「……と、今はこんな状況ね」
現在の化学準備室には、慧と澪央、雫と直斗、明日香という五人の高校生が集まっている。とある日の昼休みに、お弁当をつつきながら北海道での報告を聞いた後だ。紗希を含めて六人が集まると、流石に手狭感がある。
「その後も両親の会社に何回か電話してみたんだけど、繋いでもらえなくてね。『本』を読む前と何も変わってはいないわ。このままだと、卒業時に進路が決まっているかどうか……」
「でも、あと一年ありますよね? その間に一気に学力が上がるかもしれませんよ」
雫が言い、紗希もそれについて完全に否定は出来ない。
「そうね。今年は様子を見て、三年時の先生に任せるという手もあるけど……」
「……駄目」
そこで、澪央が一際低い声を出した。下を向いて、怒ったような表情をしている。
「今の状態は普通じゃない。親から人生を全部決められてて、優秀な振りをしなきゃいけないなんて……」
「椎名さん……」
そういえば、と紗希は思う。澪央はある時期から、雰囲気が変わった。常にキラキラとした笑顔を浮かべ、意欲のある優等生という印象だったのが、知らない間に無理なく落ち着いた感じになっていた。一体、いつからだったのか――
「ぎりぎりの成績でうちの学校に入ったなら、高校受験も大変だった筈よ。本人の返事からじゃ、納得してるかどうかも分からないし……」
澪央は、天使に強く感情移入しているようだ。そこで、慧が思案気に口を開く。
「本人が苦痛なら、俺が近付けば『負』の有無で分かるんじゃないか……?」
「えっ、それ、大丈夫なの? 聞いてると、『負』があるなら結構大きそうだよ?」
直斗は何か心配そうで、慧の顔が少し曇る。
「大丈夫かどうかはその時にならないと分からない。でも、直斗が考える程のダメージはないと思う。B組の前を通った時に『負』を感じたこと無いし……」
「じゃあ、『負』を抱えていない可能性も……」
「ちょっと待って!」
男子二人の話に雫が加わったところで、声を上げる。紗希の静止に明日香も同意する。
「うん。私も待ってほしい。さっきから何を話してるの?」
会話を止めた三人が「あれ?」という目で紗希と明日香を見てくる。澪央だけが「そっか」と得心している。
「伊瀬さんも先生も、知る機会が無かったわよね」
「そうだったか?」
慧はぴんと来ていないようだったが、紗希が頷くと、しまったという表情になった。雫と直斗も顔を見合わせ、困ったような空気を醸し出している。
「言い難いことなら無理に聞かないけど……」
「あ、いえ、俺から話題にしたし、これからその場に居合わせることもあると思うし。ただ……」
無理に信じなくてもいいのでと前置きをした上で、慧は話した。
「そんな力があるのね……」
慧の持つ体質――能力について聞き、紗希はやっと先程の話を理解した。慧が天使に近付けば、『負』の感情を抱えているのかどうか――現状に不満を持っているのかが分かる。
「確かに、それなら天塚君の心の負担の度合いが分かるわね」
「はい。ただ、黒崎君の言う通り、神谷君に負担をかけてしまうのが気になりますね……」
紗希と共に、明日香も考えに沈む様子を見せる。二人で今にも唸りそうな顔をしていると、慧が怪訝気に訊いてくる。
「信じるのか?」
「え? あー……」
言われてみれば、易々と信じる話ではないのかもしれない。しかし、問われるまでそんな発想は全く無かった。
「そんなこと、考えもしなかった」
瞬きを繰り返しながら明日香が言い、紗希もそれに同意する。
「私も何も引っ掛からなかったけど……そうね。普通は疑うわよね。でも……何か、今更じゃない?」
「そうですよね。今更です」
明日香が頷く。特別なことなど何もないという答え方で、紗希も同感だった。慧はよく分からないという表情をしつつ、何故か雫と直斗をちら見してから視線を戻してくる。
「それは……キオク図書館を見たからか?」
