々と使うのは申し訳ないとか、そんな理性は自然と消え失せていた。この部屋は今、確実に癒しの空間だ。雲の上で休んでいるような感覚を味わっていると、雫が堰を切ったように言い出した。
「何なのあれ。怖すぎない? この私が泣きそうになっちゃったわよ」
今にも涙が出てきそうな、怒りと悔しさが綯い交ぜになった顔をしている。意地でも泣いてやらないという思いが伝わってくる。
「僕も、すごい怖かったよ……」
彼女を気遣うように、それでいて合わせているのではない、本心を感じさせる声音で直斗が言う。澪央は、不満そうだと聖夜に指摘された時のことを思い出す。
「私も何も言えなかった。それどころか、聖夜さんへの反感を否定しようとしちゃった。迫力に圧されたのもあるけど、表向きは正論だったし……でも」
聖夜の強い眼差しは、最早、視線の暴力だった。そう思うと、心が波打つ。
「雫さんへの態度は無いと思う。あんなに睨みつけなくても……」
実際はよく知る間柄でも、表面上は声掛けされたから答えただけに過ぎず、何も特別な行動ではなかった。
「それに、同席を提案したアレクシスをまず責めるべきじゃない? 流れ的に難しかったとしたら、後からでも……」
強烈過ぎて、雫だけではなく皆に圧が掛かる結果となったし、最初からそれを見越していたとしても、相手が違うのではと思ってしまう。
「うん……だけど、雰囲気を考えると、私達はあそこに残らなくて良かったよ。きっと、何も言えなかったから」
俯き加減になった明日香が言う。澪央もその通りだと思う。あれで委縮してしまった自分達は、意見を言う機会があっても聖夜の顔色を窺ってしまうだろう。
(もしかして……)
相手を従わせ易くする為に、聖夜はあえて委縮させているのだろうか。そして天使は、ずっとあの眼光を浴びてきた――
「…………」
考え込んでいると、直斗が元気無く、途方に暮れたように口を開いた。
「これから、どうしよう……ここで待ってるしかないのかな」
「そうね。和室の近くに行けば話は聞こえるのは分かったけど……」
彼への答えは尻すぼみになってしまう。そのやり方にリスクが伴うのは少し前に経験したばかりだ。だが『商談』の間、馨がもう和室から出ないなら、見つかることもないかもしれない。片眉を寄せ、雫が言う。
「また、聞きに行く?」
「その必要はありません」
ノックの音はしなかった。ドアが開き、馨が入ってくる。後ろからは紗希が続く。何が起きているのか理解する前に、家政婦らしい彼女は皆の近くまで来てエプロンのポケットに手を入れた。取り出されたのは、真っ黒い物体だった。
「モバイルバッテリー……?」
明日香の言葉を、馨は「いいえ」と否定した。反対側のポケットから掌より小さい丸い物体を出し、黒い物体のイヤホンジャックに差し込む。数秒後、丸い物体から『雪さん、遅いですね』という真莉愛の声が聞こえてきた。
「あっ、まずい。私は戻るわね。この人……森さんに正体バレちゃって。私達の関係にも気付いていると思うわ」
「えっ……」
雫が驚きの声を上げ、皆も同様に紗希を見る。しかし、彼女はそそくさと天使の部屋を出ていってしまった。静かな室内に『お腹が痛いと言っていましたからね。雪は腹痛を起こすと長いんです』というアレクシスの声が流れていく。
「あの、これって……」
黒い物体に注目して、澪央が言う。答えは聞かずとも明白だったが、確認しないわけにはいかない。
「盗聴器です。これで和室の話を聴いてください」
「え、あの……どうして……」
戸惑いと共に、直斗が立ったままの馨を見上げた。その問いは、友人達の総意だろう。何故こんなものを持っているのか。そして、何故これを提供してくれるのか。
「家政婦は『聴く』ものですから」
無表情のまま、馨はそれだけ発言した。