一時限目が終わり、試しに教室に戻ってみることにした。廊下に漏れてくる『負』は殆ど無く、二年生の教室が並ぶ三階は落ち着きを取り戻したようだった。E組の前も通ったが、先程のような大きな『負』は感じられなかった。
(とりあえず、不登校にはならないで済みそうだな)
人を助ける前に、自分が助けられる側になるところだった。その場合、誰が助けてくれるのだろうか――澪央や直斗、雫に、彼女の友人である明日香の顔が浮かぶ。
そうだ。本来当たり前のことだが、キオク図書館に入らなくても人助けはできるのだ。
何となく温かい心持ちで自席に戻ると、隣の席の少女が話し掛けてくる。
「もう大丈夫なの?」
「あ、ああ」
「そっか。良かったね」
少女は軽く笑い、友人との会話に戻っていった。
昼休みにいつも通りに屋上に行くと、冷たい風が頬を撫でた。よく晴れて日光も射しているのに、暖かさの恩恵はあまり無い。
保健室から戻る時に思い浮かべた、明日香以外の三人がバラバラに屋上にやってくる。それぞれ、ダッフルコートやピーコートを羽織っている。
「寒くなったねー。そろそろ校舎で食べない?」
お弁当を広げる雫の隣で、直斗も弁当箱の包みを解く。
「この学校、食堂が無いからね。別のクラスのと、と、友達……とお昼を過ごせる場所って無いかも」
友達という言葉を口にするのが慣れないのか、直斗の顔は少し赤くなっている。
「神谷君は去年はどうしてたの? 冬もここで?」
澪央はスープジャーにクラムチャウダーを入れてきていた。弁当箱にはピラフと色とりどりの茹で野菜が入っている。完璧に見える昼食に、また無理をしていないだろうかと心配になる。
「いや、冬は違う場所で……」
「まさか、トイレ!?」
雫が、はっとした顔で中途半端に膝立ちになる。
「違う。屋上に入る手前の階段とか」
「あ、ああ……」
心からほっとしたのか、彼女は力が抜けた様子で座り直した。
「そうよね。トイレを使わなくても一人になれる場所はあるもんね」
「トイレは人の出入りが多いから落ち着かないしな」
「あっ、それ分かるよ。個室を閉めてるだけで目立つしね」
一瞬で生気に満ちた表情になった直斗が、生き生きと同意する。経験者は語るの雰囲気を感じたのか、澪央と雫が顔を見合わせる。雫は少し反省したようだ。殊勝に肩を窄め、上目遣いで男子二人を見る。
「え、えーと……でも、そうだよね。お昼をトイレで過ごす人は今でも居るんだもんね。ネタみたいにしちゃいけないよね」
「え、ええ、そうね……」
トイレ関係の発言は一切していなかった澪央も、何故か申し訳無さそうにしている。
そこで、屋上のドアが開く音がした。キオク図書館の出入口としても認識してしまっているそこから、アレクシスが来るような気がして振り返る。
だが、姿を見せたのは紗希だった。出てきたばかりのドアに向き直り、開けて、閉める。また、開けて、閉める。
「あの、先生……?」
うーん、という声が漏れてきそうな顔をしていた紗希が、ドアから目を離した。
「あ、神谷君」
「何してるんですか?」
薄々予想はついたが、冷えたホットドッグを持って近付きつつ、一応訊いてみる。
「え、それは、えーと……」
紗希は直斗と雫に視線を向けて言い淀む。やはり、キオク図書館が目的だったらしい。
「図書館に関することなら、二人も知ってるから大丈夫ですよ」
「あ、ああ、そうなの……」
気を緩めたのか一息吐き、今度は堂々と彼女は言った。
「あの図書館にもう一度入りたいの。確か、招待がどうとか言ってた気がするんだけど、私じゃ入れないのかしら」
「そこは便利だから多用しているだけで、専用の入口じゃないんですよ。あと、自由に出入りできるのはアレクシスだけです。俺も、今は入れないと思います」
「そう……」
残念そうにする紗希に、慧は確認せずにはいられなかった。
「どうかしたんですか?」
E組の前で感じた『負』を思い出す。彼女はB組の担任だ。あの『負』とは関係無いとは思うが、何故、図書館に入りたいと思ったのだろうか。
「いえ、生徒のことで少し気になったことがあったのだけど……ほら、今日、進路希望の紙を配った
でしょう? その関係で……」
詳しいことはプライバシーだから、と濁された。そうして、白衣に包まれた体を小さく震わせる。
「冷えるわね。あなた達、こんなところで昼食にしてるの? コートまで着込んで……」
呆れ顔で、座ったままだった三人に近付いていく。
「ここに集まるのが習慣だったので……。ちょうど今、屋上は寒いねって話していたんです」
直斗が説明し、澪央が小さくこくんと頷く。
「でも、良い場所が思いつかなくて」
「そうなの? だったら、化学準備室使う?」
あっさりとされた提案に、その場の全員が驚き、喜んだ。
「良いんですか!?」
雫の瞳が、分かりやすく輝く。
「普段は職員室を使ってるし、私は外食派だしね。一度鍵を取りに来る手間が掛かってもいいなら、どうぞ。今日は、ここに鍵があるわ」
白衣のポケットから鍵を出して軽く振る。
「ありがとうございます!」
一も二もなく、雫は鍵に飛びついた。
化学準備室は多少薬臭かったが、小さな電気ストーブもあって暖かかった。
「この部屋、貸してもらえて良かったね。えと、松浦先生、図書館のことを知ってたみたいだけど……」
直斗が遠慮がちに慧を見てくる。お弁当のおかずは和食が多い。何となく、彼の祖母の顔が思い浮かぶ。
「ああ、ちょっと……この前、案内する機会があったんだ。色々あって……」
亡くなった弟の『本』を読む為とは言えなかったが、直斗は追及してこなかった。
「そうだよね。先生だって悩みはあるよね」
悩みとは違う気がするが――
「生徒の進路の関係で『本』を読みたかったって、何かあったのかな……」
「進路で何もないっていうのも珍しいんじゃない?」
心配そうな澪央に対して、雫はあっけらかんとしている。
「私は何もない方かな。自分の偏差値に合った大学に適当に行くつもりだし、やりたいこともないしね……」
最後の方は、僅かに目を伏せて勢いが無かった。弾ける飴の入った綿菓子を口にした時のような痛みを感じる。言葉とは裏腹に、進路について気にしているらしい。
「明日香は夢があるみたいで。調査票も迷わず書き込めると思う。私は志望校も決まってないから、羨まし……」
そこでメッセージアプリの着信音がして、皆が一斉にスマートフォンを見た。アレクシスからの返信かと慧もチェックをするが、画面には何の通知も無い。
「……えっ!?」
一際大きい声を出したのは雫だった。「えっ、えっ」と慌て、顔を上げた時には途方に暮れた表情をしていた。
「明日香が、学校を辞めるって……」