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第5話 昼に浮かぶ月の下で

「最近、よく眉間に皺が出来てますよ」

 閉店後のBARで、カシスレモンソーダのグラスをマドラーで混ぜながら、桂花は言った。

「そうか。気を付けよう」

 ウイスキーを口にしてそれだけ応え、思い直してから話を継ぐ。

「私の姿が変わらない件について考えていた」

「気にしすぎじゃないですか? 今の三十代は若いですから」

 チーズの盛り合わせをカウンターに置き、一つに爪楊枝を刺してオリーブオイルをつけ、彼女はそれを控え目に齧った。

「見た目なんてそこまで変わりませんよ」

「……だが、多少は変わるものだろう」

 大人だから成長はしないが、劣化はしていく筈だ。肌が乾燥しやすくなったり小皺が出来たり、髪の色素が減り始めたり――と。

 そういった変化が無いことへの悩みは、桂花へも話していた。彼女の言葉通り、気にしすぎているだけという可能性もあると思えるからか。

 だが、本当の懸念はその更に先にあった。アレクシスは髪も爪も切ったことが無い。その必要が生じないからだ。

 最近の三十代は若いでは説明出来ない。これは、一切の細胞分裂が行われていないということを示してはいないか。

 この世の中には、人が正常に成長できなくなる病気も存在する。しかし、完全に大人になってから発症する病などあるだろうか。そもそも――

 これは病気ではなく、元々の体質なのだと、自分の勘が告げている。

 髪や爪が伸びないのが、正常なのだ。恐らく、見た目が衰えないのも。

(私は、本当に普通の人間なのだろうか……)

 これまで病院に行かなかったのは、検査をした結果、『人にはこんな細胞はありません』と言われるような予感があったからだ。

「老けないのは幸せなことだと思っておけばいいんです。私からしたら、羨ましいですよ」

「……まあ、そうだな」

 若さを保ちたいという、誰もが抱く夢を期せずして持っているのだとしたら、喜ぶべきであり悩むことではないのかもしれない。

 微かに笑い、アレクシスは氷を入れたウイスキーを口にした。


 図書館には、一度自室に入ってからドアを開け直して入っていた。床の上には『本』が沢山積み上がっている。初めて『アレクシス・カミーユ』の本を探そうとした時は何の啓示も出現も無かったが、後日に同じことをしたら問題なく本は出てきた。

「最初は『私』の本が目的で、後は同姓同名であることだけが条件だったからか……」

 同姓同名は多く存在していたが、本の中で、同時代に日本で行方不明になったり美咲や桂花に接触した者はいなかった。

 持ち込んだクッションソファーに座り、手近にある一冊を開く。読んでいるうちに記憶が戻ったり、『本』の中身が変化してアレクシスの知っている内容になるかもしれない――否、なってほしいと考えていた。

 初めてこのBARに来た五年前、桂花が流していた涙を思い出す。

 結婚するなら、自分がどんな存在なのか知っておきたい。異空間と行き来する能力を持つ、図書館の管理人は普通の人間なのかどうか――

 癖になってしまった、右手の爪を見る仕草をする。

「老けなければ、もしや死ぬこともないのか?」

 だとしたら、そこだけは心配しなくていいのかもしれない。


  □■□■


 毎日は平穏に過ぎ去っていく。桂花は小説家の仕事もしていて、昼は店をアレクシスに任せて、外にノートパソコンを持っていくことも度々あった。忙しい時は一緒に働いたりもしたが、日中に一緒にいることは比較的少なかった。

「お母さん、新作の依頼があって張り切ってるみたいだよ」

 仕入れた食料品を――ネギのはみ出たスーパーの袋を提げて『月と金木犀』に戻る途中、依織が弾んだ声で言う。

「私も嬉しい。お母さんの本、好きなんだ」

『お母さんの本』と聞いて、アレクシスの脳裏には金木犀色の『本』が浮かぶ。勿論、依織が言っているのは桂花の小説のことだ。彼女の文章はとても綺麗で、読んでいて気持ちが良い。

「そうだな。私も好きだ」

「今度のテーマは夜だって。夜の静かな雰囲気のお話にする予定だって」

 BARの前で立ち止まる。扉を挟むように立つ二本の木に、黄色とオレンジの中間のような色の花が咲いている。

「店の名前の金木犀は、お母さんの名前から。月は……」

 空を見上げる依織の視線を追うと、薄い水色の空に、白い月が微かに見えた。

「夜は冷たくて暗い世界に思えるけど、本当は暖かくて落ち着ける時間なんだって。月も同じ。私達を見守ってくれている……そういう意味」

 依織は月を見たまま、静かに微笑む。

「私、思うんだ。アレクシスは月みたいだなって。いつも一歩引いてて、誰かをせせら笑うばっかりで、自分は関係無いみたいな顔をして本心を見せなくて」

 さりげなく悪口を混ぜながら、少女は続ける。

「でも、ちゃんと暖かく見守ってくれている。傍にいると落ち着ける。そんな月」

「……随分とまた、過大評価をしたものだ」

「そうかな」

 話の名残を感じさせない笑顔がこちらを向く。

「さ、夜営業の準備しちゃおう。お母さんもそろそろ帰ってくるよ」

 灯りの消えた店のドアの鍵を開け、依織は中に入っていく。

 仕込みをするアレクシスの隣で、今日の夕飯はこれね、とハンバーグを焼いていく。

 けれどその日、三人で夕食を囲むことはなかった。


 桂花は、帰ってこなかった。


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