バスを降りて少し歩いた先に、その家はあった。高層ビルの類は無く、住宅が並ぶ中に背が低めのオフィスビルやテナントビルが点在する区画の中に、瓦屋根の屋敷が建っている。四方が瓦の乗った土壁に囲まれていて、正面には立派な門がある。
さすがに緊張を覚え、澪央は自分の身長を軽く凌駕している門を見上げた。
「すっご……」
同じく視線を上向けている雫が、呆然とした声を出す。直斗と明日香もぽかんとしていて、四人は暫くその場に立ち尽くしてしまった。瓦の上に止まっていた二羽の鴉が飛び立ち、鳴きながら去っていく。その大きな声で我に返り、澪央は門の脇にある呼び鈴を押した。今の時代に即したインターホンだ。『はい』と女性の声で応答がある。
「あ、あの、私達、天使君の友達で……」
『お話は伺っております。少々お待ちください』
抑揚の無い声に、皆の顔に疑問符が浮かぶ。明日香の両目が、普段より大きい。
「誰?」
「さあ……お母さんって感じじゃなかったよね」
雫が眉を顰めて答え、何か閃いたのか、直斗が明るい声を出した。
「お手伝いさんじゃないかな? ほら、こういう家って、家政婦を雇っていそうだし……」
「ああ、お手伝いさん……」
最近は家事代行を頼む一般家庭も多いと聞くし、そう考えるのが自然だと、澪央は納得した。これだけ立派な家だし、家政婦が何人居てもおかしくはない。けれど、実際に出会ったことは無く、彼女にとっては知識の中だけの存在だ。無意識に背筋が伸びる。
内鍵を外す音がして、門が少しずつ開いていく。四人の前に現れたのは、シンプルな白いブラウスに薄緑色のズボンを穿き、クリーム色のエプロンを身に着けた女性だった。年齢は、少なくとも三十代以上には見える。上品な大人の雰囲気を身に纏っているが、その顔は無表情で、何となく、家政婦が揉め事を解決するドラマの主人公を思い出す。
「天使様のご学友でございますね。こちらへどうぞ」
「は、はい。ありがとうございます」
澪央を先頭に、敷地内に入る。庭を一目見て、驚いた。丁寧に手入れされた日本庭園だ。そこに――キラキラとしたイルミネーションが飾られている。何ともミスマッチ感がある光景だ。
「うわぁ……」
雫が感嘆とも呆れとも取れる声を上げる。背後の様子を見ると、三人は物珍し気にあちこちに視線を向けている。
「毎年、この時期になると電飾を施すことになっています。社長と取締役の趣味なんですよ。クリスマスは天塚家にとって特別な日だからと」
「そうなんですか……」
後頭部に巻き付けられた黒髪を見ながら言葉を返しつつ、澪央は思う。
(特別な日の一人に、天塚君はちゃんと入ってるのかな……)
庭の敷石の上を歩き終わり、玄関の引き戸を開けると、笑顔だった天使の顔が意外そうに変化した。
「あれ? 何かテンション低いね」
「あ、あー……」
「そうかな……」
雫と明日香が苦笑いし、澪央は二人の内心を代弁するような気持ちで天使に言った。
「何だか、何もかもにびっくりしちゃって……お家の大きさにも、お庭にも」
そこで、右側の部屋の戸が開き、四十代から五十代ほどの男性が出てきた。着流し姿で、その顔は澪央がどきりとするくらいに美しい。ファンタジーゲームの外国人系主人公に歳を取らせて、現実に具現化させたような――およそ欠点が見当たらない風貌をしている。
「そうだろう。天使の友達は良く家に来るが、皆驚くんだ。君達みたいにぽかんとするというより、きゃあきゃあはしゃぐ子の方が多いがね」
「お父さん!」
迎えを待っていた子供のように、天使が輝いた笑顔を浮かべる。
「よく来たね。私は天使の父の天塚聖夜だ」
堂々と、はっきりとした発音で『イブ』と言った。少し語調を強めてさえいた。名前に誇りを持っているのが窺えた。
「初めまして、椎名澪央です。よろしくお願いします」
自己紹介をして礼をすると、他の三人も慌てた様子で挨拶する。
「よろしく。椎名さんはモデル活動をしているだろう。家の会社でも広告に起用したいという話が出ていてね。最近は雑誌で姿を見ないが、どうしたんだい?」
聖夜の口調は柔らかかったが、言外に不可視の圧力を感じて、澪央は息を呑んだ。ここは、読者モデルの現場と変わらない。仕事場だと思って答えなければならない。
「はい。受験の為にお休みを頂いています。撮影が出来ないのは残念ですが、今は勉強が第一ですから。今日は、天塚君のお家が歴史的なお屋敷だと聞いて、見学したいと思ってお邪魔させて頂きました」
