明日香の両親が北海道に引っ越したのは、二年生になったばかりの春のことだった。父が転勤になり、母もサポートとしてついていくことになったのだ。
『ねえ明日香、あなたはしっかりしてるから一人で大丈夫よね? 一人暮らししてみたいって言ってたじゃない』
説得するという感じでも確認する感じでもなく、決めつけている話し方だった。結論が出ている上での雑談に過ぎない。
『卒業したら、北海道の大学に通えばいいわ。そうしたら、また一緒に暮らせるし』
母が言っているのはポプラ並木のある、あの大学のことなのだろう。だが、北海道は広い。家からもの凄く遠い大学を選んでやろうかと思った記憶がある。
今回、母は専門学校に行くという明日香の希望を認めなかった。あの人は、子供が自分の思った通りに動くと思っているのだ。
でも、『彼女』は違う。隣の部屋に住む『彼女』は――
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「マンションの隣に引っ越してきた人が美容師で、彼女が、人にとって髪型がどれだけ大事なものか教えてくれたんです。私も、彼女みたいな美容師になりたいと思っています」
「あの頃は、ハーフアップにしてたよね」
雫は話を聞いて、今年の春頃までの明日香が長髪だったと思い出す。
「そう。一人になってから切ったから、母は私の髪形が変わったことも知らないだろうね」
毛先が白くなった短い髪を摘み、少女は自嘲気味に笑った。
(明日香……)
彼女と両親との問題は想定進学先の相違だけではないのではないか――その表情を見ていると、雫はそう感じてしまう。
「明日香は……自分を置いていった癖に、進路に反対するお母さんに怒ってるの?」
「それもあるけど……関係無いよ。一緒に暮らしてたとしても、学費を出さないって言われたら、私は怒る」
「学費を出さない!?」
「学費を出さない!?」
雫と近藤の声が重なった。驚く二人に、明日香は頷いた。
「反対されるだろうとは思ってたから、親には黙ってた。でも、三者面談があるって知って、一時限目の休み時間に電話したの。そうしたら、学費を出さないって……」
友人の顔が歪む。隣に座っているから気が付いた。膝に乗せた両手が震えている。
「私、悔しくて。腹も立つけど、それ以上に、悔しくて。親に頼らないと、親にお金を出して貰わないと、夢も叶えられないなんて……」
「うーむ……」
近藤が両腕を組み、悩まし気に唸る。大学を出て数年ということもあり、正直、彼から頼もしさを感じたことはあまり無かった。とはいえ、雫も内心では唸ることしか出来ない。唸っていて、そして、閃いた。
「まさか、それで高校を辞めて学費を貯めようとしてるの!? そんな……そこまでして……」
「だって、そうしないと専門学校に行けないんだよ! もう他に手段が無くて……」
明日香が感情を爆発させた後、進路指導室が静かになる。おもむろに、近藤が口を開いた。
「あー……」
□■□■
「『親が未成年の進学資金を払うのは普通のことだ。学生には大金を稼ぐ手段が無いんだからな。伊瀬が自分を情けないと思う必要は無いよ』……まあ、そうだな」
アレクシスは依織の進学時について思い出す。桂花がこの世を去ったことで、星宮家の経済事情は特殊な状態になっていた。依織に、母の遺産が全額入ったのだ。だが、当時中学生だった依織に金銭の管理をさせるわけにもいかず、管理はアレクシスが行っていた。高校進学後の学費はそれで払い、成人後に遺産は依織の意志で折半されたが、その時点で彼女は収入の手段を確保していた。
『自分で何とか出来る間は、お母さんのお金は大切にしないとね』
そう言った上で、遺産には手を付けていないはずだ。つまり、アレクシスは彼女の保護者となった後も、学費は実質出していない。
しかし、これは特殊なケースであり、依織が得た職についても運とコネが重なった結果だ。一般的には、子供の学費は親が出すべきなのだ。たとえ、一八歳から成人と見做されるようになってもだ。
「ここには何人か規格外が居るようだが……」
キオク図書館に集まった面々を見遣る。慧と、澪央――
「椎名君はどうなんだ? 貯金は結構有るんだろう」
「私は……」
椅子に座った澪央が俯く。
「親が、出してくれると思う。モデルをしていた時のお給料は、四年分全額を賄える程じゃないし……それに、私が評価されて貰ったお金だから、私が必要だと思った時に使いなさいって……」
話し終え、彼女はアレクシスに不安定そうな目を向けてくる。何かを言いたそうに見える。
「両親の本を確認したいと?」
無言の頷きが返ってくる。「良いだろう」と答え、次に直斗と視線を合わせる。
