「よく分からないけど、元に戻って良かったね!」
そこで、キオク図書館に天使の声が響いた。皆が彼に注目する。やはり笑顔だが、アレクシスにはそれが、贈り物を前にした子供のように思えた。開きっ放しになった『本』に素早く視線を走らせるが、彼の思考は、もう何処にも反映されていない。
「僕の言葉が原因で、誰かがおかしくなってしまうのはさすがに大変なことだから……僕もちょっと焦っちゃったよ。ごめんね」
「あんたねえ!」
勢い良く雫が立ち上がる。怒りのままに天使に接近しようとする彼女の手を掴み、直斗が止める。
「いいよ。天塚君は外側から見た僕について正しいことを言ってたと思う……」
本当にいいの? と言いたげに困惑顔で振り返る雫に頷きかける。
「だから、それをどう思うかは僕の問題で……天塚君は関係無いよ」
その口調はどこか弱々しかったが、確かに彼の意志が込められていた。雫は溜息を吐いて、諦めたように脱力する。
「……分かった」
「うん、本当に丸く収まって良かった。えーと、皆、僕と話したかったんだよね? やっと話が出来るね」
にこやかに笑う天使を前に、戸惑いを含んだ空気が流れる。明日香と澪央は、顔を見合わせていた。二人の『本』に、明らかな拒否と迷いが綴られていく。
『これ以上、天塚君と話したくないかも……』
天使が明日香に放った言葉は、彼女の心を抉るものだった。土の中に埋めていたものを掘り返されたようで、また同じ目に遭いたくないという考えが強かった。
『どう話せばいいのか、分からない……』
一方、天使の件に積極的だった澪央は、先程の件で彼とどう接していいのか分からなくなっていた。それに――天使は現状に苦痛を感じていると決めつけていたが、慧は『負』を感じなかったと言っていた。そうであれば、自分達の介入は必要無いのかもしれない。彼の両親への怒りも萎んでしまっている。
『けれど、あの時――退学届を出して学校に来なくなった明日香を雫が迎えに行った時――屋上へ行く為の階段で、アレクシスは言っていた。“図書館に入った者が死んだことがある”と。それは、キオク図書館という“特殊空間”が行ったことなのか。偶々そういった不幸が重なっただけなのか。
関連は分かっていない。化学準備室でのアレクシスの態度から考えると、“本が無い”という現象が何か関係しているのかもしれない……』
あの時の話を聞いていたのか、と本の内容に驚愕して澪央に目を遣ると、彼女は慧を見ていた。
『神谷君はまだ天塚君に関わる気なのかな。もしそうだとして、それは善意で? それとも、図書館の……図書館に関わった皆の為……?』
今思うと薔薇の色にも見える、くすんだピンク色の本から顔を上げると慧と目が合った。開いた青の本には『どうする? このまま解散するわけにもいかないだろ』と書いてある。
「ふむ。そうだな」
敢えて声に出して答えると、皆が一斉にこちらを見た。アレクシスは天使に視線を据え、口を開く。
「天塚君、ここが現実とは異なる特殊な空間だということには気付いているだろう。今、このテーブルに広げられているのはここに居るメンバーの歴史が記されている人生伝だ」
「人生伝?」
天使は首を傾げる。幾つかのパターンだけがプログラムされていて、そこからランダムに選んでいるようにすら見える。
「だが、この図書館には君の『本』が存在しない。人として生を受けたのであれば、生者死者問わず必ず在る筈の『本』が何処にも無い。その理由は分かるか?」
「? 僕の歴史が書かれた本が無いの? その説明が本当なら、僕は人じゃないんじゃないかな」
他人事のように、天使は言う。実際にこれが他人の話であっても、彼は同じ反応をするだろうという気がした。
「両親が人間である以上、君も人だ。つまり、心当たりが無いということだな」
「まあそうだね」
また、小さく首を傾げる。アレクシスは高校生達を軽く見回した。
「彼女達はこの図書館について既知であり、君が両親から進路を無理強いされていると知って、それを改善出来ればと考えていた。その為には、まず交流を深めることだと……つまり、友人になろうとしていたわけだが」
「そうなんだ。じゃあ仲良くなろうよ」
「じゃあって……」
雫は、呆れと怒りが混じり合ったような声を出す。本には『こいつ何言ってんの?』と記述される。
「私はもう願い下げよ。性根を叩き直してやりたいとは思ってるけどね!」
「うん。いいよ。僕は近付いてくる人の理由に拘らないから」
「あ、そ、そう……」
全く動じる様子の無い天使に、『ついていけない……』と雫は口元を引きつらせる。しかし、来るもの拒まずの彼の方針は、アレクシスには都合が良かった。
「それは助かるな。家の事情に踏み込まれても構わないということか」
「そうだね。好きにすればいいと思うよ」
天使はあっさりと首肯する。この余裕は何処から来るのか。誰がが介入することで聖夜達が腹を立てたり、親子関係が悪化する可能性を想像しないのか。そんなことは起きないと信じているのか。そもそも、余計なお世話だとは思わないのか。
「そうか。近日中に天塚君の家に伺いたいのだが、協力してくれるか?」
「うん。いいよ」
拍子抜けする程、簡単に話が進む。もしや、今の状況を変える誰かを待っていたのか。
(『負』が感じられない以上、考え難いが……)
