「そうか……」
『嫌い』と『助けたい』は両立していても不自然ではない――空から雲が取り払われたような心境だった。
「おい、神谷……お前……」
「では、本の場所に案内しよう」
明らかに当惑している壮真の声掛けを断ち切る形で、アレクシスは本棚の間を歩き出した。道幅は広くなく、四人は縦にジグザグとした並びで後を追った。前から三番目を歩く澪央が、後方の慧をちらちらと気にしている。
「……後で話すよ」
「……いいの?」
申し訳無さそうな澪央に頷きを返す。特に抵抗感は感じない。自分の過去の大枠を把握している彼女なら自然に受け止めてくれる気がしたし、何より、話したいという気持ちもあった。
「……ありがとう」
一番前の壮真から醸し出される、”気になる”という色のオーラがこの辺りまで漂ってくる。しかし、それは敢えて無視した。
「この辺りには完結本が並んでいる」
そこで、よく通る声でアレクシスが説明を入れた。
「完結……」
紗希が重みのある声音で呟く。その意味を、誰もが理解していた。永遠に中身が更新されない沢山の本――その間を通っていると、何だか――
「お墓に来ているみたいね」
慧が感じていた感覚を、澪央がそのまま口にした。
「多分……」
立ち止まり、紗希はまた、棚に並ぶ本に指を這わせる。
「ここは本当にお墓なのよ。亡くなった人が眠る、もう一つの場所なんだわ。生きている私達にとっても、忘れていた記憶さえ確認出来るなら、私達の本ですら生前墓のような……」
「……俺達の記憶も、確認出来る……?」
何かが引っ掛かったらしく、壮真は片眉を上げる。そこで、アレクシスが軽い声を出した。
「ああ、忘れていたな」
付いてくる四人を振り返り、彼はその手に鮮やかな緑の本と赤い本を出現させた。
「藤原壮真と松浦紗希の本だ。この図書館に対する疑惑の大方は消えただろうが、本の中身がどんなものなのかは不明のままだろう。まずは自分の本を開いてみるといい」
「良いわね。興味あるわ」
紗希は躊躇いなく赤い本を取り上げた。一方、壮真は恐る恐るという仕草で鮮やかな緑の本を掴み取った。やけに真剣な面持ちでページを捲り始める。
手持ち無沙汰になった慧は、棚に並ぶ本を眺め遣る。目に映る限り、どの本にも『完結』と書いている。ここはお墓だという紗希の言葉を思い出し、薄ら寒くなる。
「厚みが随分違うのね……」
本棚を見詰める澪央は哀し気で、厚みの差の理由を、説明される前から察しているようだった。
「…………」
言葉の重みを感じて、慧は何も言えなかった。彼女の横顔を見ていると、心が締め付けられるような気になる。
「何か勘違いをしているようだが、長生きしていても薄い本で終わる者もいる」
近くまで来たアレクシスが、二人の後方に立って本棚を見上げている。
「え?」
澪央は本棚から目を離し、意外そうに彼を見る。
「本の厚みは、人生の長さや経験の違いによるもので決まる。平凡に一生を過ごした人は、波乱万丈な人生を送った人よりも書くことが少ない」
「平凡だと、本が薄くなるのか」
そういう考えをしたことが無かった為、慧は驚いた。早くに人生を閉じたのだろうと思い込んでいた。
「本が薄い方が幸せであったと、そういう側面もあるということだ。あまり悲観的に考える必要は無い」
「そう……」
もう一度、澪央は本棚を見上げる。先程よりも表情が柔らかくなった気がする。
「とはいえ、中には単に早逝した者もいる。それは非常に残念なことだな」
「おい」
フォローしに来てから落とすな、とつい突っ込みを入れた矢先、アレクシスは下から二段目から白い本を引き出した。お世辞にも厚みがあるとは現せない。
「『彼』のような場合だな」
管理者は、『自分の本』を開いている壮真と紗希に声を掛ける。
「人生伝が本物だと納得出来たか?」
「人生伝……。ええ。これは……間違いないわね」
紗希は微妙な顔をしてから、赤い本を差し出した。空いた方の手で受け取られたそれは、空中で消失する。
「…………」
壮真はテストで難しい問題に当たった時のような顔をして黙っていたが、やがてゆっくりと本を閉じ、アレクシスに返した。
「では、松浦晴希の本だが……」
白い本が示される。
「……?」
慧は不思議な気分になった。表紙の紙質は他と変わらないが、何故か違いがあるように見える。マシュマロでコーティングされているような――いや、夏の空に浮かぶ入道雲のような――
「……サッカーのゴールポストみたいな色だな」
壮真が言った。白というのは、見る者によって抱く印象が違うのかもしれない。
「どちらが読むかは二人で決めるが良い。希望する方に渡そう」
「え、二人とも本が読めるの? 彼も……?」
澪央は片眉を顰めて壮真を見る。アレクシスは何かを隠していそうな怪しい笑みを浮かべ、それを肯定した。
「今回は二人とも読める。私が保証しよう」
「そ、そうなの……」
何故とは訊かず、澪央は引き下がった。管理者は白い本を関係者の二人に突きつける。
「さあ、どちらが本を開く?」
「…………」
「…………」
牽制するように、紗希は隣を睨んでいた。しかし、壮真は震える手を本に伸ばした。白い本は、晴希の友人の手に渡った。
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背表紙だけではない。表紙にも金文字で『松浦春希』と書かれている。相変わらず震えている手で、壮真は前のページをそろそろと捲った。
『今日も勝ったな、壮真!』
『ああ、しっかり守ってくれた晴希のおかげだぜ!』
『壮真のシュートが決まったからだろ、これからもガンガン行こうぜ!』
中学に入った頃の、一年だけで練習試合をさせてもらった時の会話だ。俺達二人は最強だと信じて疑わず、毎日が楽しかった。
他のページも捲り……
しばらく読み込んでから、耐えられなくなった彼は紗希に本を差し出した。
「あの時からのことは……紗希さんが、読んでください」
「あら、譲ってくれるのね」
紗希は少し挑発めいた笑みを向けてくる。後ろめたさから、壮真は気後れを感じた。
「俺には、とても……読む勇気が、ありません」
「そう。了解」
あっさりと、紗希は白い本を取り上げた。だが、その顔には隠し切れない緊張が見て取れた。
「決まったようだな」
アレクシスが踵を返し、元の場所へ戻っていく。その先には、図書館らしい閲覧場所が用意されていた。