時間が止まってしまったように、紗希はファイルの束を抱えて動かない。壮真も棒立ちになっている。
「……まさか、私に会いに来たの?」
先に硬直が解けたのは、紗希だった。その顔にはあからさまな嫌悪が浮かんでいる。
「違う。これは偶然で……」
狼狽えた声を出した壮真が慧の方を振り返る。助けを求めるような顔だったが、一瞬後、それは疑いの目になった。
「……もしかして、図書館に行くっていうのは嘘で、俺を紗希さんに会わせる為に……いや」
彼は激しく首を振った。抱きかけていた何かが抜けると共に、脱力する。
「椎名さんもいるのに、そんなこと出来ないか……今日は土曜日だしな」
先刻に慧が言った台詞を自分で呟く。出勤している確証が持てないのに、妙な画策は出来ない。壮真は紗希に向き直ると、下向き加減になって覇気の無い調子で言った。
「違います。俺も、会う気は無かったです。神谷達に連れてこられて……」
こちらを伺うように束の間だけ慧達を見て、目を戻す。
「晴希について分かるって、あの……」
そこで、言葉は尻すぼみになった。もう一度振り向いた彼は困り切っているようだった。まだ完全に信じられない異空間の話をするのは抵抗がある、と顔に書いてある。
「何が分かるっていうの? 晴希は栞高校と無縁だったわ。去年だって文化祭は見に来るって言ってたのに……」
悔しさを滲ませ、紗希は言う。抑えていた怒りが今にも決壊しそうに思えた。
「そ、それは……」
壮真は未だに言い淀んでいる。慧は溜息を飲み込んだ。彼女は晴希の姉であり、今回の件の関係者だ。このまま誤魔化していい相手ではない。
「屋上から、キオク図書館という場所に行けます。そこの本には、一人一人の経験が全て書かれています。つまり、死者の記憶も読めるということです」
「死者の記憶……?」
紗希は思い切り眉を顰めた。直斗と出会う日の授業中、彼女に指名された時のことを思い出す。
『友達が出来たのは祝福すべきことよ。でも、授業中にスマホは程々にね』
少し妖艶に、そして少しお茶目に、彼女は囁いてくれた。その時の面影は消え失せている。
「俺はそこの管理者と連絡が取れるので、案内してもらうように頼みました。屋上で待ち合わせをしています」
「屋上に図書館……?」
「本当です。私も何度も入っています。白い空間に本棚がどこまでも並んでいて、人の名前がタイトルになった本があるんです」
澪央も一緒に説得してくれる。慧に向けて小さく頷き、更に言った。
「亡くなった方の本もあります。それを読めば……」
「……晴希が何を考えていたのか、分かるかもしれない……」
難しい顔をして紗希はそのまま黙り込み、次に口を開くまでに数十秒の時間が掛かった。
「屋上が、その変な場所に繋がってるのね?」
「というか……管理者が、屋上からキオク図書館に通じるドアを開けてくれるんです」
「そう。じゃあ、私も行くわ」
慧が答えると、紗希は同行を申し出た。
「信じてくれたんですか?」
一応訊いてみると、彼女は苦笑いを返してくる。
「階段を上るだけだから、確認に手間は掛からないでしょ。それを見逃す愚を犯す気は無いの」
屋上への道すがらにアレクシスにメッセージを送ると、これから行くという返答が来た。
「まだ来てないの? 待ち合わせてたんでしょう」
内心は穏やかではないだろうが、紗希は普段と同じように振舞っている。
「その人は、図書館を通って屋上に来れるんです。もう待っていると思いますよ」
他にどう説明して良いか分からなかった。紗希は、どこか引きつる声で「そ、そう……」とだけ言う。だが、気を取り直すのも早かった。
「そうだ、あなた達、何で私服なの? 休みの日でも、学校に来る時はちゃんと制服に着替えてね?」
「す、すみません……。元々は登校の予定が無くて……」
