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第1話 告り過ぎた男

(あの時の顔……あれは……)

 午後の授業中に、慧は澪央の笑顔を思い出していた。文化祭初日の帰り道に一瞬だけ見たあれは――会ったばかりの頃の人形のような笑顔だった。

(まだ何か、解消されてない気掛かりがあるのか?)

 白いチョークの文字で埋められていく黒板を見ながら難しい顔をしていると、机の中のスマートフォンが振動した。密かに画面を見ると、最近入れたアプリの通知だった。アレクシスからのメッセージだ。短い文で、タップしなくても全て読める。『今日の放課後に屋上に来い』とあった。

『いやだ。帰る』

 直ぐに既読がついた。

『家に居ても暗い部屋で人形を作っているだけだろう。いいから来い』

 一応商売なのだから、だけ、ではないのだが、言い合うのも面倒であり何より授業中の為、『分かった』と送信した。

 一応澪央に連絡しておこうと、リストから彼女を選び、文字を打とうとしたところで――

「神谷君」

 指名された。結構な美人の、二十代後半のスタイルが良い教師が黒板を指している。松浦という名字の、化学の担当だ。

「この問題を前に出て解いてみて」

「あ、はい」

 慌てて立ち上がって、黒板の前に立つ。チョークを持って答えを書いていると、教師が耳元に囁いてくる。

「友達が出来たのは祝福すべきことよ。でも、授業中にスマホは程々にね」

「はい、すみません……」


「それは慧が悪いのであり、私は悪くないな。私は即レスしろとは強要していない」

「そうであっても、抗議の一つくらいしたくなるだろ。お前の所為で注意されたって」

 放課後の屋上にて、慧は授業中の出来事を話していた。澪央は口元に手を当てて笑っている。結局、次の休み時間にメッセージを送って連絡を取ることに成功した。

「それで、何の用で呼んだんだ?」

「ああ。キオク図書館に追加で家具を入れた。君達も毎回立ったままでは不便だろう」

「家具? 椅子とかか?」

「まあ、見れば分かる」

 アレクシスはどこか得意気だ。高揚しているようでもある。もっと重要な用かと思っていたが、自慢したかっただけらしい。

「私は、もう図書館を利用しないと思うし……家具とか、興味無いかな」

「俺も別に。入る機会があった時に見ればいい」

 困ったように首を傾げる澪央に続き、慧はアレクシスに背を向ける。その時、屋上のドアが勢い良く開いた。

 走り込んできた誰かが、慧の前を通り過ぎる。全力疾走と思われる速度の煽りを受けたのか偶然にも風が吹いたのか、前髪が揺れる。

「……!」

 同時に、全身を『負』の痛みが襲った。今まで受けた最大の『負』を超えるものではないが、動けなくなる。咄嗟に振り返ると、澪央ははっとした顔をしていた。走り出す彼女に、アレクシスも続く。

(何だ……? あっ!)

 二人の行く先で、男子生徒が屋上の柵を乗り越え、落ちかけている。

「何してるの!?」

 澪央が足を掴み、引っ張った。

「は、離せ! はな……」


 男子生徒の動きが止まった。はっきりと顔が見える。

(ん……?)

 記憶の片隅で、何かが引っ掛かる。澪央から「あ……」と声が漏れた。手から力が抜ける。ずり落ちかけた足をアレクシスが掴み、慧も遅れて加勢に入った。暴れる生徒の腰を掴んで安全な側に引っ張る。

