玄関ドアを支える形で立つ母――
(美容院もエステも行ってたもんね……)
明日香の緊張が、急速に萎んでいく。そもそも、桃花は顔の造形が元から整っている。小さい頃は自慢だったし、母としての仕事を疎かにもしない、理想の親だと思っていた。
それが、いつからか彼女の言動に見えない圧を感じるようになった。明日香という個に対して、自分の理想をイメージしているような気がして――
「めっちゃ美容院行ってるじゃん!」
そこで雫が大声を上げた。メッセージアプリをブロックした所為か、気まずそうに目を合わせようとしなかった桃花の片眉が上がる。
「何? あなた。明日香、進路の話をしに来たのにどうしてこんな大人数で来てるの?」
多少の後ろめたさはもう吹っ飛んだらしく、桃花は棘のある調子で言った。
「私をブロックするからだよ。相談したら、やりすぎだって一緒に来てくれたの」
「ブロックしたってパパに連絡すればいいだけでしょう。大学に行きますって、一言……」
「親にブロックされる子供の気持ち、考えたことある?」
桃花の顔色が変わった。絶句する母に、ポケットから出した新しい『退学届』を突き付ける。母は目を見開いた。蛍光ピンクの『本』を読んで、明日香の母への怒りは薄れていた。今日はどうやって説得するか、理解してもらえるかを考えていた。退学届は切り札だったが、本人の態度を前に湧き上がる怒りで、気付いたら出してしまっていた。
「これに名前を書いて判を押して。専門学校に行けないなら退学して、バイト代貯めて行くから」
「い、伊瀬さん! それ……」
「持ってきてたの!?」
直斗と雫が驚きの声を上げ、澪央は手で口を覆っている。慧は何故か、腑に落ちたような表情をしていた。
『あの金髪の人に聞かなかった? 保護者欄は本人に書いてもらって、印鑑も正式なものを押してきてください』
二枚目の退学届を取りに行き、一枚目の不受理の理由を訊いた時、受付の事務員はこう言った。ちらりと見ると、アレクシスは素知らぬ顔をしている。
廊下に即した小部屋から水が流れる音がして、ドアが開いて父――
「よく来たね。まあ中に入って。お友達もどうぞ」
伊瀬家の三人は最初、L字型に置かれていたソファに座った。だが斜向かいだと話しにくく、三人共ぎくしゃくした為、ソファを皆で移動させて向かい合わせにした。余談だが、アレクシスは眺めているだけだった。脚付きの木椅子四脚を明日香の背後に置き、高校生三人と管理者はそこに座る。雫だけ明日香の隣に座る。澄ました顔で「場所が無いんだから仕方ないでしょ」と友人は言った。
「大勢で来てしまってすみません。お手数をお掛けしてしまって」
澪央が謝ると、隆志はいやいやと胸の前で手を振った。
「家具の移動をしてもらったし、構いませんよ」
桃花は構わなくないのだろう。不機嫌に押し黙っている。
「それで明日香、それはどういうことなんだ? 高校を辞めたいのか?」
「辞めたくないよ。でも、大学進学以外認めないっていうなら、自分で学費を貯めるしかないから」
父に促され、これまで友人達に話してきたことを繰り返す。隣に住む憧れの美容師についても話した。
「学費を貯める……? まさか、アルバイトして……?」
蒼白になる桃花に、明日香は頷く。
「そこまで……そこまで、あなたは……」
母は顔を歪めた。退学を言い出す程、明日香が熱心だとは思っていなかったのだろう。
「でも、私達が引っ越すまでそんなこと思ってなかったんでしょう。髪も、二色に染めるなんて……隣の人の世界が眩しく見えるだけで……」
「一時的な影響じゃない」
語気を強め、話を遮る。それに関しては、担任の近藤に言われてからずっと考えていた。だから、すぐに反論出来た。母は驚いた様子で、続きを口にしようとはしない。
「隣に引っ越してきたのは斎藤さんっていって、まだ二十代だけど、比較的安いテナントが見つかったからお店を始めたって。お客さんとして来てくれると嬉しいって言われて、通い始めたの」
