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第7話 無自覚な毒

 明日香の『本』に、天使の思考が書き込まれていく。

『B組でも、直斗から告白を受けた少女がいた。少女は複数の女子達と天使を囲み、そのことを話題にしたことがあった。全然面識が無いのに付き合ってと言われた。他の子からも似たような話を聞いたし、好みでもないから断ったのだと。後日、E組の前を通った時に少女が言った。

“あ、ほら、あの男子だよ。告ってきたの。何か暗いよね”

“振られたから暗いんじゃなくて?”

“普段からああだって”

 少女達の一人が、訊ねてくる。

“天使君はどう思う?”

“僕は何とも思わないよ”

“あはは! 天使君ならそうだよねー”

 笑い合いながら、皆で廊下を歩いていく。直斗の姿が壁に阻まれて見えなくなる僅かな間、天使は彼から目を離さなかった。浮かんでいたのは純粋な興味で、自分は女子から何度振られても何も感じないが、彼は何故、振られると落ち込むのだろう。想いが成就しないと分かっていて、何故告白を繰り返すのだろう。

 理解出来ないだけで理解したいとは思わないが、少しだけ印象に残った。これを契機に、直斗はその他大勢から個人として格上げされた。見掛ける度に注意を向けるようになって、分かった。

 彼は、僕とは逆の意味で目立っている、と』

「僕は、僕が知っている事実と印象を話しただけだよ。それは、皆も分かっているよね?」

 無邪気に、何の裏も無さそうな問い掛けに、明日香は否定をせず、目をきつく瞑って俯いた。

「分かるよ。分かる。私は同じクラスだし、“逆に目立つ”彼を近くで見てきたし……だからこそ、それがどれだけ辛いことかが分かる。その事実を突き付けられたショックも……」

「? 近くで見てきた? だったら、どうして助けようとしなかったの?」

「それは……」

 目を開けて天使を見た明日香がびくりと肩を震わせる。彼女の『本』に文章が綴られていく。

『そういうものだったから。必要以上に彼に声を掛けないことが、クラスの不文律だと思っていたから。私は、クラスに溶け込んで上手くやっていたから。深い理由なんて無い。それは、私の平和を守る為……』

「えっと、伊瀬さんだよね? 文化祭の時に交際を申し込まれて、断ったんだよね? あの時、結構噂になってたよ」

「そ、そうだけど……」

「何で断ったの? 黒崎君が、僕が言った通りだったから、付き合いたくないと思って断ったんだよね」

 天使の瞳には、どこまでも陰りがない。悪意があるわけではない。ただ、純粋に疑問なのだ。だが、明日香は動揺した。

「ち、ちが……」

『私が黒崎君の告白を断ったのは、そんな理由じゃない。私は彼に対して話し掛けようともしていなかったのに、告白の対象として、少なくとも多少は好意的に見てくれていたのだと。それが申し訳無くて。それでも、彼を好きだとは思えなくて……自分の行動が罪深く思えて、断ったのだ。でも、黒崎君の“好き”が本気じゃないのも知っていたから、私をこんな気持ちにさせた彼に、腹が立った……』

「私は、黒崎君に対して偏見を持ってたから断ったんじゃない……!」

「そうなの? 本当に、そうだった? 椎名さんも?」

「え……?」

 突然矛先が向けられ、澪央は明らかな動揺を示した。これまでのやり取りから、天使との会話が危険なものだと分かっているからだろう。

「椎名さんも、黒崎君を振ったんだよね?」

「あ、あ、あ……それは……」

 澪央の表情が崩れていく。吐き気を催したのか、身を折って両手を口に当てた。

「二人共、自分に求愛してくる彼を滑稽だとは思わなかったの? 女子の注意を引くために孔雀のように羽を広げているような行動が、滑稽で愚かだとは」

 天使は相変わらず、きょとんとした表情を崩さない。台詞自体は、ファンタジーの悪役がせせら笑いながら言いそうでもあるが、彼はどこまでも、『理解出来ないこと』を『先生』に手を上げて訊いているだけなのだ。

