パラパラと高速で捲られていくページが、ほぼ最終ページで止まる。見開きには、白い花の栞が挟まっている。シロツメクサ、だろうか。紗希は、子供の晴希がこの花で冠を作り、誕生日にプレゼントしてくれたことを思い出した。
「何これ……栞……?」
指で摘み上げると、栞が光った。紗希の脳裏に、晴希の声が響く。高校生の、弟の声が。
“……姉さん……”
「え……晴希……なの……?」
驚きはあった。だが、紗希はそれを自然に受け入れられた。光る栞を通して、弟が話し掛けてきているのだと。
“神谷に謝ってくれてありがとう。偶然だけど、謝る機会が出来て良かった”
声は、彼女の問いに答えずに、ただ、話す。
“姉さん、壮真を許してほしい”
「でも、それは……私は……」
“おれは、自分以外の人の本は読めない。姉さんがどのくらい怒ってくれているのかは分からない。だけど、姉さんはおれの本を読んだよな。悪いのは、壮真じゃない……”
晴希の本には、本来なら追うべきではなかったボールを止めようとした自分が悪かったと書いてあった。壮真が罪を被る必要は無い、とも。
“その本を、壮真に……”
「…………」
拒否する理由は思いつかなかった。開いたままの白い本を弟の仇――友人に持って行く。
「あなたに渡してって……」
本を差し出され、壮真は受け取るのを躊躇った。
「俺に……」
もう随分前のことに感じるが――どちらが本を読むかと問われた時、自らの罪の結果を直視するのが恐ろしくなって紗希に任せてしまった。晴希の本の内容を知るのが目的だったのに、自分如きが彼の内側を覗き読んでもいいのかとも思ってしまった。
「晴希がそれを望んでいるの」
紗希は先程、誰かと話しているようだった。光った栞から、声が聞こえていたのだろう。それはきっと、晴希の声だ。
(晴希……)
本の中で、壮真は責められていなかった。こちらが申し訳なくなる程に、晴希は晴希自身が悪いと思っていた。
「…………」
白い本を手に取ると、何も無かった開いたページの中央から、一枚の栞が現れた。四つ葉のクローバーが透明の素材でラミネート加工されていて、上部に草色の紐が付いている。
「そのページを読んでほしいそうよ」
開かれているのは、最後のページだった。時が進むにつれ、体が衰弱していくのを感じていたこと。動けるようになる日はもう訪れないと察したこと――
意識が希薄になっていく中で、晴希はその場に居ない壮真の顔を思い浮かべていた。最後の時に友人が不在であることが、少し寂しかった。
『壮真、毎日来てくれてありがとう。楽しかった。これからは』
その先が、栞に隠れていて読めなかった。栞を摘んでどかすと、下の文が見えてくる。
『これからは、また』
栞から光が溢れてくる。
“また部活に復帰してほしい”
晴希の声が頭に響く。どこにも居ないのに、彼がすぐ傍に居るような、そんな感覚がある。
“お前には笑って、天下を取ってほしい”
「いいのか……? 晴希は、二度とサッカーが出来ないのに……それに、俺はもうずっと練習してないから……鈍ってるし、もうレギュラーは取れない」
“お前がやりたいことをやってる姿を見ていたんだ。壮真なら大丈夫だ。おれは信じてる”
「……俺なら、大丈夫……」
“たくさん時間を遣ってくれてありがとう。そして、たくさん時間を奪ってしまって……重い十字架を背負わせてしまって……ごめん”
「十字架って……」
ちょっとかっこつけた言い方すんなと笑った時に涙が流れ、本に落ちた。
「あっ……」
慌てて拭おうとして、最後の言葉が目に入る。
『じゃあな』
“じゃあな”
この一言を最後に、栞は光を失った。しかし、消えたのは光だけで、栞自体は残っている。壮真の手にも、紗希の手にも。
「あ、あの、この栞は……」
どうすればいいのかと聞こうとすると、アレクシスは何かを考え込むように、難しい顔をしていた。
□■□■
キオク図書館を出ると、壮真は慧と澪央、アレクシスと別れた。自宅に焼香に来ないかと紗希に誘われ、気後れがあったものの、訪ねることにする。
「あの本を読んで、晴希はあなたが悪いとも、責めてほしいとも思っていないのは分かったわ。弟の意志を尊重して、私もこれ以上は詰ったりしない」
道中で、紗希は壮真にこう話した。
「客観的な観点では、また別の見方があるでしょう。でも、お互いが本気だっただけ……ただ、それだけだったのね」
こちらに顔を向けた紗希は、半年ぶりに微笑みを見せた。
――光沢のある、立派な黒の仏壇に晴希の写真と位牌が置かれている。線香を上げて手を合わせ、正座をしたまま一八〇度向きを変えると、和机を挟んで晴希の両親が座っている。二人共、最後に会った時よりも一回り小さくなったように感じた。萎んでしまった気力の所為かもしれない。壮真は座布団に座り直し、二人に挨拶した。
「ご焼香出来て良かったです。ありがとうございました」
「いや、私こそ……葬式の時は済まなかった。紗希から、君が晴希に、故意にボールをぶつけたと、そう聞いていたんだ」
晴希の父が言い、紗希が身を縮める。
「……壮真君はわざととは言ってなかったのに、そうとしか思えなくって……」
彼女は、栞高校から松浦家に来るまでに、晴希が死んだのは壮真の責任では無いと電話で説明していた。それをどう受け止められたのか、壮真が拒絶されることは無かった。
「お葬式の日に、壮真君が居ないと気付いた監督さんに話は聞いたの。試合中の事故で、あなたは悪くないって……」
晴希の母は、ハンカチで目元を押さえながら話し始める。
「だけどね、あなたが蹴ったボールが原因で晴希が戻ってこなくなったのは事実でしょう」
「はい……その通りです」
だからこそ、壮真も自責と後悔を続けてきた。
「あの時の私には、故意かどうかはね、関係無かったのよ。ただ、許せなかったの」
「はい。……本当に、すみません」
謝ることしか出来なかった。頭を下げる彼に、晴希の父が言葉を繋げる。
「だが、この半年の間、ずっと考えていたんだ。君は、半年間、毎日息子の見舞いに来てくれていた。納骨の後は、墓参りにも……」
「……それを、どうして知って……」
墓参りは壮真が勝手に行っていたことで、松浦家の誰にも伝えていない。場所は、サッカー部の友人に教えてもらった。
「墓を見れば分かるよ。それに、妻が一度目撃していてね……」
視線を向けると、晴希の母は小さく頷いた。
「慌てて帰ってきてしまったの……」
「君が苦しんでいるのは、充分に伝わっていた。その上で、君を許さずに憎み続けるのは正しいのかと、家族とよく話していた。紗希は……そんなことは関係無いと言っていたが、どんな心境の変化があったのか……」
「……実際に話をして、思い直したのよ」
紗希は口を尖らせて顔を背けた。非現実的な世界で晴希の本音を知ったから、とは言えない以上、そう話すしかないだろう。
「そうか。……壮真君」
晴希の父が表情を引き締め、背筋を伸ばす。壮真は慌てて居住まいを正した。
「は、はい」
「……実は、私たちはもうずっと前に君を許していたんだ。晴希の墓参りを続けてくれて、ありがとう」