ダイニングテーブルの短辺のそれぞれに、壮真と紗希は座った。余ったもう一つの椅子をアレクシスが使い、慧と澪央はベッドに座る。
紗希は感情の読み取れない無表情で、ページを捲っている。やがてその手が止まり、誰にともなく言う。
「じゃあ、読むわね」
□■□■
放課後の部活練習中、晴希は苛々していた。もっと正しく言うなら、その中に悔しさが混じっていた。
ゴールの前に立つ彼には、グラウンド全体が確認出来た。今日はチームが分かれてしまい、敵側として動く壮真が良く見える。既に変更したポジションでプレイしている為、普段ならもっと近くに居るべき彼が、遠い。
(あいつ、やっぱりセンスあるな)
相棒のサッカーセンスを見せつけられると、気分は高揚し、嬉しくなってしまう。
センターバックという初めての役割でも、ディフェンスの補佐をこなせているように見える。懸念していた守りの弱さを確実にカバーしていて、監督の考えは正しかったのだと分かる。
ただ、それは選手を駒として考えた場合の話だ。壮真には意志がある。あいつの居場所はあそこじゃない。
彼の動きには力が入り過ぎている。隙あれば攻撃に転じようという思いから、守りを完璧にしようとしているからだ。
(壮真も納得はしていない。フォワードに戻りたいと思ってるんだ)
練習前に、廊下で険悪な空気になった時のことを思い出す。
『……たかが部活だ。我を通す程のもんじゃねえ』
監督に直談判するという晴希に激昂した挙句に、壮真は言った。そこには本音の欠片も無かっただろう。
壮真がセンターバックとしての仕事をするものだから、晴希も立っているだけではいられなかった。飛んでくるシュートからゴールを守ることに集中する。
(おれがどんなボールも防げば、守備が緩くても問題ないよな!)
――だから、フォワードに戻ってこいよ。
飛んでくるボールを、次々と捌いていく。普段よりも集中し、並々ならぬ気合が入っていた。
攻撃のチャンスを得た壮真が、邪魔をする選手二人をドリブルで躱す。そして、遂に晴希と壮真は相対した。
壮真が放つ迫力は圧倒的だった。もしかしたら、絶対にゴールを決めて、”俺はここでも攻撃出来る”と証明したかったのかもしれない。
お互いに、『証明』しようとしていた。
相棒をフォワードに戻す為に。
戻らなくても夢は叶えられると示す為に。
壮真が蹴ったボールは強力な威力と速さを纏っていた。シュートが入るかどうか微妙な軌道で、ゴールポストに当たって跳ね返りそうでもあった。だが、一パーセントでも点が入る可能性があるなら、止めないわけにはいかない。
力の限りに飛び上がった結果、勢いそのままのボールが晴希の顔面に激突した。
衝撃で目の前に星が散った。頭が真っ白になっていても、こんな漫画みたいなことが起こるんだと考えていた。両足が土を踏んだ感触があった。バランスを取らないとと思っても、脳と体が連動しない。
何か硬い物が後頭部にぶつかった。重い痛みの中、「松浦!」という監督の声がした。
それが、練習中最後の記憶だった。
意識が戻った時、視界は真っ暗だった。頭に激しい痛みを感じる。
体を動かそうとしたが、出来なかった。どういう状況なのかと思ったら、知らない男性と家族が驚く声がした。
「脳波が動きましたね」
「じゃ、じゃあ……先生……」
別の年配の男性――父の声が震えている。その先の問いは聞こえてこないが、希望の高まりを感じる声だった。
「意識はあるということですね。ただ、目が覚めるかどうかは未知数です」
「それでも、可能性はあるんですよね?」
母の縋るような声がする。泣いているようでもあり、何が起きているか分からないのに心が痛んだ。
「ゼロではない、としか私からは申せませんが……」
「あ、あの、先生……」
いつになく真面目に姉が言う。
「脳波が確認出来たのなら、今の話が晴希に聞こえているんじゃ……?」
「そうとは限りませんが、では、病室を出ましょうか」
スライド式のドアが開く音がして、複数人が部屋――病室らしい――から出ていく気配がする。
訪れた静寂の中で、晴希は聞こえた会話の内容について考え、もう一度、体に力を入れようと試みた。瞼を開けようと、腕や脚を動かそうとするが、全く感覚が無い。
(そうか……)
意識が無くなる前のことを思い出す。自分は、壮真のシュートを止めようとして、結果的に顔で受け止めた。衝撃で周囲が見えなくなっている間に『何か』に後頭部を強打したのだ。
(壮真……)
彼がボールを蹴る前に、はっきりとお互いの表情を見た。言い争いをした後だったが、害意は感じられなかった。あったのは、何かの強い決意だけだ。
第一、本来なら見送るべきだったボールを無理に止めようとしたのは晴希自身だ。
だからだろうか。
壮真に、怒りは感じなかった。
□■□■
白い本を読み上げる、紗希の声が止まった。
「晴希は、事故の責任が壮真君にあるとは考えていなかった……?」
顔を上げた彼女から、向かいの少年が目を逸らす。
「でも、俺は……俺が必要以上に力を込めたのは確かで……それが無ければ、ただ『痛い』で済んだかもしれなくて、そもそも、あんなギリギリの場所に飛んでいくことも無くて……」
「所謂たらればという話だな」
アレクシスが口を挟むが、誰も彼に視線を向けなかった。隣の澪央は、膝の上で組んだ両手を見詰めている。
「過去の出来事は不変だ。渾身の力でボールを蹴ったという部分だけが事実であり、それ以外について問題にする必要は無い」
「だ、だから……だから、俺が悪いんだ。俺のボールの蹴り方が……」
「この場には、松浦晴希も含めて裁判員が何人も居る。自責を続けるかどうかは、彼等の判定を最後まで確認した後で考えれば良い」
「晴希も含め……?」
壮真の目が、開かれたままの本に向けられる。紗希がページを捲り始める気配は無い。
「結局は、それぞれが起きた『事実』をどう捉えるかということだ。当事者がどう考えていたかというのも『事実』に含まれる。だからこそ、この時間に意味が有るわけだ」
彼は皮肉気に笑い、そこでやっと、紗希がのろのろと面を上げた。
「当事者……晴希は、怒っていないって……」
「それを含めて、最終的な答えを出すのはあなた自身だ。怒るか怒らないか、どちらを選ぶかは自由だからな」
紗希の表情が、少し変化したように見えた。抱えていた負が、正を目指し始めたように――
「そうよね。その為にも、まずは最後まで読まないとね」