「うーん、そうかもしれないけど、そういうんじゃなくて……」
悩まし気にしていた明日香の顔が、ふと真面目なものになる。
「私達、もうそうやって疑い合う仲じゃないよね?」
「…………」
慧が目を見開いた。驚いたのは彼だけではなく、発言した当人以外の全員が明日香に注目した。紗希も、自分の中にあった言語化出来ない気持ちが一気に晴れていくような気分だった。
「……な、何?」
「……ううん」
狼狽える少女に、雫が驚きを現したまま小さく首を振る。
「その通りだと思って」
「うん。言葉にするとそういうことだよね」
直斗は首を強く縦に振った。
「無自覚ではあったけど、そうだと思うわ」
紗希が頷くと、澪央は一人言に近い声音で言う。
「そっか。そうだったんだ……」
それは、信じる方ではなく、信じてもらう方の呟きのように聞こえた。慧はどこか呆然としているようだった。
「そう……そうなのか……」
「そうだ。君達には強い絆がある」
突然、化学準備室のドアが開いてアレクシスが入ってくる。私服姿だが、どこか制服らしく見える服装だ。黄色味のあるオレンジのベストにシンプルな白いシャツ、茶色のスラックスを着ている。
「まさか、ずっと俺達の話を読んでたのか? それで、図書館から直接……」
「正解だ。誰の本を読んでいたかは秘密だが」
狭い室内で、皆が何とも嫌そうな顔をする。紗希も同様に顔を顰めた。
「さて、強い絆を持つ諸君。私としては天塚君の『負』の有り無しで対応を変えてもらっては困るわけだ。椎名君もそうだな?」
「……ええ。私は様子を見るなんてこと、したくない」
澪央は硬い声で答え、闖入者は満足そうに笑みを浮かべた。
「大体、B組に一人も友人がいない慧がどうやって天塚君に近付くつもりだ? 不可能だろう」
「うっ……」
痛いところを突かれたというように、慧は椅子ごと僅かに後退した。
「じゃあどうするんだ? 大体、対応を変えられたら困るって……」
「天塚君には『本』が存在しない」
得意気な笑みはおろか、感情すら無かったかのように、アレクシスは真顔で言った。直後、慧の態度が改まる。
「そうか、『負』がどうとか関係無いのか……」
「そうだ。『本』が出ない理由を突き止めておきたい。『負』についても調べた方が良いだろうが、何も感じなくても、『本』の謎が解けるまでは関わっていく必要がある。何年掛かるとしても……だ」
「何年でも、か……」
慧は深刻な顔をして黙り込んでしまった。紗希は二人の話に引っ掛かりを感じて口を挟む。
「何年……? 受験が終わってもということ?」
「まあ、そうだな」
即答される。それは最早、天使の問題の解決とは関係無い――彼を調査対象としてしか考えていないのではないだろうか。自分のクラスの生徒についてだからか、靄々とした気分になってしまう。雫も疑問点を口にする。
「『本』が出ないって、そんなに大変なことなの? ……うん、でも、そうか……大変か……意味分かんないもんね」
「意味も分からないけど……うーん……」
直斗はアレクシスと慧を見比べる。
「何か、僕達が知らない重大な問題があるんじゃない? それで、理由を知りたいって……」
皆の目が管理者に集中する。「あるの?」と訊いた紗希は、自分の声に棘が混じるのを自覚した。アレクシスの顔に笑みが戻る。
「どうだろうな。皆が私とも強い絆があるというなら教えてもいいが」
勝ち誇ったような笑顔の前で、椅子に座る六人は誰も『ある』と答えない。雫が小さく挙手した。
「……あ、じゃあいいです」
「なんだと……」
アレクシスは笑みを驚愕に変える。「そんなことより」と慧が言う。
「そんなこと?」
「天塚に近付きにくいって言うなら、どうするつもりだ? 何か考えがあるんだろ?」
態とらしささえ感じる驚愕の表情を消し去り、管理者はにやりと笑った。
「簡単だ。彼等が一か所に居る時に尋問すればいい」