――暗闇が続く。
人は、何も無い空間に長時間居ると、数日で自我を壊してしまうという。
その点、聴力が無事だったのは幸運だった。音や声が聞こえるだけで、無理なく通常の精神状態が保たれた。
「晴希。晴希は動けるようになるからね。どれだけ時間が掛かっても、動けるようになるから」
この状態になった最初の頃、母が優しく話し掛けてきた。励ましであると同時に、自分に言い聞かせているようでもあった。
(やっぱり、そうなのか)
動けるようになるという繰り返しが、希望は少ないのだと示している。しかし、晴希はショックを受けなかった。既に予感していたことだったからだ。
「……それとも、晴希はこんな生活が続くのは嫌?」
ただ寝てるだけで、暗闇の中に意識だけが残っているだけで、生活と呼べるのだろうか、と思う。けれど、晴希は毎日に苦を感じていなかった。嫌じゃないと伝えたかったが、それは叶わない。
「解放されたかったのなら、ごめんね。もうそれは出来ないの」
母の声には幾つもの感情が含まれていた。言葉通りの謝罪と、若干の後悔と、恐れだ。
(そうか……)
晴希は気付く。
解放――というのは、この場合は死であろう。母は、家族は『延命』をするかしないかの選択を迫られた。それが提示された以上、自分が目覚める可能性は著しく低いのだ。家族が一度延命措置を決めたら、最期の時まで方針は変えられない。動けない中で意識だけが残る現状をどれだけ嫌だと思っても、もう途中で死を選ぶことは不可能なのだ。
しかも、その決定は全て家族が行う。自分の生死を、自分の意思の介在しないところで家族が決める。
そして、松浦家は延命措置を選択した。
だからこその『ごめんね』なのだ。
(俺は殺されなかったのか……)
延命を選ばなかったのなら、晴希は『殺されて』いたのかもしれない。流石にそれは嫌だった。
永遠に生きる屍となるのなら死を望む、という患者がいるのは知っているが、その上で良かった――と晴希は思った。
「私は……私達は……意識が有るかもしれないあなたを殺す勇気が無かった……そんな、恐ろしいこと……それに……」
あなたを失いたくなかったと、母は吐露した。
良いんだよと、ありがとうと言いたかった。
たとえ、このまま動けなくても。
いつかは、動けるようになるかもしれないのだから。
その『いつか』が来た時には、壮真にも謝れる。
お前は悪くない。全部おれが悪かったのだと、自業自得だったのだと、伝えようと。
それが、生きる目的になった。
――壮真は毎日、病室を訪れた。
今日が何日で何曜日で、今は何時で。
学校で何があり、日常生活で何があったのかまで、様々な話をしてくれる。
「今日コンビニに行ったら合計額がスリーセブンだったんだよ。それで……」
サッカーの話を一切しないのは気付いていた。毎日見舞いに来るのだから、部活にも行かなくなったのだろう。
「んじゃ、一限目からな。そろそろ定期テストだから、今日は……」
壮真は、その日の授業内容について報告してくれる。晴希が目覚め、学校に復帰した時に授業についていけるようにと言っていた。
『あ、でも化学だけは姉貴から教わってくれよ。本業だし、俺が話すよりもいいからさ』
冗談めかして話していたのを覚えている。元々あまり成績が良くない彼から聞く“授業”には、きっと足りなかったり間違っている部分があっただろう。それでも、晴希はこの時間を楽しみにしていたし、真面目に”授業”を受けていた。内容は頭の中で反芻し、記憶した。
(学校に行けるようになったら、受験勉強もしないとだしな)
壮真とは良く、大学はスポーツ推薦狙おうぜと話していた。今の状況では、部活に言っていない壮真も含め、二人とも一般受験をするしかない。
“授業”をしている間は、言葉は交わせなくとも、同じ目的に進んでいるようで、心地が良かった。
「来たぞ。今は朝の九時だ」
平日は夕方から数時間しか居られない為、出来なかった科目は休日にやっていた。
「中間テストが全部返ってきたんだ。今日はこの答え合わせも……」
ちなみに、壮真の成績はそこそこ上がったということだった。
――家族が出払っている時に、壮真は「ごめん」と繰り返した。
「ごめんな。俺が感情に任せてボールを蹴ったからだ。あんなのサッカーじゃない。ただの暴力だ。こんなことになって、ごめんじゃ済まないよな……」
あれは暴力だったのだろうか。だとしたら、謝りたくなる気持ちも解らなくはない。
(…………)
逆の立場なら、晴希も謝罪していただろう。
だが――あの時に抱いた激情を覚えているからだろうか、自分でも驚く程、彼の所為だとは思えなかった。
(おれが悪かったんだ。お前が罪を被る必要は無いんだ……)
いくら伝えたくても、その方法が無いのが歯痒かった。暗闇の世界に入ってから、初めて不自由を感じた。
「……なあ、覚えてるか? 中学まで一緒だった、神谷慧ってやつ」
ああ、あの無口な奴か、と顔を思い出す。物怖じするタイプでは無かったが、教室ではとにかく押し黙っていたし、誰とも目を合わせようとしなかった。何を考えているか解らず、苦手だった印象がある。
ただ、一つ後悔しているのは――
「あいつ、ガキの頃、体が痛くなるってよく訴えてたんだよな」
何だそれ。筋肉痛か?
小学校五年の時に転校してきた晴希には初耳だった。
「怒ってる人や怖い人に近付くと、体が痛くなるってよ」
何だそれ。意味分かんねーな。
だから誰とも話さなかったのか? 痛くなるのは怒ってる人が近くに居る時だけなのか?
「マンガでありそうな特殊能力みたいなやつらしいぜ。誰も本気にしなかったんだけどよ……」
壮真の言葉が途切れた。特に立ち上がったり移動したりといった気配はしない。静かになってしばらくして、彼の真面目な声が聞こえる。
「もし嘘じゃなかったら、あいつがここに居たら……晴希が何考えてるのか分かったのかな」
その話が本当だったとしても、晴希が怒っていない以上、慧は何も感じないだろう。
でも、もし会えるなら。
壮真が『あいつ、気味の悪い人形を作ってるんだぜ』と言った時に『夜な夜な動き出すらしいよ』と話を合わせてしまったことを謝りたい。それも壮真に聞いた話で、信じてもいなかったのに。
(あれ、聞こえてたよな。悪かったよな……)