「僕は、僕は……!」

 校舎の下から、何人かが見上げてざわついている。完全に柵の内側まで引き戻し、手を離す。男子生徒は唇を震わせている。前髪が長過ぎて、それ以上の表情は分からない。

「なあ、お前……」

「……!」

 話し掛けた瞬間、彼は立ち上がり、逃げるように屋上から去っていく。

 思考が追い付かず、閉じたドアを見詰め続ける。澪央とアレクシスも同様のようだった。

「今のは……」

「二年E組の、黒崎直斗くろさきなおと君……」

 何処かで見たことがある、と言おうとしたら、澪央が小さな声で名を告げた。心なしか、顔が青白い。

「……前に告白されて、断ったから、覚えてる……」

「あ、ああ……」

 どう返せば良いのか分からず、気まずい空気が流れる。

「と、兎に角、追い掛けないとまずいんじゃないか。またどっかでやらかすんじゃ……」

 あの『負』の量は尋常では無かった。慧は急いで屋上のドアを開ける。その先には――

 キオク図書館が広がっていた。

「…………」

「私は何もしていないぞ」

 恨めし気な目を向けるが、アレクシスは平然としていた。

「そもそも、私が行き先を選べるのはドアノブを握ってからだ。それをしたのは慧だろう」

「じゃあ……」

「また“招かれた”な」

 キオク図書館唯一の管理人は、口角を上げて白い空間に入っていく。

「まあ、ついでに家具も見て行くがいい」

 嬉々とされているのが悔しい気もしたが、仕方が無い。図書館に片足を踏み入れ、動く気配の無い澪央を振り返る。

「入るか?」

「……うん」

 彼女は何かを考え込んでいるようだった。図書館に入り、背後のドアが消失すると、顔を上げる。

「図書館に招かれるのって、神谷君だけなんだよね?」

「そうだな。椎名が単独で入れるかどうかは試してないから分からないけど……」

「椎名君は入れないだろうな」

 黒い本を手にしたアレクシスが割り込んでくる。

「今ここに居られるのは、慧が導いているからだ。図書館に認められた者の許可が無いと入れない。人生伝を読みたいと願っても、君の意思でドアが開くことはないだろうな」

「そうなんだ……」

 澪央は眉間を寄せ、まだ何かを考えているようだったが、やがて速足で本棚で作られた道を歩いていく。彼女を追う形でベッドがある場所まで行くと、ダイニングテーブルが新設されていた。座面と背凭れが柔らかい型の椅子が三脚置かれている。

「少しは図書館らしくなっただろう」

 間違いなく気のせいなのだが、アレクシスの鼻が高くなっているように見える。

「ああ、まあ……確かに」

 そこは認めざるを得なかった。ベッドが無ければ尚良しだ。

「これ、私……好きかも」

 澪央はほんのりと、控え目に微笑む。本当に好みであるのが伺える。嬉しそうに椅子に座り、テーブルの中央に在る鉢植えにそっと触る。

「でも、どうしてこれは造花なの?」

「取り替える手間を省いただけだ。ここで流れる時間は外と同様であり、外から持ち込んだ花は枯れていくからな」

 そうして、アレクシスは改めて『黒い本』を掲げる。

「この図書館に在る本――紙や、本棚は別だが。これらは経年劣化しない。故に本が黄ばむこともない。そもそも、材質が何なのかも判らない」

「…………」

 図書館に沈黙が落ちる。澪央が少し不安そうにして、ブレザーの上から両腕を擦った。ここがどんな存在であれ、慧はそこまで気にはならない。しかし、得体の知れないものに対する居心地の悪さだけが心に残った。

「それはそうと、当座の問題はこの『黒崎 直斗』という少年についてだな。彼と関わると決め、本を開くか?」

 新しい椅子に座り、アレクシスが本の背表紙を見せてくる。その問いに対する躊躇いは無い。

「開くよ。その為に来たんだから」

 澪央の隣の椅子に座り、管理者と向き合う。

「私は……」

 迷いを含んだ声が、隣から聞こえた。窓が無く、外の音が存在しない空間で、文字通り物音一つしない静寂の中で、彼女の答えを待った。

「キオク図書館の本に救われなかった、とは言えない。……だから、本を開くことも、必要だと思う」

「……ふむ、そうか」

 アレクシスは無感動に言うと、本を開いた。

「では、一番気になる部分から確認するか」

「……彼が今、何処で、何をしているかということ」

 軽い調子の管理者とは違って、澪央の声は固かった。慧は「そうだな」と同意する。

 ページが最後まで捲られる。アレクシスの視線が、右から左へと移動する。

「黒崎 直斗は家に帰っている。早まった行動は取っていない」

 隣で大きく息が吐かれる。安心したのか、彼女から力が抜けたのが分かった。

「それで、彼は一言で表すと――」

 適当にページを戻して捲りながら、アレクシスは――彼女をちらりと見て、言った。


「『告り過ぎた男』だな」


 少女の肩が、ぴくりと動いた。

「え……?」

 一瞬の驚きの後に、安堵の顔が『負』を湛えたものになる。

 左腕に、弾けるような痛みを連続して感じる。

 澪央は――今まで飲み込んできた感情が滲み出し、耐えられなくなったような、怒りにも似た表情をしていた。


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