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第4話 祝いの日

 捕まった犯人は、当然と言えば当然だが、美咲とも彼女の夫とも、桂花とも関係の無い人物だった。免許取り立ての大学生で、ブレーキとアクセルを間違えたということ――になっていた。

「身代わりか……」

 大学生は事故を起こしてはいない。車は盗難車で、運転をしてみたくて盗んだと供述しているが、そんな事実は無く、郵便受けに入っていた現金五百万と『事故の犯人の身代わりになれば残りの大学生活を保障する』という手紙に釣られて自首しただけだった。

「五百万を出した者が犯人だろうが、故意だったのか偶発的だったのかは判りようがないな」

 手紙は無記名だった。差出人が不明である以上、『本』で確認するのも不可能だ。どこかの権力者がうっかり事故を起こしてしまい、身代わりのターゲットとして貧乏学生を選んだだけという可能性もある。

「この件は、私の胸に仕舞っておくか」

『本』について隠したままでは説明のしようがなく、何より、他の犯人の存在を桂花には知られたくなかった。

 そして――

 アレクシスは美咲の本を出そうと試みる。だが、本の場所の掲示も、手元に出現することもない。

「私と同じか。本が出現しない条件が何かあるのか……?」

 図書館の取扱説明書らしい大学ノートを開く。これは、人の手で書かれている。書き忘れの事項も、敢えて書かなかった事項もあるだろう。

 記入されていないルールを知る術はない。

「これで、図書館の管理人か……」

 まるで、臨時アルバイトのようだった。


  □■□■


 アレクシスが『月と金木犀』に来てから五年が経った。その間、不穏な出来事は何も起こらず、彼と桂花、依織は穏やかな毎日を送っていた。

 酒類を提供するBARは夜だけだが、アレクシスが入ってからはノンアルコールカクテルと軽食を出す昼営業も始めた。

「お待たせしました。海老とからすみのアーリオオーリオです」

 フロアテーブルの客の前にパスタの皿を丁寧に置く。

「うう、アレクシスが丁寧に喋ってると鳥肌が……」

 空いた席で宿題をしている依織が、寒さに震えるような仕草をする。彼女も中学二年生になり、すっかり生意気になっていた。

「宿題は終わったのですか? 依織様」

「やめてやめてー! 様とかつけないでー!」

 BARで仕事をする際に敬語を覚えた。桂花に『アレクシスさんの場合、執事かホストになりきれば様になると思います』と笑顔で言われ、『どちらが良いですか?』と選択を迫られた。

『そこはバーテンダーではないのか』

 と突っ込んだが『執事かホストですね』と譲歩が無かった為、執事にした。確かに、なりきってしまえば敬語も性に合わないという気はしない。

「そんなに慣れないのなら自室でやれば良いだろう」

「そうする……」

 依織は立ち上がった。二階の階段に続くドアに向かうが、一度途中で振り返る。

「あ、そうだ。今日の夜、覚えてるよね?」

「もちろんだ。夕方には店を閉めよう」

「良かった。楽しみにしてるね!」

 うきうきとした調子で、今度こそ少女は住居部分へと戻っていった。

「ちょっと前まで小さかったのに、すっかり大きくなったわねえ」

 昼の常連である中年の女性がしみじみと言う。

「でも、あなたは変わらないわね。三十一歳でしたっけ?」

「はい、そうです。三十路も過ぎてしまいましたね」

 免許証に載っていた誕生日によれば、その筈だ。だが――

 アレクシスはつい、爪を見遣る。目覚めた時から、一度も切ったことのない自分の爪を。


「お誕生日おめでとう、お母さん!」

 夜になり、普段より予算の掛かるフレンチレストランで、依織は嬉しそうに、炭酸が立ち上るぶどうジュースのグラスを掲げた。

「ありがとう」

 正装をした桂花が、嬉しそうに白ワインのグラスを合わせる。続いて、アレクシスも乾杯した。

「年齢は……」

「それを声に出したらお給料下げますよ」

 桂花の笑みから圧を感じる。彼女は今日で三十四歳になる。三十代になると、年齢を祝うのはNGらしい。

「それは困るな」

 スマートに流し、ワインを口にする。その時、ぶどう以外の――いつも嗅いでいるBARの香りが鼻腔をくすぐる。

「……何か、店の匂いがしないか?」

「あ、今日は金木犀の香水をつけてきたんです。お店の香りはフレグランスですけど」

 ふわりと笑う桂花は、場所の所為もあってか、普段よりも綺麗に見えた。

「そうか、香水か」

「嗅いでみますか?」

 彼女は、手首を上にしてアレクシスの首元に近付けてくる。普段よりも強い香りに、滑らかな肌の匂いが混じって不思議な気分になる。一段階、酔いが回ったような感じがした。

「いつもの香りだな」

 平然を装って言うと、桂花はふふ、と微笑んだ。

「本物も、そろそろですね」

 今は九月初旬であり、あと一か月もしないうちに本物の金木犀が咲くだろう。

「ああ。あの花を見るのも四回目だな」

 その後、こういったレストランお決まりのフィンガーボールの使い方のくだりをしたり、溶けるような肉を味わったり、大きな皿に少しだけ載った副菜に「少なっ」と突っ込みを入れたりして時を過ごした。

「本当に、おめでとう」

 桂花が無事に誕生日を迎えられて良かったと、心から思った。それと同時に、平和が脅かされる心配はもうしなくていいのかもとも考えた。

 時が過ぎ去るのは早いもので、あれから既に五年が経ったのだ。


 レストランからの帰り道、桜色のワンピースドレスを着た依織がこそっと話しかけてくる。

「アレクシスはお母さんと結婚しないの?」

 それは、色々な意味で非常に答えにくい質問だった。

「……私はただの住み込みアルバイトだ」

「もう、ただの、じゃないでしょ?」

 依織は悪気の無い顔でそう言うと、少し目を伏せた。

「家族になるのがアレクシスなら私も納得できるし……お母さんももう、いい歳だしさ。幸せになるなら、早くなってほしいじゃん?」

「…………」

 最近はめっきり桂花の本を読まなくなった。彼女が何を考えてるか、今のアレクシスは把握していない。二人の関係は表面上、五年前と何も変わってはいない。むしろ、桂花は変えようとしていないようにも思えていた。

 まだ、美咲の死を引きずっているのかもしれない。

「結婚、か……」

 そんなことをしてしまってもいいのだろうか。自分の爪を見詰め、アレクシスは考えた。


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