カメラの前に立った時と同じ心持ちで、同じように笑顔を浮かべる。聖夜からの圧力が和らいだ気がした。
「しっかり見学していって構わないよ。椎名さんはどこの大学に行くんだね?」
「はい。私は……」
問われ方に天塚家特有のものを感じる。天使が受ける予定の大学名を告げ、建築学部だと出任せを言うと、相手の唇が綻んだ。
「そうか。頑張りなさい」
満足したのか、聖夜は右側の部屋に戻っていった。一気に体の力が抜ける。その途端、周囲の空気にわっ、と花が咲いた。
「すごいじゃん!」
「さすが澪央ちゃん!」
ひそひそとした息を形にしたような話し方で、明日香と雫が身振り手振りも加えてはしゃぐ。声を出さないのは、先程の会話が聖夜に聞かれていたからだろう。照れ笑いを浮かべていると、天使が上を指差して普通に言った。
「そろそろ僕の部屋に行こうよ。二階にあるんだ」
「そうね。天塚君のお部屋、どんな感じか楽しみだったの」
隣室に届いても問題無い台詞を選ぶ。キオク図書館で、天使は聖夜と真莉愛に会う手段として『取引相手になればいい』と言った。しかし、紗希を入れた大人二人に未成年五人が取引相手になるには無理がある。どんな取引にすれば成り立つのか思いつかず――そこで、高校生四人は友人として、慧と大人二人が取引相手として訪問することになった。後続の三人は、少々の時間を置いてアポイントメントを取っている。
良く磨かれた木製の廊下を歩き、角度の高い階段を上る。少し進んだ先にノブのついたドアがあり、中に入ると十六畳程の広い空間があった。中はフローリングの洋室で、床には絨毯が敷き詰められ、ふわふわのセミダブルベッドに大きな応接セットとテレビがある。勉強用の机と椅子、本棚がなければ、ホテルのスイートルームと言われても信じてしまいそうだ。家具も含め、内装は白と金で統一されている。
「ほら、ここに座りなよ」
今日何度目かの驚きに包まれている澪央達に、天使はソファを勧めてくる。
「あ、そ、そうね」
腰を下ろしたところで、ドアをノックする音がした。門まで迎えに来た女性がお茶の盆を持って入ってくる。彼女はテーブルに人数分の湯呑みを置くと、「ごゆっくり」と一礼して出て行った。
「ね、ねえ、椎名さん……」
直斗が遠慮がちにこちらを見てくる。どこか心配そうな表情をしている。
「体調は悪くなってない?」
「あ、そういえば……」
言われて気付いた。完璧な自分を演じている時に常にあった、全方向からの見えない圧迫と精神的苦痛を感じなかった。
「緊張はしたけど、大丈夫だった……みたい」
何でだろうと思っていると、直斗が嬉しそうに声を弾ませる。
「もしかして、治ったの? 良かったね!」
「え……?」
治ったのだろうか。最近は優等生の皮を被る機会がすっかり無くなっていたし、あの頃に自分を苛んでいた重圧は、勝手な思い込みから来ていたものだとも理解している。それでも、長年のプレッシャーが突然全て消えることはないと、時間が掛かるものだと思っていた。
「治ってたのかな……?」
天使から直斗を振った理由について攻められた時は、突発的な吐き気に襲われた。けれど、『演じる』ことに関する『負』の感情はいつの間にか消えていたのだろうか――
「……あのさ」
雫が言い難そうに、小さく手を上げる。
「私は、澪央ちゃんの、その……大変だったこと、直斗さんの『本』から知ったんだけど……」
「……うん」
抱え込んでいた苦痛に関して詳しい話をしたのは、直斗の部屋に行った時が最後だった。雫や明日香には話していない。
「周囲の目を気にして、無理に完璧を演じてたんだよね? ……やりたくないのに」
「……うん、そう」
二人の話に、明日香は少し眉を顰め、天使は湯呑みを両手で包んだまま、クエスチョンマークが見えそうな顔をしている。しかし、今は過去の自分について説明するより、雫の話を聞きたかった。
「でも、さっきは、澪央ちゃんが自分の意志で前に出てくれたでしょ? だから、大丈夫だったんじゃないかな」
「私の意志……」
その言葉は、すっと澪央の中に入ってきた。そうかもしれない、と思える。
他人に怯えながら意志に反して完璧を演じていたあの頃と今では、そこが違う――
「…………」
ふと、天使の表情が目に入る。きょとんとしていた彼の顔から能天気さが消えていた。何かを考えているように見える。
「ねえ……」
どうしたのかと訊こうとしたところで、ピンポン、というインターホンの音がした。
腕時計を見ると、アレクシス達が訪問してくる時間だった。