疑問は多いが、天使の思惑が何であれ、急いで突き詰める必要もない。
「話が長くなるかもしれない。まずは座って……」
着席しようとして、中途半端な形で立ち止まったままの皆が目に入った。天使以外は、俯き気味に表情を曇らせている。
「天塚君に関わるのは義務ではない。これまでは偶々、全員で動いていたが、気が進まないのに付き合う必要は無い。帰るなら出口を開けよう」
皆は顔を見合わせる。互いに発言を遠慮するような空気の後、雫が椅子に座った。直斗が戸惑い、視線を彷徨わせる。
「あ……えっと……」
「直斗さん、私に付き合うことないからね。無理しなくていいから」
不機嫌な表情を気遣わしげなものに変えて雫が言い、数秒迷うようにしていた少年は、「ううん」と首を振って席に着いた。
「雫さんが、天塚君の性根を叩き直すのを見ていたいから……」
「そ、そう……?」
雫は頬を淡く染め、複数の『本』に『キスしても初々しいんだ……』、『何か良い雰囲気……』、『…………』と追記されていく。それはそれとして、慧はアレクシスを一瞥してから椅子に座り、その行動を見て、澪央も続く。残った明日香は、躊躇を感じつつ口を開いた。
「ねえ、天塚君」
天使が「何?」と笑顔を向けると、びくりとして僅かに距離を取る。『本』には『さっきのことは許せないし、土下座して謝らせたいし、何を考えてるか分からないし怖いけど……』と高速で書かれていく。『本人の『本』で本音が確認出来ないのがこんなに怖いなんて……』と続いたところで記述が止まる。
「私は美容師になりたくて、サロンでバイトしたりして少しずつ勉強もしてるんだ。それを親に反対されて大学に行けって言われた時、本当に嫌だった。その前から、高校を出たら北海道に引っ越すんだって決めつけられてた感じもあって……」
明日香は言葉を切り、真っ直ぐに天使を見た。
「天塚君は、親から進路を強制されるのは嫌じゃないの? 成績に見合わない大学以外認められないなんて、腹は立たないの?」
――『もし、これで苦じゃないって言うなら、私が彼に関わる理由は無くなる』――
「うん。立たないよ」
即答され、明日香は無音の溜息を吐いた。アレクシスが出口を開ける必要があるかと考えていると、天使が言った。
「僕はあの大学以外認められていないんじゃないんだ。あの大学に行くって『決まってる』んだよ」
「決まってる……」
胸中に何か、波打つものを――違和感を覚えた明日香は『その言い回しは、先生からも聞いたけど……』と再び気を引き締めた。
「でも、それは親が決めただけのことだよね? 未来を見てきたとか、そういうことじゃないよね?」
話しながらも、明日香は天使が何か超能力を持っていても変ではないかもと思っていた。アレクシスも、その可能性は捨て切れないだろうと気付く。こんな空間が存在し、慧のような特殊能力持ちが居る以上、有り得ることだ。
「僕にそんな能力は無いよ。僕の人生は両親のものだから。二人が決めたなら、僕はそうなるように動くだけなんだよ」
――『訊かれたから答えただけという様子の笑顔が、ざらりとした気持ち悪さを引き起こす』
「いつの時代の話よ……」
苦虫だけでなく声まで噛み潰したように言い、明日香は椅子に座った。気が変わったらしい。
「天塚家は広い土地を管理運用し、企業の経営も世襲制だ。昔ながらの考えをしていてもおかしくはない」
異常だと感じてしまうのは、子に明らかに不相応な要求をしながら、両親が他者との話し合いに一切応じず、子もそれを当然としているように見えるからだろう。
「天塚君は、納得してるの?」
テーブルに目を落としたまま、明日香が訊く。天使がまた、きょとんとする。
「えーと……、『決まったこと』に納得するとかしないとかあるの?」
「え……?」
彼女は驚いた様子で僅かに振り向き、顔を顰めて視線を戻すと、「そう……」とだけ言った。
――『ここで帰っても、この先がどうなるか気になってしょうがないだろうし、残るけど……。天塚君って、自分では何も考えてないみたい。全部、彼自身の言葉に感じないというか……。彼の性格が見えてこない。
もしかして、天使には何かが欠けているのではないか。人が人として生きる為に必要な何かが――』
結局、全員がこの場に残る意思を示した。若干の気掛かりを感じつつ、アレクシスは天使を促す。
「君も座るといい」
「うん、そうだね」
残りの空席も埋まり、『尋問』の計画について話を進めることにする。
「目的は、君達家族三人が揃っている所で話をすることだ。担任である松浦さんが家庭訪問ならどうかと交渉したが、断られている。突然訪問しても相手にされないだろう。……ということで、玄関を開けてもらえる口実が欲しいわけだ」
広げていた複数の『本』を閉じ、ビリジアン色と鮮やかな赤の『本』を並べる。
「君の両親の本によると、二人共かなり遅い時間にならないと帰らないとある。そうなると休日を攻めることになるな」
「え! それ、お父さんとお母さんの本なんですか?」
天使が腰を浮かし、瞳を輝かせてこちらに身を乗り出してくる。予想していなかった反応に、アレクシスは驚いた。
「そうだが……読むか?」
「読みたいです!」
少し目を見開いたまま、二冊の本を渡す。
「ありがとうございます!」
嬉しそうに受け取り、先にビリジアン色の本を開く。そして、一ページ目から読み始めた。