直斗の色白の肌が紅潮している。慧達の戸惑った空気には気付いていないか、気にする余裕が無いようだ。
「あ、もうお茶がないね。入れてくるね」
お盆を持って立ち上がり、彼は部屋を出て行った。
「……望月雫って……」
「彼女、よね。だけど……」
慧と澪央が顔を見合わせていると、アレクシスが野次馬的な笑みを浮かべる。
「あの顔色の変化を見るに、彼女に関してはそこそこ本気のようだな」
「悠長なことを言ってる場合じゃないぞ」
小声で話すと、澪央も小声で返してくる。心持ち、身を乗り出している。
「話せないわよね。彼女の『負』については」
「話せないし、信じてもらえないだろ」
良い情報ならともかく、本当の想い人が直斗を嫌悪していて特殊能力で分かった、と言って信じる者はいないだろう。
「うん。むしろ、怒りそう……」
「少なくとも、今のタイミングで言うべきじゃない」
けれど――と、慧は思う。雫から受けた『負』の大きさは単なる“嫌い”の範疇ではなかった。好きだと伝えた後に何が起きるかを想像すると、暗澹たる気分になる。
「お待たせ」
お盆を持った直斗が戻ってくる。お茶に加え、切った羊羹が添えられている。
「おばあちゃんが持っていけって」
彼が座り直したところで、アレクシスが唐突に話し出した。
「さて、望月雫だが、彼女は君を」
「あ、アレクシス! ちょっと……」
慌てて止めると、彼は存外素直に口を閉ざした。直斗はきょとんとして慧達を見ている。
「あ、あのね、少し話してたの。望月さんは、黒崎君をどう思ってるのかなって。彼女側の気持ちも大事だから」
あまり誤魔化しになっていないが、澪央が言い繕う。直斗は肩を落として下を向いた。
「望月さんは最近、僕と話す時だけ不機嫌になるんだ。棘々してるっていうか。何か、怒ってるんだと思う……うん、だから、付き合ってほしいなんて、怖くて言えなかったんだ」
「な、なるほど、それで他の女子に声を掛けてたわけか」
嫌われていると察していたのなら、それも無理からぬことだろう。
「そう……なるのかな。椎名さんに言われたような、後から後悔するとかは、全然考えてなかった」
「……黒崎君は、望月さんとの未来を諦めていたのね……」
澪央は気落ちしているようだった。声に元気が無く、釣られて室内全体の空気も重くなる。きっと、彼女の言う通りなのだろう。
「しかし、本当にそれで良いのか? 望月 雫が何故怒っているのか、本人と話してはいないのだろう?」
アレクシスが真面目な調子で言った。珍しいなと思って目を遣ると、羊羹に手を伸ばして半分齧っている。やはり、どこか呑気だ。
「話すのが怖いというなら、本人に訊かずとも知る方法がある」
残り半分の羊羹を口に入れて立ち上がり、「……?」と彼の動きを追う直斗に得意気な笑みを向ける。そうして、部屋のドアを開けた。
「えっ……えっ!?」
自宅の廊下が消え、その先にキオク図書館が広がっている様を前に、直斗は片膝立ちになって驚いていた。混乱しているのが見て取れる。
慧は頭を抱えたい気持ちになった。実際に額に手を当てていると、澪央が怒りを含ませた声を出す。
「アレクシス……」
「説明だけで信じられる事象ではないからな。さあ、黒崎君。案内しよう」
「あ、え、でも……」
「心配しなくても、ここは天国でも地獄でも無い。考えように因っては似たようなものだが」
「…………」
図書館に引き寄せられるように、直斗は歩き出す。靴下履きの足が白い空間に踏み込んだところで、慧も諦めて後を追った。
ベッドとテーブルの在る場所に直には行かず、アレクシスは本の背表紙に挟まれた道を歩いている。図書館についての説明をしながら頻繁に角を曲がり、見失ったらいつもの場所に戻れるか自信が無い。
「人の人生が記録されている図書館……」
「これが君の本だ。取って開いてみるがいい」
五分程歩いた後に足を止め、棚に入ったままの本の背表紙に軽く触れる。
「あ、黒なんだ……」
直斗は人差し指で本を引き出し、背表紙に書かれた名前や、表と裏をじっくりと眺めていた。中を開いて読み始める。
「こ、これって……」
驚きに満ちた声を漏らす直斗に、アレクシスは話し出す。水を得た魚のようだ。
「君の人生伝が存在するように、望月 雫の人生伝も存在する。それを読めば、彼女の本心が全て判り、恐れるものは無くなる」
「人生伝……?」
直斗は怪訝そうにその単語を繰り返す。何となく、センスに疑問を持った発言に聞こえる。
「これが、そうだ」
アレクシスが薄い茶色の本を空中に出現させ、キャッチした。背表紙を直斗――を含めた全員に見せる。
「アレクシス……黒崎は望月に不機嫌な態度を取られるから、怖くて告白出来なかったと言ってたろ。その理由に因っては、また……」
だから雫の『負』については話さないと相談したのにこの男は、と思ってしまう。
「問題無い。この空間であれば自殺は出来ない。飛び降りる場所も、刃物も、紐の類も無いからな。仮に取り乱しても抑える係が三人も居る」
「そういう問題じゃないだろ」
「そうじゃなくて、生きたくないって思わせないようにするのが大事で……」
「それは、彼に対して甘いのではないか?」
慧と澪央が詰め寄ると、アレクシスはいつもの笑みでそう言った。
「全ての情報を与えた上で本人がどうするか考える選択肢が必要だ。情報を隠したまま、自分の都合の良いように彼を動かそうとするのは救いと言えるのか?」
「…………」
そこまで言われると、反論し難い。確かに、慧達が出来るのはサポートであり、目的の為に全てを教えずに、傷つけないようにしようとするのは流れを操ろうとする行為なのかもしれない。
「全ては、彼次第だ」
「……そう、そうよね……」
澪央も納得したようだった。後方で三人が佇む前で、直斗は『黒崎 直斗』の本を両手で持ち、見下ろしたまま動かなかった。本が本物であることは、充分に理解した筈だが――
やがて、直斗は三人と向き合った。
「アレクシスさん、椎名さん、か、か……」
「神谷だ」
「神谷さん。僕は、彼女の本は読みません。何か、ズルい気がするし。本が真実なのだとしても、読むのはアレクシスさんなんだよね。それは……人から又聞きで伝えられた噂みたいで、気持ち良くないから」
心なしか、直斗の顔がすっきりしているように見える。それでいて、泣きそうであるようにも感じた。
見ている方の胸が痛くなるような、顔だった。
「皆さんの話、聞こえました。そうですよね。僕が決めなくちゃいけませんよね」
「決めるって……どうするの?」
一歩前に出て訊ねる澪央に、直斗は言った。
「振られるつもりで、告白してみます」