「黒崎君も、ゲームの大会の優勝賞金がある筈だが」
「えっ、優勝!?」
澪央が驚き、慧や紗希も小さく声を上げた。普段より目が丸くなっている。
「あ、う、うん……僕もゲーム系の専門学校にするかIT系の大学にするか迷ってたんだけど、今は大学に行こうかと思ってて……その分のお金は賞金から出そうと……」
直斗は、どこか恥ずかしそうだ。慧は少し眉を顰めている。
「大会で優勝出来る程なのに、誰からも必要されてないとか思ってたのか?」
「そのくらいの人は沢山居るし、僕はソロ専だったし、必要とはされてなかったよ……」
どこか恨めしそうに、寂しそうに、直斗は俯く。長い前髪で顔半分が見えなくなった。慧は戸惑いの表情で「そ、そうか……」とだけ言った。
「本人がどう感じていたかというのは大事だ。それが過小評価か妥当なのかはさておくとしてな」
含みを持たせて話すと、慧は真面目に何事かを考え始めた。
「そうだよな。過小評価だったんじゃないか。今度、同じゲームをしてる人に訊いてみたら……」
「えええーーー」
直斗が悲鳴じみた声を出す横で、何とも言えない顔をしていた紗希が溜息を吐く。
「伊瀬さんが聞いたら、自分で払うって意固地になりそうね」
「話さなければ良いだろう。話す必要も無い」
「前は情報を隠すなとか言ってた癖に……」
慧は不服そうにぼやくが、アレクシスは動じなかった。
「あの時とは状況が違うからな。伝えるべきかそうでないかの区別がつかないとは、まだ自分の頭で考えられていないようだな」
「…………」
挑発的に笑ってみせると、人形店の少年はますます渋面を作った。彼にも悩みはあるようだが、今そこに触れるのは未だ早い気がして『本』を手に取る。
「さて、本の内容確認に戻るか。……この担任は中々に見込みがあるな」
□■□■
「僕には、どっちも冷静に考えられてないと思うなあ。何日か期間を置いたら、また違う考えになるだろう。学費を出さないというのも、驚きと混乱から出た言葉じゃないかな。伊瀬も、頭に血が上っているだろう」
近藤は担任としての口調を続けるのを止めて素に近い話し方をした。一人称も『私』から『僕』になっている。
「……冷静になっても、私の結論は変わらないと思います」
一方、明日香は硬い声を崩さない。頑なになり過ぎて、どんなに正しい意見であっても受け入れなさそうだ。それなら――と、雫は思う。
これ以上話を続けても、意味は無いんじゃないだろうか。
「お母さんともう一回話してみたらどうかな。まだ二年生だし、時間はある。今日明日に退学しなくても良いだろう」
「母は、もう私の連絡に反応しません。ブロックされました」
「ブロック……!?」
怒りが滲んだ明日香の答えに、雫も流石に若干の腹立たしさを感じた。それが、親のすることだろうか。近藤も絶句したようだったが、やがて落ち着いた声を出した。
「そうか……お父さんは?」
「連絡はしましたが、返信は来てないです」
明日香はスマートフォンを操作して、画面を上にして机に置いた。近藤と二人で覗き込むと、数時間前の『パパはどう思う?』というメッセージが最後だった。既読はついていて、この一文の前にはスタンプを交えた穏やかな遣り取りが残っている。
「……だけど、三者面談には来るんだろう?」
「大学に行かないなら来ないって言われました。それに……その頃にはもう、私は居ないと思います」
「! そんなこと言わないで! 私は辞めてほしくないよ!」
思わず机を叩いて立ち上がると、明日香の目に揺らぎが生まれる。雫はそれを見逃さなかった。視線を逸らして下を向く友人に、近藤が静かに言う。
「今の髪色も、お隣の美容師さんにやってもらったのかい?」
「……そうです」
答える声は、どこか乾いている。
「伊瀬は、サロンで働きたいという夢が、その人に影響を受けた一時的な夢じゃないと言い切れるか?」
「……!」
弾かれたように顔を上げ、明日香は近藤を睨みつける。だが、彼は顔色を変えなかった。
「勿論、本気なら僕も応援する。だけど、今の伊瀬に必要なのは時間だ。客観的に自分を見直して、もう一度考えてみても良いんじゃないかな」
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(私が美容師になりたいと思うのは、一時的な憧れなんかじゃない……)
面談が終わった後、明日香は授業に戻らなかった。一人で考えたいからと雫と別れ、一階にある事務局へ行く。教員資格は無い、事務専門の職員が集まる場所だ。
窓口の前に立って「すみません」と声を掛けると、座っていた職員は眉を顰めた。
「どうしたの? 今は授業中よね」
「あの……退学届が欲しくて」
――職員の目が、軽く見開いた。