テーブルを片付け、依織が自室に戻ったのを確認すると、アレクシスは桂花の遺品を持って自分の部屋のドアを押し開ける。図書館に入ろうとして、ノブに伸ばした手を止めた。
「…………」
桂花の『本』の最後は、あの瞬間で終わっているだろう。落下の衝撃と同時に命の灯を消し飛ばした、彼女の顔が浮かんでくる。感情が抜け、崩れた人形のような顔を。
――『本』を開きたくないと思ったのは、初めてだった。
出した手を引き、自室の椅子に身を預ける。小説を書けないからという理由で、人は自死を選ぶものだろうか。
(……選ぶ者もいるだろうな)
毎日、どこかで誰かが自死している。存在意義の喪失だったり、受験の失敗だったり、借金が返せなかったり、病気だったり、動機は様々だ。その中には『小説が書けない』という理由の誰かもいるだろう。
「しかし……」
桂花の場合は、自死の引き金となるには弱い気がする。新規案件はまだ始まったばかりであり、書けないと判断したならテーマを変えればいいだけだ。第一、彼女はそんなことで――そんなことと言うのは語弊があるかもしれないが――生を捨てるような性格ではない。
「……小説か」
席を立って、ドア付近に置いた桂花の荷物からノートパソコンを取り出す。机に置いて電源を入れると、パスワード画面になる。『本』で得て記憶していた、彼女が好きなカクテルの名前と割合の数字を入力する。デスクトップ画面が開き、左側に並ぶアイコンから『最新作』のフォルダを選ぶ。
「永久不変の夜世界……」
ファイルのタイトルに動揺する。まるで自分のことのようだと感じ、中を確認する。
小説の内容は、会社員の女性が趣味の夜散歩をしていたところ、ひょんなことから年下の青年と知り合い、毎夜、二人で散歩をすることになったという内容だった。普通、夜に男性に声を掛けられたら逃げると思うのだが、そこは色々あって一緒に歩くことになる。
青年は日本人であり、外国人ではない。不老の可能性に悩むという設定もない。しかし、口調がアレクシスそのままだった。
「これは……」
モデルは明らかに桂花と自分――に思えた。更に、ジャンルは恋愛だ。
「この話を書けなくなったというのか……?」
そうだとしたら。
自死の原因は小説が書けなくなった事象そのものではなく、その原因ということになる。
「私の所為なのか……? 私が、普通の人間では無いと知ったから……」
桂花は『個人の人生が記録されている図書館』に入り、アレクシスの正体に疑問を持ち、彼の体質の理由を予測した。そして、自身が抱いていた恋愛感情は、進展させてはならないものだと考えた。結果として、絶望し――
「そうなのか? 桂花……」
問いに答えられる彼女は、もう何処にも居ない。アレクシスは畳んだノートパソコンを持ち、部屋を出た。
****
ノックをすると、依織は数秒の間の後にドアを開けた。先程と同じ服装だ。
「……何?」
「読んでもらいたいものがある。桂花の小説だ」
目を伏せ、こちらを見ようとしなかった少女が、「え?」と顔を上げた。
「パソコンのパスワードなんて知ってたんだ」
「それだけ私が信用されていたということだな」
異空間の『本』を読んで知っていたとは説明出来ず、昼までと同じ調子で冗談めかして言ってしまった。だが、直ぐに後悔する。信用されていたのは間違いなく、それ以上の感情があったからこそ、桂花は――
そう思うと、今のは悪すぎるはぐらかし方だった。
「いや……すまなかった」
「何で謝るの?」
怪訝そうにする依織の声には棘があった。少女からすれば、桂花のアレクシスに対する信用を否定されたように思えたのかもしれない。
「小説を読めば分かる」
パソコンの向きを逆にして、依織に画面を見せる。マウスを渡すと、少女は黙って文章を読み始めた。
「……これ、お母さんとアレクシスだよね?」
画面に視線を固定したまま、訊いてくる。
「多分、そうだな」
「……これ、恋愛小説だよね?」
「……そう……だな。最初の方しか書かれてないが、そうだろうな」
「そうだよ」
怒っているのか不貞腐れているのか分からない調子で短く断定し、また口を閉ざしてしまう。沈黙の中で、心苦しさを感じながらもアレクシスは言った。
「私は……桂花が、私が関係を進展させようとしないから、この小説が書けなくなり、あんなことをしたのだと思っている」
自分が普通の人間ではないかもしれず、それにショックを受けての行動ではないかとは明かせない。
「依織にも促されていたのにな。私は、私のことしか考えていなかった……」
「自分のことしか考えられてないうちは恋愛じゃないらしいよ」
冷めた調子で、依織は言う。
「どこでそんなことを覚えたんだ」
「うーん……漫画?」
若干首を傾げてから、少女はパソコン画面に目を戻した。
「もしそうだったとしても、お母さんも何もしなかったんだから、アレクシスだけの所為じゃないと思うよ」
「……そうだろうか」
「それに、お母さんは……」
依織は画面から目を離さず、何かを考えている様子だった。やがて、ノートパソコンをぱたんと閉じる。
「本当にアレクシスが関係しているのかどうかはともかく……この小説が書けなくて、帰ってこなかったんだなというのは分かったよ」
「有り得なくはない、と思えたのか?」
警察署で、彼女は桂花がそんなことで自殺するわけがないと言っていた。小説とは全然違う何かがあったのだと。
「うん。有り得なくはなかったかも」
依織は微笑む。その表情が、かつて見た桂花の笑顔に重なった。
****
翌朝、リビングに行くとテーブルに食事が用意されていた。目玉焼きとサラダ、トーストというメニューだった。
「アレクシス、おはよー」
「ああ、おはよう」
パジャマ姿の依織が、二つのマグカップにコーヒーを入れる。片方には牛乳を追加して、それぞれの席に置いた。
「依織、君は……」
彼女は、早くも日常生活に戻ろうとしているのか。それが強さから来るものなのか、弱さから来るものなのか、アレクシスには分からなかった。
「さ、朝ごはんにしよ?」
椅子に座り、依織はトーストにジャムを塗っていく。
「……そうだな」
目玉焼きに醤油をかけ、カトラリーで切って口に運ぶ。
昨日のハンバーグより、味を感じる気がした。