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第1話 『負』の増える冬

 キオク図書館で晴希の本を開いてから、一週間程が過ぎた。秋も終わりが近く、窓を開ければ風はそこそこ冷たかった。暖房で上がった気温が下がり、淀んだ空気が澄んでいく。換気が終わって窓を閉め、ドア近くにある本棚の前で足を止める。小説や漫画、参考書が並ぶ中に小学生向けの伝記があり、背表紙には偉人の名前が書かれている。

(結局、あんまりアレクシスの本探しをしてないな……)

 話を聞いたのは、澪央と知り合ったばかりの頃だった。あの図書館にて、アレクシス自身の本は見つかっていない。それを探して貰いたいと言われたのだ。

 その時の、珍しく真剣な彼の表情が脳裏に残り続けている。


 卵かけご飯とインスタント味噌汁という朝食を摂りながら、慧はメッセージアプリを開いた。最近、一覧が少し賑やかになった。アレクシスのアカウントは、コンビニやらスーパーやらの企業系に挟まれていた。満月のアイコンだ。

『そういえば、アレクシスの本探しを全然してないけど、良いのか?』

 少し待ってみたが返信は無く、とりあえず頭を切り替えて朝食と洗い物を済ませる。制服に着替え、鞄にスマートフォンを入れようとして通知に気付いた。

『良くはないが、それよりも調べるべきことができた』

『何かあったのか?』

『大したことではない』

 本当だろうか。アレクシスが自分の本探しの優先順位を下げてまで調べようとしているなら、相応の事案にも思える。そうだとしても、本人が詳細を話さないのなら無理に聞き出すべきではないだろう。しかし――

 栞高校の屋上で、アレクシスは昏さを――『負』を湛えた目をしていた。慧が感じなくても『負』を持っていると宣言していた。

『本はもう探さなくていいのか?』

 詳しく聞くべきかと若干迷いつつ、本の話題に戻す。また、返信までに間があった。

『今は、慧が人を助けるのが一番の本探しだ』

『どういうことだ?』

 意味が判らずに問い掛けるが、アプリは沈黙したままだった。


  □■□■


 四方八方から全身に向けて、バチバチとした痛みがある。定期テストが十日程後にあるからか、高二も後半になればこうなるのか、特に理由も無く偶々なのか――最近の教室には『負』が増えている。

 登校した慧は机に突っ伏して時が過ぎ去るのを待っていた。授業が始まれば、皆勉強に集中する。少しはマシになるだろう。

 そう思ってたら、担任が教室に入ってきた。生徒名簿の他にプリントの束を持っている。出欠の確認の後に生徒達に配ると、彼は言った。

「一週間後までに全員提出するように。定期テストの後には三者面談を予定している」

 プリントは進路希望調査票だった。教室がざわつき、マシになるどころか『負』の痛みが増していく。皆が皆悩んでいるわけではなく、クラスメイトの半分かそれ以下だろう。それでもかなりの痛みに汗が出てきて、息が乱れる。

「ねえ、大丈夫?」

 隣の席から声が掛かる。

(椎名……)

 無意識にそう思って横を見ると、頬に少しそばかすのある少女が心配そうにしていた。違うクラスの澪央が隣に座っているわけがない。

「体調悪いなら、保健室に行った方が……」

 台詞と流れが、澪央と知り合った時と殆ど同じだった。彼女の生真面目な顔をつい思い出しながら、「ああ、そうだな」と答える。実際、これ以上教室に居るのは耐えられそうにない。

「先生、ちょっと……」

 席から何とか立ち上がり、話し続ける担任に断って足取り重く教室を出る。

 廊下を歩いている間、痛みはずっと続いていた。壁を隔てていても、各教室から『負』が飛んでくる。進路希望調査票は、一斉に配られているのだ。

(ここは……)

 他よりも追い詰められたような強い『負』を感じて足を止める。教室のプレートには『2年E組』とあった。直斗達のクラスだ。誰かが何かに悩んでいる。タイミング的に進路だろうか。以前から別のことで悩んでいた可能性もあるが、E組には度々訪れている。今日まで、ここまで重い痛みは無かった。

(後で、黒崎達に話を聞いてみるか……)


 教室の無い一階まで行くと、痛みは減少していった。保健室に到着した頃には怠さが残る程度だったが、担任に行き先として告げてしまった以上は入室しなければならない。

「あの、すみません、ちょっと体調が……」

 仮病を使っているような気分になって、少し後ろめたさがあった。

「あら、大丈夫? そこのベッドを使ってね」

 養護教諭の目線の先にあるベッドに向かい、カーテンを引く。横になると、静かな空間に書類仕事の音が耳に届いた。何となく気詰まりを感じ、スマートフォンとイヤホンを持ってくれば良かったと後悔する。

(進路希望調査か……)

 仕方ないので、配られたプリントについて考えることにした。

 実のところ、慧は進路について真面目に悩んだことがなかった。既に自作の人形を販売して生活している以上、無理に大学進学をする必要はない。

 しかし、いざ調査票を配られると、どう書いていいのか分からなかった。

(大学って、行っておいた方が良いのか?)

 造形を生業にしているのだから、進学するなら美術系になるだろう。だが、受験は大変だろうし、正直面倒くさい。

「……………………」

 そんなに直ぐに答えが出る筈もない。思考を放棄して天井を見詰めていると、保健室の引き戸が開く音がした。

「お疲れさまです」

 養護教諭の挨拶の次に、低い男性の声がする。

「二年C組の神谷という生徒が来ていると思うが」

「あ、はい。あそこのベッドに……」

 カーテンが開く。背が高く細めの体躯ながら、堂々とした雰囲気を発している担任教師――氷室ひむろ 大和やまと――が慧を見下ろしてくる。

「神谷、体調はどうだ」

「は、はい。もう大丈夫です」

「そうか。教室を出てからそう時間も経ってないが、大丈夫なのか」

 大和はただ事実を述べただけで他意は無いようだが、慧はうっ、と息を吞んだ。痛いところを突かれたが、痛くないのは本当だ。

「まあ、ゆっくり休め。今日はまだ始まったばかりだからこのまま帰ってもいいぞ」

「い、いえ、俺は……」

 教室に戻りますと言い掛けて、口を噤む。まだいつもより『負』が多いのなら、あまり気が進まない。

「分かりました。もう少し休みます」

「そうか。ところで神谷、小学校の時に妙なことを言っていたらしいな」

「え……」

 何故知っているのかと驚いていると、大和は何も無かったように話を変えた。

「ああ、三者面談だけどな。保護者の親戚とは馬が合わないんだろ。俺とサシでやればいいから」

「あ、はい……」

 呆然としている間に、大和は保健室から出ていった。静寂が戻り、再び書類仕事の音だけが聞こえる場所で、慧は両親のことを思い出す。大学に行かないと言ったら、二人は何と答えただろうか。

「人生伝、か……」

 両親の本を読みたいと思ったのは、キオク図書館を知ってから初めてのことだった。


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