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第2話 分岐点の種

 一時限目が終わり、試しに教室に戻ってみることにした。廊下に漏れてくる『負』は殆ど無く、二年生の教室が並ぶ三階は落ち着きを取り戻したようだった。E組の前も通ったが、先程のような大きな『負』は感じられなかった。

(とりあえず、不登校にはならないで済みそうだな)

 人を助ける前に、自分が助けられる側になるところだった。その場合、誰が助けてくれるのだろうか――澪央や直斗、雫に、彼女の友人である明日香の顔が浮かぶ。

 そうだ。本来当たり前のことだが、キオク図書館に入らなくても人助けはできるのだ。

 何となく温かい心持ちで自席に戻ると、隣の席の少女が話し掛けてくる。

「もう大丈夫なの?」

「あ、ああ」

「そっか。良かったね」

 少女は軽く笑い、友人との会話に戻っていった。


 昼休みにいつも通りに屋上に行くと、冷たい風が頬を撫でた。よく晴れて日光も射しているのに、暖かさの恩恵はあまり無い。

 保健室から戻る時に思い浮かべた、明日香以外の三人がバラバラに屋上にやってくる。それぞれ、ダッフルコートやピーコートを羽織っている。

「寒くなったねー。そろそろ校舎で食べない?」

 お弁当を広げる雫の隣で、直斗も弁当箱の包みを解く。

「この学校、食堂が無いからね。別のクラスのと、と、友達……とお昼を過ごせる場所って無いかも」

 友達という言葉を口にするのが慣れないのか、直斗の顔は少し赤くなっている。

「神谷君は去年はどうしてたの? 冬もここで?」

 澪央はスープジャーにクラムチャウダーを入れてきていた。弁当箱にはピラフと色とりどりの茹で野菜が入っている。完璧に見える昼食に、また無理をしていないだろうかと心配になる。

「いや、冬は違う場所で……」

「まさか、トイレ!?」

 雫が、はっとした顔で中途半端に膝立ちになる。

「違う。屋上に入る手前の階段とか」

「あ、ああ……」

 心からほっとしたのか、彼女は力が抜けた様子で座り直した。

「そうよね。トイレを使わなくても一人になれる場所はあるもんね」

「トイレは人の出入りが多いから落ち着かないしな」

「あっ、それ分かるよ。個室を閉めてるだけで目立つしね」

 一瞬で生気に満ちた表情になった直斗が、生き生きと同意する。経験者は語るの雰囲気を感じたのか、澪央と雫が顔を見合わせる。雫は少し反省したようだ。殊勝に肩を窄め、上目遣いで男子二人を見る。

「え、えーと……でも、そうだよね。お昼をトイレで過ごす人は今でも居るんだもんね。ネタみたいにしちゃいけないよね」

「え、ええ、そうね……」

 トイレ関係の発言は一切していなかった澪央も、何故か申し訳無さそうにしている。

 そこで、屋上のドアが開く音がした。キオク図書館の出入口としても認識してしまっているそこから、アレクシスが来るような気がして振り返る。

 だが、姿を見せたのは紗希だった。出てきたばかりのドアに向き直り、開けて、閉める。また、開けて、閉める。

「あの、先生……?」

 うーん、という声が漏れてきそうな顔をしていた紗希が、ドアから目を離した。

「あ、神谷君」

「何してるんですか?」

 薄々予想はついたが、冷えたホットドッグを持って近付きつつ、一応訊いてみる。

「え、それは、えーと……」

 紗希は直斗と雫に視線を向けて言い淀む。やはり、キオク図書館が目的だったらしい。

「図書館に関することなら、二人も知ってるから大丈夫ですよ」

「あ、ああ、そうなの……」

 気を緩めたのか一息吐き、今度は堂々と彼女は言った。

「あの図書館にもう一度入りたいの。確か、招待がどうとか言ってた気がするんだけど、私じゃ入れないのかしら」

「そこは便利だから多用しているだけで、専用の入口じゃないんですよ。あと、自由に出入りできるのはアレクシスだけです。俺も、今は入れないと思います」

「そう……」

 残念そうにする紗希に、慧は確認せずにはいられなかった。

「どうかしたんですか?」

 E組の前で感じた『負』を思い出す。彼女はB組の担任だ。あの『負』とは関係無いとは思うが、何故、図書館に入りたいと思ったのだろうか。

「いえ、生徒のことで少し気になったことがあったのだけど……ほら、今日、進路希望の紙を配った

でしょう? その関係で……」

 詳しいことはプライバシーだから、と濁された。そうして、白衣に包まれた体を小さく震わせる。

「冷えるわね。あなた達、こんなところで昼食にしてるの? コートまで着込んで……」

 呆れ顔で、座ったままだった三人に近付いていく。

「ここに集まるのが習慣だったので……。ちょうど今、屋上は寒いねって話していたんです」

 直斗が説明し、澪央が小さくこくんと頷く。

「でも、良い場所が思いつかなくて」

「そうなの? だったら、化学準備室使う?」

 あっさりとされた提案に、その場の全員が驚き、喜んだ。

「良いんですか!?」

 雫の瞳が、分かりやすく輝く。

「普段は職員室を使ってるし、私は外食派だしね。一度鍵を取りに来る手間が掛かってもいいなら、どうぞ。今日は、ここに鍵があるわ」

 白衣のポケットから鍵を出して軽く振る。

「ありがとうございます!」

 一も二もなく、雫は鍵に飛びついた。


 化学準備室は多少薬臭かったが、小さな電気ストーブもあって暖かかった。

「この部屋、貸してもらえて良かったね。えと、松浦先生、図書館のことを知ってたみたいだけど……」

 直斗が遠慮がちに慧を見てくる。お弁当のおかずは和食が多い。何となく、彼の祖母の顔が思い浮かぶ。

「ああ、ちょっと……この前、案内する機会があったんだ。色々あって……」

 亡くなった弟の『本』を読む為とは言えなかったが、直斗は追及してこなかった。

「そうだよね。先生だって悩みはあるよね」

 悩みとは違う気がするが――

「生徒の進路の関係で『本』を読みたかったって、何かあったのかな……」

「進路で何もないっていうのも珍しいんじゃない?」

 心配そうな澪央に対して、雫はあっけらかんとしている。

「私は何もない方かな。自分の偏差値に合った大学に適当に行くつもりだし、やりたいこともないしね……」

 最後の方は、僅かに目を伏せて勢いが無かった。弾ける飴の入った綿菓子を口にした時のような痛みを感じる。言葉とは裏腹に、進路について気にしているらしい。

「明日香は夢があるみたいで。調査票も迷わず書き込めると思う。私は志望校も決まってないから、羨まし……」

 そこでメッセージアプリの着信音がして、皆が一斉にスマートフォンを見た。アレクシスからの返信かと慧もチェックをするが、画面には何の通知も無い。

「……えっ!?」

 一際大きい声を出したのは雫だった。「えっ、えっ」と慌て、顔を上げた時には途方に暮れた表情をしていた。

「明日香が、学校を辞めるって……」


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