『星宮 桂花は、都内でBARを経営している二九歳だ。生まれた時から東京に住み、他の都道府県に出たことはない。調理関係の専門学校在学中に小説の賞を取り、本を出した。卒業後はアルバイト生活をしていたが、二一歳で子供が生まれたことで退職し、しばらくは小説を書きながら子育てをしていた。子供が五歳になった時に趣味も兼ねてBARを始める。店の名前は「月と金木犀」で、場所は――』
桂花の本を読み終わったアレクシスは、パスポートに挟まっていた免許証を見る。ここに書かれている住所が彼女のBARだと大学ノートに記されていた。だがそれは、現時点では何の意味も成さないものだ。
図書館のドアを通して行ける場所には、管理者が『実際に行ったことがある』という条件がある。この空間以外に既知の場が無い彼は、適当に外に出て目当ての住所に向かうということが出来ない。
今の彼が外に出る手段として使えるのは、『手にしている本の持ち主の近くに繋がることも可能である』というルールだった。
つまり、図書館から目的の場所に住む人物の本を選び、手にすれば地球上の何処にでも行けるということでもあるが――
「そんなことをしても、意味は無いな」
知らない土地へ行っても、困るだけだ。
大学ノートを書いたのは桂花なのかもしれない。目覚めたら頼るようにと書かれている以上、行くとしたら彼女の下だろう。
「多少の申し訳無さはあるが、仕方ない」
桂花の本には、親友の『美咲』が夫と共に今日亡くなったとあった。悲嘆の中にいるであろう彼女を訪問するのは遠慮すべきなのだろうが、アレクシスとしても、気を遣っている状況ではなかった。本棚と本しかないこの空間に何日も居たら、飢えてしまう。
「せめて、金銭を置いてくれていれば良かったが……」
一文無しでは適当な場所に出て買い物をすることも出来ない。
アレクシスは『星宮 桂花』の本を持ち、スイッチを踏んでドアを出した。
「……なるほど」
この先に本当に外の世界があるのか、緊張も期待も特に無かった。心持ちは冷静であり、不思議と、何が出てきても驚かない自信があった。
淡々と、ドアを開ける。
「あ、すみません、今日、は……?」
その先は――見事にBARだった。ブルーやシックな黒、ブラウンでまとめた店が多い中、オレンジ色――黄色とオレンジが混ざったような色で統一された内装になっている。
カウンターの向こうで、ふわふわの長い髪をした、柔らかい雰囲気の女性がモヒートのカクテルグラスを前に立っている。目頭を押さえていた彼女は、その格好のままぽかんとした顔をしていた。
「あ、あの……どこかで仮装大会でもあったんですか……?」
「それは知らないが。……ああ、この服か」
アレクシスは中世の貴族が纏うような臙脂色の燕尾服姿だった。金糸で蔦模様の刺繍が入り、下の白いシャツの合わせの部分と襟には立派なフリルがついている。
「目が覚めたらこれを着ていた。私の趣味ではない」
「そう、なんですか……?」
桂花は何度か目を瞬かせて、それから、笑った。
「似合っていると思いますよ。この国では浮いてしまいますけど。あの……それで……」
「私は、アレクシス・カミーユ」
そこまで言った時、彼女の表情が一変した。明らかな驚きを示している。
「……というらしい」
「らしい……?」
「私には、これまでの記憶が無い。あなたを頼れと書かれたノートに従い、ここに来た」
「…………」
悲しみや驚きを束の間忘れたように、桂花は何かを黙考していた。
「偶然の巡り合わせなのか、何か関係があるのか……」
アレクシスと目を合わせ、質問してくる。
「記憶が無いなら訊いても無駄かもしれませんが……あなたは、美咲をご存知ですか?」
続いて聞いたフルネームに、今日死んだのだろうと言い掛け、飲み込んだ。大学ノートには『桂花に図書館と本について教えないように』とも書いてあった。何故かは分からない。ノートの記述者が桂花であれば、理屈は通らない。だが、五里霧中である今、ノートの指示は守るべきだろう。
「いや、知らないな」
「そうですか……私は、美咲からあなたのことを頼まれていました。彼女は、今日……交通事故で亡くなりました」
カウンターに座ったアレクシスに、桂花はノンアルコールのジントニックを出した。
「お話をするのに、酔われてしまうと困りますから」
そう言いながらも、自身はまだ氷の残ったモヒートを飲んでいる。「私はザルなんですよ」と彼女は笑った。
「頼まれたのは、アレクシス・カミーユという人に住所を貸してほしいということと、いつか訪ねたら世話をしてほしいという二点だけです。あなたの素性については何も聞いていません。外国の友人だと、それだけです」
ここを住所にすれば住民税が掛かる場合がある筈だが、それは払わなくていいようにすると言われ、実際に請求書が届いたことは無いという。
「アレクシスさんは……何を知っているんですか?」
「私は……」
知らない部屋で目覚めた時に記憶が無かったことと、側にパスポートと在留カード、免許証、桂花を頼るように書かれたノートがあったことだけを伝える。
「……それは、何か事件の匂いがしますね……」
むう、と桂花は片手を口元に持っていき、もう片方の手でその肘を支える。探偵がしそうなポーズだ。彼女の仕草や見目は、実年齢よりもかなり幼い。
「まあ、うん、分かりました。今日から一緒に住みましょう。BARの控え室があるので、まずはそこに。上の階はちょっと? ごちゃごちゃしていますので……」
「……いいのか?」
「はい。だって、美咲の意志ですから」
にこにことした笑顔で、彼女は答える。
「しかし、私は素性も不明で、男であり……」
アレクシスにも、一応その程度の分別はある。世話をすると言っても、少々資金を貸してもらえれば良いと考えていた。
「私には娘がいます」
それは知っている。
「男も子供もいる女に手を出したいのならご自由に」
余裕のある表情でモヒートを飲む。男がいるというのは彼女の嘘だ。横暴な夫で、七年前に別れて以来会っていないのも知っている。
「止めておこう」
しかし、アレクシスは敢えてそれに乗った。桂花の度胸に感心したからであり、好感を持ったからでもあった。
「私としても、あなたの存在は気になりますから」
桂花は変わらぬ笑顔を浮かべている。そうして、彼女と彼女の娘と――アレクシスの暮らしが始まった。