「そ、そんなこと……!」

 反駁する明日香の『本』に『あの時の黒崎君は黒い犬の垂れ耳をつけていて、滑稽どころか可愛かった』と記されていく。

「思うわけないじゃない」

 そうして、澪央は姿勢を正し、はっきりとした口調で天使を否定する。

「私は、彼がどうだとか考えている余裕は無かったの。それに、あの時のことは私達の間ではもう解決してる。何を言われたって揺らぐことじゃないの」

「でも、断った。付き合うだけの魅力を感じなかったから」

「だから、それは……」

 説明をしようとした澪央の肩から、ふと力が抜けた。理解させるのを諦めたように見える表情だった。

「だったら、僕が変なことを言っていないと解るはずだよね。黒崎君は、どうしておかしくなってしまったんだろう」

「……それが、分からないの?」

 澪央は眉間を寄せて、珍しく人を責めるような調子で訊く。天使はあっさりと頷いた。

「だって、人の様子が変わるのって、『間違ったことを言われた時』だけだよね?」

「……? 色々あるけど……天塚君は、他を知らないの?」

「うん。知らないよ」

 天使はニコニコとした笑顔で即答する。彼の思考は今どこにあるのか。澪央と会話しているのだから彼女の『本』かと考えて開くが、天使の思考らしきものは増えていない。他の『本』も――

「……!」

 明日香の『本』から、先刻記されていた天使の思考が消えている。一度記録されたものが削除されているのだ。まさかと思い、直斗の本に目を移す。『黒崎君は、どうしたんだろう』という一文が見当たらない。長い『――』が途切れ、本の持ち主自身の感情が書かれていく。

『……ぼくはそんなに、みんなに求愛しているようにみえてたのか。じゃあいまも、ほかのひとたちにはそうおもわれたまま、そうおもわれてるのもしらないでぼくはがっこうにかよっていたのか。はずかしい。ぼくのうわさは、きえることはない。おんなのこたちにしていたことも、ずっとだれともはなさずにひとりだったことも……』

 直斗は黙ったまま、ベッド周辺にまとめて置いている通学鞄に近付いていく。彼は呆然としていて、意識が無いまま歩いていると言われても信じてしまいそうな表情だった。実際、表層では何も考えていないのだろう。文章が殆ど平仮名なのは、ほぼ無意識化で思考しているからだと思われる。

 しかし、その無意識は確実に彼の体を動かしていく。

 かつて、直斗はこう言っていた。

『あの時は、自分が底の無い穴に堕ちていくような気分になったんだ。やっぱり僕に価値は無いんだって。死ぬしかないって、頭の何処かから声がして。何も考えられなくなって……』

『……僕は……ああ、生きている意味なんて無いって……』

 今も、同じ状態なのだろう。アレクシスは「黒崎君」と声を掛ける。直斗の足が止まる。

「足を引っ張るぞ」

「足を引っ張る……あっ!」

 澪央が一気に張り詰めた顔になる。手で口元を覆い、視線を彷徨わせる。

「待って……でも、この図書館には、何も……」

 命を断てるような道具も無い。その筈だが――

「……ここで足を引っ張ったところでどうなるって言うんです?」

 平坦な声で直斗は言った。

「足を引っ張るって、それって……」

 雫が何かに気付いたように直斗の『本』に飛びついた。食い入るように目を近付け、「これ、あの時の……」と呟いた。慌てたように恋人を振り返る。


     ****


 雫は、直斗が屋上から飛び降りそうになった時、現場に居なかった。ただ、当時の状態を『本』で読んだだけだ。だが、その日の告白が失敗してから慧達三人に助けられるまでの心の空白を覚えている。何より、この『――』の羅列は、自分が彼を振った後と同じだ。あの時は『足を引っ張ったから生きてほしい』という三人の言葉を思い出して生きることにしたと言っていた。今回、その言葉に効果は無かった。でも――

 何かの切っ掛けがあれば、彼は止められる。

 ――私が、止める。

 私には、彼が必要だ。絶対に死なせない。死にたいなんて思わせない。

「直斗! 止めろ!」

 痛みで歪んだ顔で、慧が叫ぶ。

「誰からどう思われていようが、今は俺達が居るだろ! アンリだって、友達だ!」

 異変の理由を把握しきれていない筈の中、慧は確実に直斗の絶望を捉えていた。彼訴えに、前髪の間から見える目が揺らぐ。

「でも、僕は……」

 直斗は自分の鞄から出したペンケースから小さな鋏を手にして、先端を首に当てる。

「何処に居たって……進学したって……誰かが……」

「直斗さん!」

 雫は恋人に駆け寄り、鋏を持った手を横殴りに叩いた。首筋に尖った先端が擦れ、薄く赤い傷をつける。誰かが何かを言う暇も無く、雫は彼の頬を両手で挟む。そして――

 その唇に、口づけをした。


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