夕方、その日の作業が終わって帰路に着くと、慧が今朝と同じ場所に立って缶コーヒーを飲んでいた。何故かアレクシスの姿もある。無視して通り過ぎようとすると、慧が自転車に乗ってあっという間に接近してきた。
「神谷君……」
澪央はびくりと両肩を揺らし、反射的に距離を取る。
「今は問題無い。大体、椎名の『負』はそこそこ離れていても思い切り感じるんだ。あそこで食らってなければ安心していい」
慧は自動販売機を親指で示す。
「そうなの……? でも……」
『負』を受けるのはランダムと言っていた。今はまだ能力が発動していないだけかもしれない。
「慧の痛みは一時的なもので、体に長期的な影響は無い。遠慮しないで『負』をぶつけてやればいい」
アレクシスがしたり顔で近付いてくる。他人事だからか好き勝手に言っている感じがした。「サド」という言葉が頭に浮かぶ。「おいこら」と慧が抗議した。
「何であなたに分かるの? 違ったらどうするのよ!」
「私は慧の本を全部読んだからな」
「ん? 全部?」
慧が眉を顰めてアレクシスを見る。初耳だったらしく、少し嫌そうだった。
「選ばれし者の本だ。どんな鍵が在ってもおかしくはない」
キオク図書館という非現実的な存在の管理者と名乗る胡散臭い男は、笑みを潜めて静かに言った。慧は口を閉ざし、何か不本意そうな顔をしてから澪央に向き直った。
「なあ、椎名、キオク図書館に行かないか? 読んで貰いたい本が有るんだ。朝からずっと、それを伝えたくて……」
「本……? 私は、本は……」
読まれたくないから、読みたくない。何度も伝えてきたから慧も把握している筈だ。
「読むと言っても自分で読むわけじゃない。必要な個所をアレクシスに読ませるだけだ」
「…………」
それなら、本の著者のプライベートな部分には触れずに済むかもしれない。
廊下で転んだ時、心配してくれた皆の顔を思い出す。自分の想像と乖離した彼、彼女達の反応に、何を考えているか知りたい、と強く思った。慧が読んで貰いたいという本が『誰』のなのかは知らないが――
澪央の心に、本の中身への興味が生まれる。
(でも……)
黙っていると、慧は言葉を繋げた。
「本を読むことで確実に分かることがある。読まなければ、ずっと悩んでしまうことでも。……あの図書館は、必要とする誰かに本を読ませる為に在るんじゃないかと思うんだ」
「本を、読ませる為……?」
「そうじゃないと、あんな場所が在る意味が分からない」
澪央は何も答えられなかった。それは、本心では読みたいと望む自分に対して許可を出す為の詭弁に思えた。
アレクシスを見る。本を否定していたのは彼への反抗心からだ。もし、彼が澪央の本を読んでいなかったら。
――私だって、読んでみたい――
「椎名。俺が知って欲しいと思ってるのは、二年C組の生徒達の本の内容だ。そこには、きっとお前が知りたかったことが書いてある」
「C組……神谷君は、確認したの……?」
慧は頷いた。つまり、クラスメイト達の本の内容を知った上で、読んでも良いと判断したのだ。それなら――
「……分かった。行く」
そこまで恐れなくても良いのかもしれない。
学校に戻り、案内されたのは屋上だった。
「どの部屋からでも行けるが、目撃の危険があるからな」
秋の風が吹く中、アレクシスは屋上から校舎に戻る為のドアを開ける。その先には、白い世界が広がっていた。
慧が先に中に入る。上靴は、確実に床を踏んでいる。目の前の世界は、幻では無いらしい。
「キオク、図書館……本当に……」
そう、ここは――確かに図書館としか呼べなかった。
間違いなく、人智を超える存在だった。導かれるように足を踏み入れ、本棚の間を通って黒いベッドの傍まで行く。その上には、様々な色の本が無造作に置いてあった。表紙に文字は書かれていない。
「さて、適当に読んでいくか」
最後にこの空間に入ったアレクシスが、一冊を選ぶ。オレンジ色の表紙だった。
