「椎名、今日休んで大丈夫なのか?」
「大丈夫じゃないけど……仕方ないでしょ。授業を受けてる場合じゃないもの」
澪央と男子生徒の会話が僅かに聞こえる。
「……!」
二人の背中を見続けていた雫は、弾かれたように自席に戻った。鞄を掴み、教室を飛び出そうと――したら担任が入ってくる。三十代の男性教師だ。
「おい望月、何処に行くんだ」
「体調が悪いので帰ります!」
真正面から堂々と言い切り、担任の前を横断する。
「そ、そうか……」
最早見送るしかないらしい彼の声を流し聞きし、廊下に出る。澪央達は上の階に向かっていた。
(上に何の用だろう……)
そう考えた瞬間、『鍵、よろしくね』という自分の声が脳裏に響く。急いで図書室に行くと、戸は開かなかった。
「望月さん、どうしたの?」
突然、横から声がした。司書でもある国語教師が廊下を歩いてくる。
「もう始業時刻は過ぎてるわよ?」
「あ、あの……昨日の帰り、鍵をしたか自信が無くて。でも、大丈夫でした」
「ああ、そういう時あるわよね」
教師は鍵を使って戸を開けた。柴犬のキーホルダーが付いていて、昨日直斗に預けたもので間違いない。
(鍵もちゃんと返してる……)
安堵して息を吐く。あの時、まともに顔を見なくても、直斗が呆然としているのは感じ取れた。澪央達の様子から、良くない何か――具体的には分からないが――が起きているのかと不安になった。だが、それは杞憂だったのかもしれない。
少なくとも、昨夜は任された仕事を放棄しないだけの思考力があったのだ。
でも――今は?
「望月さん?」
「あ、すみません、失礼します」
雫は急いで階段を下りて昇降口に向かった。二年C組の靴箱から、『椎名』と紙札を探して蓋を開ける。ローファーは入ったままだった。
(まだ校舎に居るんだ)
休むと言っていた以上、いつかはここに来る筈だ。待ち伏せして、話を聞こう。
「いつ呼んでもちゃんと来るよな。バイトって何をしてるんだ?」
「それは秘密だ」
会話が聞こえてきて慌てて身を潜めると、洒落た格好をした金髪の青年と男子生徒、澪央が姿を見せた。
(……誰?)
青年は手に持っていた革靴を落として足を突っ込む。
「黒崎君の心は、殆ど無になっている。本にも記述されないくらいにな。だが、家に居るのは確認出来ているし、昨夜に事を起こさなかったのなら危険性も低いだろう」
コト? 危険性?
彼は何を言っているのだろう。話が見えない。
――そういえば。
数日前の放課後に屋上から飛び降りようとした生徒がいたらしいが――
(……まさかね)
浮かんできた可能性を打ち消そうと小さく頭を振る。
「昨日は本を広げたままにしていたが、黒崎君に危ない動きは無かった。その気は無いと考えていい」
「でも、いつ心変わりするか分からないだろ。なるべく早く本人と話をしないと」
「ふむ。対話は大事だからな」
「ていうか、昨日黒崎が振られたならすぐに教えてくれよ」
「本を見ていた限り、緊急性は低いと考えた。第一、振られた直後――しかも夜に家に押しかけられたくはないだろう」
「……それは、そうか……」
「私もあの頃、夜に家に来られたら怒ってたかも……」
「そ、そうか……」
男子生徒は幾分たじろいでいるようだった。あの頃とはどの頃だろう。そして、何より――
(何の話をしてるの……?)
本、というのが良く理解出来ない。彼は、何を見ていたのだろうか――
□■□■
『黒崎』の表札の前に立ち、慧は呼び鈴を押した。二度目の訪問だからか、あまり抵抗も無かった。
(二回目は緊張しないって本当なんだな……)
良く聞く話ではあったが、実感するのは初めてだ。玄関ドアが開くと、綺麗な女性が出てきた。黒く艶のある髪を丸く纏め、エプロンをつけている。飾り気の無い服装だが、上品な雰囲気を持っている。
老婆が出て来ると思っていた慧は動揺した。
「はい?」
「あの、いや、ええと……」
「直斗さんは居ますか? 私達、高校の知人です」
驚いている間に、澪央が後を継いで挨拶をしてくれる。
「ああ、お母さんが言ってた……」
女性――直斗の母は、不覚を取った慧を揶揄うように笑っていたアレクシスを見た。三人の中で一番特徴的で、老婆から聞いていた話と一致しやすかったからだろう。
「ごめんなさい。息子は出掛けてるの」
「えっ、居ないんですか?」
澪央は不安そうな顔になった。慧も顰め面になりかけたが、直斗の母の前であることを考えて平静を装った。何を思って外出したのかが気に掛かる。
「あの、直斗君はどんな様子でしたか? 最近元気が無くて、今日も休んでいたので……」
「それが……」
慧の言葉に、直斗の母は目を伏せる。
「昨日、帰ってきてからおかしくて……ずっと暗い顔をしてて、殆ど喋らないし。部屋に籠ってる時間が長くて」
今日も学校に行かないということで心配になって、念の為に仕事を休んだと彼女は言った。
「そうですか……。ありがとうございます」
澪央がお礼と共に頭を下げる。
「いいえ、わざわざ来てくれてありがとう」
玄関が閉じると、三人は家から距離を取った。慧は遠慮無く顔を顰める。
「黒崎は出掛けてるのか」
「やっぱり、変なことを考えてるんじゃ……」
「アレクシスの言うことも当てにならないからな」
澪央は落ち着かない様子だった。直斗の部屋で話した時のことを思い出した慧の台詞に、「失礼な」という言葉が返ってくる。不本意そうながらそれ以上の反論はしないで、アレクシスは言った。
「キオク図書館で本を確認するしかないだろうな」
「……それしかないか」
「黒崎君の家から入る。人通りの無い今が好機だろう」
アレクシスは黒崎家に戻り、躊躇無くドアを開けた。その先にはキオク図書館が広がっている。澪央が焦った声を出す。
「えっ、ちょっと!」
「家人からはドアが閉まっているようにしか見えない。安心しろ」
「そ、そうなんだ……」
周囲を気にしつつ澪央は管理者の後を追う。慧が最後に中に入ると、背後の白いドアが消失した。
□■□■
「え、え……?」
他家の塀に隠れて様子を伺っていた雫は、あまりの光景に混乱していた。
アレクシスと呼ばれた金髪男が黒崎家のドアを開けると、中は明らかに『住居』ではなく、彼等が話していた通り――『図書館』だった。白い空間からは、淡い光が漏れているようにも見える。
「な、何。何なの……?」
三人が直斗の家に入ったとは思えない。あの、変な空間に消えたのだ。
待っていても、彼等が戻って来る気配は無い。そのうちに、混乱も収まってきた。
「黒崎君に元気が無いのは、私の所為だよね……。でも……」
直斗は何処に行ったのだろう。三人の話に所々出てくる不穏な言葉も気に掛かる。
「やっぱり、屋上で飛び降りようとした生徒って……」
屋上の柵の外に直斗が立っている様を想像して、雫は身震いした。
「本当に……?」
だとしたら、昨日のうちに実行しているのではないかという気もする。だが、一晩を過ごして色々考えた後に決意して、というのも有り得なくはない。
「……探さなきゃ」
学校だろうか。でも、学校には行きたくないと言っていたらしい。結局、彼が普段通いそうな場所を探すしかない――
雫は明日香に、学校で何か騒ぎがあったら教えてほしいとメールをした。その時、画面に表示された通知に気付く。
「あ……」