最初に訪れた時は、図書館から入った為にBARの外観が判らなかった。『月と金木犀』は、都内でも都心から少し離れた住宅街にある、独立した二階建ての家屋だった。一階がBARになっていて、二階を住居として使用している。
扉前の門のように、庭に二本の木が植えられていて、それが金木犀だという。秋になれば花が咲いて、良い香りなんですよと桂花は言った。アレクシスは、その花の香りを知らなかった。季節は春で、半年は待つ必要がありそうだった。
「日本での正しい登録状況が分からないと雇えないから、区役所で確認してきてくださいね」
アレクシスはただの居候ではなく、アルバイトとして雇われることになった。
桂花に言われて区役所に行き、様々な公的機関をたらい回しにされたり煩雑でややこしい色々なことがあった挙句に分かったのは、アレクシスは短期滞在で日本に来た後、行方不明扱いになっていたということだった。様々な手続きの末に日本国籍を得た後、彼は正式にアルバイトを始めた。
「行方不明届を出したのは美咲だったんですね」
その日の仕事が終わり、控え室で売り上げの確認をする桂花に、アレクシスは改めて日本国籍を取るまでの話をしていた。
「私が住所を貸してほしいと言われてから間もなくのことです。美咲とあなたはどんな関係で、短い間に何があったんでしょうね。不倫とか……?」
彼女の笑顔がどこか恐ろしい気がしたが、心当たりのないアレクシスに動揺は無かった。
「それも面白いな」
「ふふ、そうだったらここから追い出しますけどね」
「それは面白くないな」
「本当に面白くないです。だから、そうじゃないことを願っています」
桂花は作業をしていたノートパソコンを閉じ、微笑んだ。
「ほう……私を気に入ってくれたということか」
「そうですね。そういう面もありますが……あなたを逃がしたくないですから」
にこにことした表情のまま、彼女は続ける。
「美咲は交通事故で亡くなりました。犯人は、見つかっていません」
「まさか、その犯人が私だと?」
笑顔の奥から何かそら恐ろしいものを感じて、アレクシスは敢えてわざとらしく、冗談めかして訊いた。
「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない……。どちらにしろ、関係している可能性はあるでしょう」
世間話をするのと同じ調子で、桂花は話す。美咲が死んだその日に、同人が世話してほしいと言っていた外人が現れ、記憶喪失と主張しているのだ。関連を疑われるのも無理からぬことだった。しかし、美咲の事故については、間違いなくアレクシスの与り知らぬところで起こっている。その時、自分はかなりの高確率で――異空間にある図書館に居たのだ。
私はあの図書館でしばらく眠っていた――
何の根拠も無いが、そう思える。
「まさか、犯人を探すつもりか?」
「そこまでは考えていませんよ」
ノートパソコンの脇に置いた紅茶のカップを取り、桂花は静かに、穏やかに答える。
「ただ、あなたの記憶が戻れば何か分かるかもと、もしくは、あなたがボロを出す日が来るかもと、そう思っているだけです」
それが本音の一部なのか全てなのか、推し量ることは出来なかった。だが、彼女からは何か危うさを感じる。
(後で図書館で調べてみるか)
表面上でどう取り繕おうとも、桂花の『本』を読めばその本心が分かる。
アレクシスは、彼女に美咲の死を追ってほしくはなかった。仮に、美咲に何か秘密があったとしても――それはもう、葬られたのだ。
蛇が出てくるかもしれない場所を、ほじくり返す必要は無い。
「それなら、私はもう私について語らないようにしよう。ここに座っているのは、住み込みアルバイトのアレクシスだ」
「……ええ。あなたはただの、アレクシスです」
桂花は空になったカップを置き、ふわりと笑った。
□■□■
同日深夜、図書館に移動し、『星宮 桂花』の本を確認した。積極的に深追いこそしないが、アレクシスから何かが分かりはしないかと考えているのは確かなようだった。
九歳の娘――依織を守るのが一番大切なことだから、美咲、ごめんねと。
その部分を目にして、アレクシスは心から安堵した。
□■□■
「これは……」
翌日、長期滞在するのにいつまでも控え室で寝泊まりするのもと、二階の部屋を使ってくださいと案内される。
「あの、あの、だから、ごちゃごちゃしてるって……」
恥ずかしそうにあわあわとして、顔を真っ赤にして桂花は俯く。
大量の段ボールが、無造作に部屋に転がっている。中身が無いものもあれば、明らかに未開封で放置されている箱もある。他にも、乱雑に様々なガラクタが置かれている。
「おかーさんはじゃまな物をみんなここに投げてるんだよ」
邪気があるのか無いのか分からない告発を依織がすると、桂花はへなへなと座り込んだ。
「あ、おかーさんが溶けちゃった」
「恥ずかしい……他の部屋は綺麗ですから! ここだけですから! 余っている部屋なので物置に……」
「せめて開封した段ボールは畳むべきではないか?」
からかうつもりで軽口を言うと、羞恥で溶けていたのを忘れたかのように、桂花は平然と「そうですね」とそれを認めた。
「畳んでください」
「……私が畳むのか?」
「アレクシスさんの部屋ですから」
にっこりと彼女は笑う。これは、都合良く片付け要因にしようとしているなとアレクシスは察した。もしや、恥ずかしそうにしていたのも全て振りか。
「分かった。私が畳むから勤務時間として申請しておこう」
「えっ、勤務時間……」
「イオリもたたむー」
「ふむ。なかなか見所のある娘だな。依織にも給料を用意しておけ」
「イオリ、ハンバーグ!!」
「ハンバーグだそうだ」
依織は手前の段ボールを叩きつつ畳み始めている。小学三年生なら問題無く出来る手伝いではある。
給料の要求に中途半端に口を開けていた桂花は、ふふ、と笑った。
「お母さんのハンバーグはプロの味だからね」
調理師免許を持っている桂花は実際にプロであり、その日の夕飯の味は格別だった。
美咲が亡くなった事故の犯人が捕まったのは、その数日後のことだった。