――澪央が屋上のドアを開ける少し前。
「それで……伊瀬さんが先生と何を話すのかを、彼女の本で確認出来ないかな……」
E組の前で、直斗は遠慮がちにそう言った。彼がこれまでに読んだ『本』は恋人の雫のものだけで、お互いに了承済みだった。無断で『本』を開くことに申し訳なさがありそうだった。
「そうだな……」
だが、慧としても、明日香の『負』の原因――夢を抱くという明日香が追い詰められ、怒り、悔しがりながら高校を辞めると決めたその理由は気になる。
「アレクシスに連絡してみるか」
朝の遣り取りから沈黙が続いているが、反応はあるだろうか。そう思いつつメッセージを送ると、屋上に来るようにと返信が来た。階段を上がってドアを開けると、普段と変わらない腹立たしい笑みのアレクシスが立っていた。
「進路相談を盗み読みしたいということだったな」
「…………」
身も蓋も無い言い方に苦々しい顔になっていると、彼は口角を上げ、軽く息を漏らして笑った。
「そこに居られるとドアが開けられないんだが」
「あ、ああ……」
「す、すみません」
今は慧と直斗がドアを背にして立っている。それはその通りである為、素直に場所を空ける。アレクシスは早々にキオク図書館への道を開いて歩き出した。
「時間が無かった為、事前に慧の本を読めなかったわけだが……」
「読むな」
自分の本が読まれている気はしていたが、遂に堂々と言い切られた。
「今回は誰の本を読めばいい?」
「あ、対象は伊瀬 明日香さんです。漢字は……」
直斗が説明すると、アレクシスは手元に茶色の本を出した。ベッドに腰掛け、それを開く。慧と直斗はテーブルを囲んでいる椅子の向きを変えてに座った。前に来た時よりも椅子の数が増えている。
「さて、現在進行形で行われている進路相談の内容だったな」
「そ、そうだ! 早くしてください。もうとっくに始まってる筈です!」
椅子から半立ちになった直斗が慌てて詰め寄る。だが、アレクシスは悠然としている。
「焦るな。本は幾らでも前の時間まで遡れる」
「あ、そ、そうか……」
彼が座り直したところで、再び本のページが捲られていく。
「つまり、進路相談について読む前に伊瀬 明日香の『負』の理由を確認することも出来るが……」
「い、伊瀬さんは高校を退学するって言ってるんです」
「なるほど、だったら話し合いで触れられるかもしれないな」
「…………」
直斗とアレクシスが話すのを見ながら、慧は何かが足りないと感じていた。只管に本棚が並ぶこの空間に、当たり前に存在すべき何かが足りない。
(椎名……)
この場には、澪央が足りないのだ。
誰かの強い『負』の問題に直面した時、そこには常に彼女が居た。隣に座るのは直斗でもいい。だが、澪央には図書館の何処かに居てほしい。
屋上に来る前に声を掛ければ良かったと考える慧の耳に、アレクシスの声が入ってくる。
「では、面談の内容を……」
「……あっ!」
そこで、直斗が中腰になって声を上げた。そのほんの一瞬前に、慧も気付いた。
「椎名さん」
自分達が通ってきたドアがまた現れ、澪央と紗希が入ってくる。アレクシスが怪訝そうに振り返る。二人が近くまで来ても、彼はそのままの姿勢で動かなかった。
****
余程の顔をしていたのだろう。アレクシスは、自分を見る澪央達が疑問符を浮かべて近付いてくるのを、待つことしか出来なかった。
「アレクシス?」
「何か凄い驚いているようだけど……どうかしたの?」
澪央と紗希が声を掛けてくるが、問いに答える気には到底なれない。
「……どうやって入ってきた?」
「屋上のドアからよ。椎名さんが開けたの」
「椎名君が……?」
何故、入口が通じたのか。出入りできるのは管理者である自分だけであり、慧も何か特別な状況下――しかも本人の意志とは無関係な時しか開かない。そんな気軽に入れる空間では無いのだ。
(桂花……)
桂花は死ぬ前、アレクシスの部屋のドアからキオク図書館に入っていた。そのドアは、彼が頻繁に使っていたもので――
(私がドアをきちんと閉めていなかったのだと思っていたが、まさか、違うのか?)
同じドアを何度も使っているうちに、図書館と繋がりやすくなる――そんな可能性は無いだろうか。だから、招待されていない澪央も、偶然にもここに入れた――
「アレクシス?」
「いや……」
澪央の声で我に返り、話を変える。
「今、伊瀬 明日香の本を読もうとしていた。同席するか」
「伊瀬さんの……? 話、聞いたんじゃないの?」
「時間が無かったんだ」
慧が口を挟み、直斗と一緒に図書館に来た理由を説明する。今回はアレクシスも経緯を把握していなかった為、初耳だった。澪央と紗希は顔を見合わせ、少しの間の後に頷き合う。
「勿論、同席するわ」
「我が校の生徒の問題だものね。……面談なら、近藤先生の本もチェックした方が良いんじゃない?」
紗希の言葉に、アレクシスは抗議しないではいられない。本を読むのは誰だと思っているのか。
「私の口は一つしかないから一人二窓は出来ないぞ」
「アレクシスさん、その言い方は一部の人にしか通用しません……」
珍しく、直斗からの突っ込みが入った。
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「伊瀬のお母さんから電話があったんだ。突然、大学に行かずに専門学校に行くと言い出した。何か吹き込んだのか、進学校なのにどういう指導をしているんだ、と言われてね」
「そんな……そんな言い掛かりを……」
雫の隣で、明日香は薄くリップを塗った唇を噛んだ。その顔に、明らかな怒りが浮かんでいる。
「明日香……」
「先生にご迷惑をおかけして、申し訳ありません」
頭を下げられ、近藤は困ったように頭を掻いた。
「良いけど、お母さん、かなりの剣幕だったよ。帰宅してから大丈夫か?」
「一人暮らしなので」
硬い声で明日香が答えると、彼は「そ、そうだったか? ごめん」と慌てて謝る。
「後で、もう一度確認しておくよ」
「それに私、もう母と縁を切る覚悟は出来ています。父が母の味方をすれば、父とも縁を切ります」
「そこまで……」
近藤は口を中途半端に開けたまま、絶句している。
「……夢があるって言ってたよね。私はそれが羨ましかった。明日香は、何を目指してるの? 専門学校って……」
話しつつも、雫はあれ? と思っていた。高校を辞めてしまったら、専門学校には進学出来ないのではないだろうか。
「うん……」
明日香は一度雫に対して頷き、近藤に向き直った。
「将来、働きたいサロンがあるんです」