ずっと、黒い髪を茶色くしたいと思っていた。ショートカットにも憧れていた。イメージを伝えるのは難しかったが、彼女は明日香がなりたいと思っていたそのままの髪型にしてくれた。
「その時は色は抜かなかったけど、私は興奮した」
白くなった毛先に触る。これから左右の一部を少しだけ伸ばして、流す予定だ。初めて来店したあの日を、改めて思い出す。カラー剤が髪に馴染むのを待つ間、他の客との会話や感想も聞いた。誰もが驚き、満足していた。
彼女の技術と感性を知りたくなって、アルバイトをしたいと申し出た。そうして、土日だけだったが、雑用で参加するようになった。
「最初はちょっと興味があるだけだった。でも、バイトさせてもらって毎日彼女を見ていて、私もああなりたいと思った。誰かの夢を叶えて喜んでもらいたいって。これは、一時的な気持ちじゃない」
母はずっと厳しい顔で、眉間を指で揉んでいた。
「その斎藤さんという方があなたの前から居なくなっても、同じことが言える?」
「勿論、言えるよ」
そんな言葉じゃ心は揺れない。明日香にとって、今の母は『対戦相手』だった。視線を逸らさずに答えると、桃花はソファに背を預けて毒気が抜かれた顔で息を吐いた。それこそ『対戦』を止めるように。
「私はそうは思わない。彼女が居なくなれば、あなたはきっと美容師への執着と情熱を失うわ。そして路頭に迷うの。仕事を辞めても大卒なら次の就職先を見つけられる。お給料も多く貰えるでしょう。でも、専門卒なら……」
「決めつけないでよ! 自分が失敗したからって……」
「え……?」
「……あ」
桃花が、信じられないものを前にしたような顔をしてこちらを見ている。その表情が、何で知ってるの? と語っている。『本』からの情報をつい口走ってしまった。手で口を押さえて固まってしまった明日香は、母の視線を前にして、もう誤魔化せないと悟った。
「そうなんでしょ? ママは昔失敗してて、次の仕事が見つからなかったんでしょ? 大学にも行かないで……」
開き直って、静かに、問い詰めるように言いながら、明日香は気付いた。母はその後に大学に行っている。
――自分でアルバイトして学費を貯めて――
『本』を読んで、母は無職になった経験から大卒に拘るのだと思っていた。でも、それだけではなかった。悔しいが、母と明日香の思考回路は似ているのだ。目指す場所があれば、手段を探して叶えようとする。
アルバイトで学費を貯めてでも。
東京で同居している時から、母は明日香の行動を決めつけていたのだと思っていた。
けれど、それは少し違っていて。
彼女は『知っていた』のだ。
自分と明日香は似ている、と――その上で、路頭に迷って苦労する娘を見たくなかったのだ。
一緒にしないでと。私は美容師を辞めたりしないと、そう言うつもりでここに来たが、ここまでは理解しきれていなかった。
「ママは、私達親子は似てると思ってた。だから私も失敗して、将来に困るって……」
「……そうね。その通りよ。だから、高校から直接大学に行ってほしかった」
桃花は落ち着いた、優しい声で娘の言葉を肯定した。
「私は確かに失敗した。美容師なんて比にならないくらいの、消せない失敗をした。明日香がどこでそれを知ったのかは分からないけど、東京でも別に鍵は掛けてなかったしね」
年相応ではない美しい顔で哀しそうに笑う。ソファから立ち上がった母は、壁際にあるチェストの引き出しから細長いCDを出して持ってきた。今では考えられない、8センチCDというものだ。紙のパッケージでキラキラした衣装を纏った美少女達が笑っている。
「あ……」
澪央が小さな声を出す。桃花はCDを指で撫でると、語り出した。
「これを見たのでしょう? 明日香……」
明日香はジャケット写真から目を離せなかった。『本』で知っても、母がアイドルだったなんて実感が無かった。しかし、そこで自信に満ちた顔で笑っているのは間違いなく、若い頃の母だ。
「私はこのアイドルグループのセンター『モモカ』だったの」