――十七年前のこと。
分娩室に、赤ん坊の泣き声が響いた。
生まれたばかりの子供の顔の造形は大差なく見えることが多いが、日頃から新生児と対面している医師や看護師は、僅かな違いから将来の姿が想像出来た。そんな彼女達から見て、この赤ん坊の顔は恐ろしく綺麗だった。成長したら――否、成長しなくても、集団の中で一際目立ち、輝くだろうと思えるような――
「おめでとうございます。元気で、とても可愛らしい男の子ですよ」
母に抱かせる時に、それをつい強調してしまうくらいに――
「可愛いのは知っていたわ。期待通りね」
高飛車で、かつ自信に溢れた答えに看護師達の高揚感が引いていく。だが、言葉だけを捉えればそこまで変な発言でもないのかもしれないと気を取り直す。親にとって子供は可愛くて当然であり、期待するのもまた然りだと考えたからだ。
「名前はノエル。私達の子なら、天使と同等の価値があるのだから」
――ノエル……
どんな漢字を宛てるつもりなのかと、持ち直しかけていた看護師達のテンションがまた低下した。
□■□■
「……そう、大学と専門学校の両方に行くことになったのね」
昼休みの化学準備室で、紗希は五人の高校生から明日香の進学問題がどう解決を迎えたのかを聞いていた。キオク図書館で彼女と担任の面談の様子を『読む』場に居合わせたが、その後は関わる機会も無かったのだ。
「伊瀬さんはその結論で納得してるの? 本当は夜間学校より全日制が良かったとか、そういう気持ちは無い?」
教師をしていると、様々な親子問題や進路問題を間近にする。親の正論に抗えず、言われるままに進学先を決める生徒もいた。出資者である親から理屈上最善である策を提案されたら、子供は受け入れるしかないのではないか。
「いえ、私にも本当は、大学へ行かないことへの不安はあったんです。考えないようにしていたし、夢を叶える為にはやむを得ないと思っていました。だから、両立の手段があるなら大学へも行きたいんです」
明日香の表情はさっぱりとしていて、裏に不満を残してはいなさそうだ。やっと安心し、紗希は素直に解決を喜んだ。
「それなら良かったわ。じゃあ、後は受かるだけね」
「うっ」
悪戯っぽく笑うと、明日香は痛いところを突かれたという顔をした。
「あの、先生……」
そこで、澪央が小さく手を上げる。何か心配事がありそうだった。
「
「ああ、彼ね……」
紗希は表情が曇るのを自覚する。天塚というのは担当クラスであるB組の生徒であり、屋上からキオク図書館に入ろうと試みたのは彼に関する『本』を読みたかったからだ。
その後、職員室で澪央に状況を話し、図書館と繋がらないかともう一度屋上に行き――明日香と担任の面談を『聞く』ことになったのだ。面談が終わると慧と直斗は学校に戻ったが、紗希と澪央は図書館に残った。
そして――
□■□■
「天塚
本棚が並ぶ異空間にて、アレクシスはいつもの表情を崩さなかった。言葉の割に珍しく思っているようには見えない。海外ではよくある名前だからだろうか。
「まるでクリスマスだが、名前の相性だけで結婚を決めたのではないだろうな」
冗談めいた言い方をしていたが、疑問に感じているのは本当のようだった。紗希も同じ考えだった。クリスマスをイメージする名前を持つ二人が、偶然出会って偶然お互いに好きになり、結婚する確率はどれだけあるだろう。
「『本』を読めばそれも判るか。生徒本人ではなく、両親の『本』で良いんだな?」
「ええ。まずは両親が何を考えているのか……両親が本当に存在しているかが気になるの」
「存在しているか? どういうことですか?」
そこで、ずっと話を聞く側にまわっていた澪央が口を開いた。怪訝そうに眉を顰めている。
「椎名さんには言ったでしょ? 両親に存在感が無いって」
「でも、都内で会社を経営してるんですよね? だったら、存在はしてるんじゃ……」
「そうね……だけど、少なくともうちの教師は誰も両親に会ったことがないの。去年の担任の先生も。椎名さんには、天塚君が三者面談が必要無いと言ってきたことと、両親に連絡が取れないということしか話してないわよね。もう少し詳しい話をするわね」
――彼が進路希望調査票を持ってきたのは午前中のことだ。都内の最高学府を第一希望とし、第二、第三希望は空欄で三者面談の希望日時には生徒の筆跡で『必要無し』と書いてあった。どういうことかと訊くと、記入の通りであり、これまでにも両親が面談に応じたことはないと答えられる。
『僕の人生は全て決まっていますので、面談は必要無いんです』
生徒は笑顔を浮かべてそう言い、去っていった。紗希はもう一度進路希望調査票を見直し、連絡先になっている保護者の経営する会社に電話したが、従業員らしき女性に不在であると断られた。
『三者面談には出席しません。必要がありませんから』
要件を伝えると、こう返答されて電話を切られた。瞬時に著しく腹が立ったが、冷静になってどこか得体の知れない気持ちの悪さを感じたのだ。
「それで、一年生時の担任の先生に訊いてみたのよ。去年はどうだったんですかって。でも、面談はしませんでした。必要無いと言われましたし、まだ一年生でしたから……って。面倒な臭いを嗅ぎ取ったような感じだったわ」
教師からしたら、天塚君の両親は幽霊みたいなものですよと元担任は言った。
「幽霊……」
「確かにそうよね。学校に一切顔も見せないし、通話さえ拒否するんだから……」
驚いた様子で呟く澪央にそう話すと、紗希はアレクシスに向き直った。
「これで分かったでしょう? まずは両親の『本』を読みたいの」
「なるほどな。しかし、それなら生徒の『本』も出しておこう。言動や態度に不自然さもあるようだし、確認する必要はあるだろう。生徒の名前は?」
「ノエル。天の使と書いて、天塚
「ノエル……」
アレクシスはこの名前を聞いても、やはり平然としている。『本』を出そうとして手を掲げ――動きを止めた。
「…………」
「どうしたの?」
やがて、その手は下ろされた。表情が明らかに変わっている。紗希の問いに、彼は呆然とした様子で答えた。
「……『本』が出ない……」