澪央は素直に謝るが、慧は一言物申したくなった。
「先生だって私服じゃないですか」
「教師には制服が無いから良いのよ」
「それにしたって、派手……」
屋上のドア前まで辿り着き、先頭の慧がそれを開ける。
「随分と遅かったな」
「色々あったんだよ」
ふてぶてしい笑顔で迎えたアレクシスに渋面を作る。全員が階段を上りきってコンクリートの上に立つと、彼は早速仕切り始めた。
「私は今回、ここに至るまでの事情を何も知らないのだが……」
喫茶店で連絡してから、相当の時間が経っている。暇だったのか、彼はしっかりと身支度をしていた。茶色のスリーピースのスーツを着こなしている。中のベストはベージュのチェック模様で、澪央の服装と色合いの類似が多い。ふと彼女を見ると、自分の格好をあちこちと見直し、嫌そうな顔をしている。
「慧は、死者の本音を知りたいという、この二人の助けになりたいと思ったわけだな。松浦晴希の人生伝を読むことで、藤原君達が救われればいいと」
「それは……そうだな」
確かに、慧は壮真の心にある引っ掛かりを解消出来ればと考えていた。事故後の晴希の本音が『負』なのか『正』なのかは分からない。だが、それを知ることで壮真が前に進めるような気がしたのだ。
「そう、思ってる」
同時に――例えれば、煙草を吸っている未成年を庇っているような感覚を抱いてもいた。過去の自分を裏切っているような、そんな――
「それなら問題無い」
慧の答えを聞き、アレクシスは何か知らないが満足そうだ。
「さて。私は今回このドアを開けない。その役割は慧に譲ろう」
「な……俺がやっても、図書館に通じるかどうか分からないだろ」
この男は何を考えているのか。彼の笑みから読み取れるものは無い。
「それを実験するわけだ。さあ、やってみろ」
「…………」
仕方なくドアの前に立つ。この金髪男は何を考えているのか、澪央の時も直斗の時も、慧は図書館に“招かれた”のだろうと言っていた。招かれる基準は判っていない。
ノブを握って回し、ドアを引き開ける。その先には――キオク図書館が広がっていた。
「え、階段は……?」
紗希が唖然とした声を出した。小走りに近付いてきて、パンプスを履いた足が図書館の地を踏む。
「壁が見当たらない空間……沢山の本棚……本当に……」
彼女は、寸分の隙間も無く収納されている本の背表紙をなぞっていく。
「人の、名前……ここに、晴希が居るの……?」
「さて、入るか」
「そうね、ほら、行きましょう」
アレクシスに続き、澪央も壮真を促して中に入っていく。驚き過ぎたのか常になく呆けた状態のまま、中学までの同級生は彼女を追う。
最後に慧が進入し、背後のドアが消えると管理者は言った。
「慧への『招待』は、慧が誰かを『助けたい』と思い、それに図書館が同意した時に発動する――私はそう考えている」
「……図書館が俺の考えを肯定してるって言いたいのか? アレクシス、お前……読んだな?」
気が付いて、つい恨めし気な目になってしまう。喫茶店で彼に連絡した時、壮真の名字も松浦晴希の名も出さなかった。慧の本を読んだからこそ、知っている。そして、慧が自身の行動に何を思っているのかも把握している。
「図書館は慧の助けたいという考えを『正』だと判断した」
直接的には何も答えず、アレクシスは笑みを深めた。忌々しくもあったが、その通りだろうとも思ってしまう。
「苦手な……ここは敢えて『嫌い』と言おうか。嫌いな相手に手を差し伸べてはいけないというルールは無い」
そこは、敢えて言う必要はあるのだろうか。
「苦手、嫌い……?」
話を耳にし、呆けた状態から復帰した壮真が怪訝そうにする。想像もしていなかったという顔だ。
「つまり、助けたいという本音を否定する必要は無い、ということだ」