『神谷ドール』の前に立っている澪央を前に、慧の心に動揺が走った。
見られてしまった。
どうしてここに。
澪央も人形を、気持ち悪いと感じるのだろうか。それは嫌だ――と強く思う。
『本』を読めば、とまた咄嗟に考える。そもそも、俺は彼女の本を開けるようになったのだろうか。人形を見られたことで、僅かに開いた『本』も閉じてしまったのではないか。
「……椎名」
「あ、神谷君」
人形達から目を逸らす気配が無かった澪央が、慧の方に意識を向けた。今日はブラウン系の、随分と可愛らしい服装をしている。シンプルなTシャツの上からチェックのジャンパースカートを着て、その紐が肩口が大きく開いたオーバーサイズのセーターから見えていた。頭にはベレー帽が乗っている。
「その人は……友達、じゃないわよね。お客様?」
「どっちでもない。ちょっと……キオク図書館に行くことになって」
友達の可能性を最初から考えていない彼女には、どこか清々しささえ感じる。だが、壮真を案内すると伝えるのには多少の後ろめたさを覚えた。
「図書館に……?」
案の定、澪央は怪訝そうにする。そのままの顔で壮真を見遣り、慧に目を戻す。
「図書館に行かなきゃいけない理由が出来たの? 何かあったの?」
「あ、ああ、ええと……」
それを自分の口から話すのは躊躇われた。言い淀んでいると、澪央はその理由に気付いたようだった。
「そ、そうよね。とても個人的な話なのよね。ごめんなさい」
慌てて謝ってから、肩を窄める。足元を見る表情には、何となく元気が無い。
「べ、別に話してもいいぜ」
突然、上擦った声がした。斜め後ろに立つ壮真が、そっぽを向いている。ツンデレが素直になれない時のような顔をしていた。
「いいのか?」
慧が確認すると、彼は陰のある真顔に戻った。
「学校の連中は知ってることだ。一人や二人増えたところで変わりゃしない」
そして、どこか抵抗を含んだ調子で澪央に訊く。
「あんた、その……キオク図書館とか何とかいうやつを、知ってんのか?」
「え、ええ……知ってるわ」
「入ったことは?」
「あ、あるわ……」
質問を畳み掛けられ、澪央は若干のたじろぎを見せた。少しずつ後ろに下がっていく。彼女の警戒は気にせず、壮真は真剣な顔で「そうか……」と言った。
「じゃあ、図書館とやらはマジであるのかもしれねえな」
「あなた、信じてないのについてきたの?」
澪央が不快そうに眉を上げる。
「まだ信じ切れない……が、信じたいと思ってる。それで俺の望みが叶うなら、チャンスは逃したくない」
慧は複雑な気分になった。信じるどうこうの部分ではなく、壮真が真摯な発言をすることに。罪を抱えて変わったのか、変化したのは一部分だけで、本質は以前と同じなのか。
電気が体を走る痛みがある。それは微細なもので、墓地で会った時よりも明らかに軽減している。
入院後の晴希の心情を知る手段がある――そう思えただけで、これだけ『負』が軽くなるのか。
「……そう。余程のことがあったのね」
表情を改めて、澪央は壮真に相対していた。
「本当に良いなら事情を聞くけど……キオク図書館に行くのよね。何処から?」
「何処から?」
壮真が疑問の声を上げるが、聞かなかったことにする。
「いつもの屋上からだ。ここからなら一番近い」
「そうね……。私も行っていい?」
澪央の目は元同級生に向けられていた。先の会話に複雑そうな表情になっていた彼は、またそっぽを向いた。
「理由を話していいっつってる時点でそのつもりだったよ」
栞高校へ行く道すがら、壮真は澪央と自己紹介を済ませ、自分が晴希に何をしたのかを簡潔に話した。慧はそれを背後で聞き、二人の空気が重くなっていくのをただ見ていた。
「そう。それで、晴希さんの本を読めば彼の真実が分かるって……うん。きっと、正しい図書館の利用方法だと思う。でも……こんなこと、初対面の私に話して本当に良かったの?」
「何か、あんたは信用出来る気がしたし、わけ分かんねえ場所を知ってるって言うから……心強いだろ」
壮真はそれきり沈黙し、澪央も口を閉ざしてしまった。校門を通過すると、運動部が活動していた。テニス部も練習をしていたが、グラウンドではサッカー部が右へ左へと走り回っている。
「早く行こうぜ」
背を向けて先を行く壮真の後を、慧は澪央と横並びで歩く。世間話の振りをして、さりげなさを装って彼女に訊ねる。
「そういえば、さっきは何でうちの前に居たんだ?」
「あ、うん。メッセージ送っておいたんだけど、見てない?」
「え?」
スマートフォンを出すと、通知が来ていた。送信時刻は、壮真を案内しようとアレクシスに連絡した後だった。
『用事があって近くまで来たんだけど、お店まで行ってもいい?』
と書いてある。
「悪い。気がつかなかった」
「ううん、私もいきなりごめんね。会えて良かった」
澪央は微笑み、壮真の後を付いていく。
「私服で学校に来るのって、ドキドキするね」
校舎の中は静かだった。スリッパを履いた壮真は、緊張を顔に貼り付けている。
「栞高校か……」
ここがどうかしたのかと思った直後、慧は彼の懸念が何なのかを悟った。
「松浦先生か」
壮真は無言だったが、それが答えだった。晴希の姉の名は松浦紗希――同姓同名の教師がこの学校で働いている。
「今日は土曜日だ。休んでるだろ」
「……だといいけどな」
その後は会話も生まれず、黙々と屋上へ向かう。職員室の近くに差し掛かった時、前方の引き戸が開いた。中から白衣を着た女性教師が出てくる。白衣の下には、薄いピンクのキャミソールに前が広く開いた赤いセーターを着ている。下はダメージジーンズだ。
「紗希さん……」
壮真を見た彼女の顔が強張った。
「どうして、この学校に居るの……?」