「『澪央ちゃんはいつも優しくて、笑顔で、一緒にいると嬉しい。誇らしいとも思うけど、だからかな。ちょっと距離を感じる時がある。澪央ちゃんは自分の話を殆どしない。もっと仲良くなりたい』」
黄色の本を開く。
「『ちゃんとした友達になるにはどうしたら良いんだろう。あたしが勇気を出した方が良いのかな。澪央ちゃんの好き嫌いが分からない。嫌なことを言ったらどうしようって、当たり障りのない話しか出来なくって』」
アレクシスは次々と違う色の本を開いていく。『今日転んだのは驚いたけど』『椎名さんに何かあった時には手助けしたい』――
「……ほ、本当に、皆はそう思ってるの……? あなたの作り話じゃないって言い切れる?」
目頭から温かいものが流れてくる。けれど、アレクシスが――そして慧が作ったシナリオかもしれないという疑念が頭の片隅に燻っている。
自分で本を開けないのだから、管理者は幾らでも読んだ振りが可能なのだ。
「本当だとは証明出来ない。でも、信じてほしい。誰もお前に、完璧なんか求めてない。安心してくれ」
切実な面持ちで慧が言う。彼とは違い、アレクシスは真剣味もなく飄々としていた。
「私の捏造かそうではないかは、本人達に訊いてみるしかないな。両親と話せたのだから、友とも話せるだろう。大して変わらん」
ベッドに置かれた数多の本を見詰める。そうだろうか。今朝感じたあの絶望がただの思い違いから来るもので、友人達に本当の自分を出すことも、出来るのだろうか――
「結局は君が、人を信じられるかどうか。それだけだ」
「…………」
澪央は沢山の本の中から、オレンジ色の本を選んで手に取った。十数年の人生を歩んできた少女の本にはそれなりの厚さと重みが在った。いつも明るく一緒に居てくれる友達の笑顔が思い浮かぶ。
「……私が、人を信じられるかどうか……」
その夜は、あまり眠れなかった。
翌日、緊張しながら澪央が登校すると、オレンジ色のエプロンドレスを着た少女が話し掛けてきた。
「澪央ちゃん、カフェの衣装届いたよ! どう? 可愛い?」
「うん、可愛いよ。すごく似合ってる」
「やった! ……あれ、澪央ちゃん、ちょっと元気無い?」
「え? あーうん……そうかも」
「えっ! えええっ!?」
彼女が大きな声を出すと、何事かと皆が集まってくる。
「元気無いの?」「どうしたんだ?」「もしかして昨日の……」「やっぱりどこか怪我してたの?」
矢継ぎ早に質問を飛ばしてくる。どうしても心配そうにしている皆の表情に注目してしまう。これは本音なのか、違うのか。
そう思っていたら、教室の中央にいた黄色のエプロンドレス姿の少女が皆に呼び掛けた。
「もー、皆! そりゃ澪央ちゃんだって調子出ない時だってあるよ! ねえ?」
「あ、ちょっと寝不足で……」
この一言を告げるだけでも心臓が早鐘を打つ。だが、皆が安堵したのが伝わってくる。
「そうか、寝不足かー」「良かったー」「保健室で寝てくる?」「無理しない方が良いよ?」
誰も非難して来ない。優等生なら自己管理をしなきゃとか、誰も言ってこない。
(……私、体調不良になっても良いんだ)
拍子抜けしたような気分になった。
――結局、私が人を信じていなかっただけ。居もしない偶像を作って、仮想敵を恐れていただけ。
「うん。ちょっと寝てくるね。ね、皆……」
今度は、そこまで緊張しなかった。穏やかな気持ちが溢れてくる。
「私……今までずっと無理してた。私、本当はそんなに完璧じゃない。今日からは、少し力を抜いていこうと思う。皆と本音で話したい」
「うん、当たり前だよ! もっともっと仲良くなろうね!」
オレンジ色の――不知火 陽真が太陽みたいな笑顔を浮かべる。
黄色の――浅川 美月が嬉しそうに言う。
「いっぱい本音で話そうね! ずっとそうしたいと思ってたんだ」
「陽真ちゃん、美月ちゃん……」
アレクシスが読んだ本の内容を思い出し、澪央は微笑んだ。
「これからも、よろしくね」