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第8話 希望からの絶望、拒絶と救い

 久しぶりにゆっくりと睡眠を取り、朝になってキッチンに行くと、完成したお弁当が置かれていた。シンプルでいて可愛さのある布で包まれている。

(あ……)

 心の中に温かいものが広がっていく。昨日までの自分だったら、腹を立てていただろう。

「澪央、起きたの?」

 そこに、ひょっこりと母が顔を出した。「……うん」と答え、お弁当を取り上げる。静かに佇む母に、澪央は淡く微笑んだ。

「これ、ありがとう」


 作り笑顔ではない本当の笑顔で朝を過ごせた。

 もう大丈夫だと思った。

 ――けれど、それは思い違いだった。


  □■□■


 慧は、通学路の途中で自転車を止めて澪央が来るのを待っていた。また朝に呼び出されている可能性も考えて早くからここに居たが、彼女はまだ現れない。

 缶コーヒーを少量ずつ飲みながら、校門に吸い込まれていく生徒達を眺める。距離を取ってはいても、体に不快な痛みがある。

 ふと思う。別人がこの能力を持っていたら、自分は痛みを感じさせる側になっていたのだろうか。『負』を抱えて通学路を歩いていたのだろうか。

(……そうはならないか)

 自分が抱えているのは『負』ではなく『無』だ。周りが無関心なことに、慧も無関心になってしまった。『無』は痛みを感じない。

「痛っ……!」

 その時、全身が激しい痛みに襲われた。缶コーヒーが落ちて、中身が地面に広がっていく。今までで一番強い痛みだ。それこそ、澪央が発する『負』よりも――

(な、何だ……!?)

 頭痛も酷く、視界が揺れる。その先に、友人達と談笑しながら歩く澪央の姿が在った。

「し、椎名……!」

 彼女の本を最後に確認したのは、昨日図書館に入った時だ。つまり、午前の授業中までしか確認していない。別れてから何かあったのだろうか。まさか、両親に『失望』されたのか。声が耳に入ったのか、少女と目が合う。

 覚束ない足取りで近付くと、澪央は顔を曇らせた。調

「どうしたの? どこか悪いの?」

 さすがに眉を顰めていた友人達に、彼女は言う。

「先に行っててくれるかな。救急車を呼ばないといけないかも……後は、私がやるから」

「う、うん、分かった!」

 友人達が校舎に走っていくと、澪央は慧の片腕を自分の肩に掛けて歩き出した。

「椎名……」

「ごめん……ごめんなさい。とにかく、こっちに……」

 小さくか細い声がする。責任感の強い優等生の顔には似合わない、本当の声が。

 路地裏に入ると、彼女の仮面がはらりと剥がれた。

「ごめんなさい、私……私、駄目だった。もう大丈夫だと思ったのに……体は? まだ痛い?」

 慧は黙って首を振った。痛みの名残は有るが、能力は治まってくれたようだ。

「何があったんだ? 両親とは話せたのか?」

 こくんと頷き、澪央は昨日の夜から今朝のことを話してくれた。

「嬉しかった。解放されたと思った。それで気付いたの。私は望んで完璧を作っていたんじゃないんだって。これからは私らしくなれるのかなって……」

「だったら、何で……」

「駄目だった」

 澪央の瞳から光彩が消える。その奥に深い闇が見える。

「十年以上よ。十年以上も、あらゆる人の前で演じてきたの。顔も名前も知らないような人の前でも……。バスに乗るとね、勝手に背筋が伸びるの。勝手に、限界まで所作を気にしちゃうの」

 家で少し力を抜けるようになっても、外に出たら駄目だったのだと、彼女は言った。

「誰もがね、私を知っているような気がする。雑誌で顔を見たあの子だって。無理を止めたら、途端に後ろ指をさされる気がする。友達の前でも……心が凍るの」

 涙を流しながら、笑う。

「自分でも、ここまで拗れてると思わなかった。神谷君が言ってた通り、私は他人を信用してないんだわ。本当の私なんて見せられない。自由になんてなれない」

 ――絶望。

 これは、絶望の涙だ。希望を持ったからこそ、それを打ち砕かれた時の絶望は深い。只の鎖が、底なし沼に堕ちていく。

「神谷君、もう私に近付かないで。関わらないで。それ以外の方法で、私はあなたを守れない」

「今更そんなこと出来るか。なあ椎名、お前の友達は……」

「私はもう、あなたと話さない」

 澪央は袖で涙を拭いて、路地裏から逃げるように走っていった。


 路地裏から出て、零れた茶色の液体を視界に入れながら、新しい缶コーヒーを買ってプルトップを開ける。自動販売機の近くに座り、澪央との会話を反芻する。そして昨日のキオク図書館での出来事を思い出す。

 あの時、アレクシスはまず彼女の本を出現させた。

「一応訊くが、椎名君の友人達の名前は判るか? 友人程ではない同級生でも良いが」

「……いや、全然」

「そうだろうな」

「……今の訊く必要あったか?」

 慧が渋面を作る前で、管理者は『椎名 澪央』の本を捲っていく。

「最初はこの二人にするか」

 本を開いたまま、新たにオレンジ色の本を出してベッドに放る。次に黄色の本を出した。慧は、澪央の本を閉じようとしたアレクシスを制止する。

「ちょっと待ってくれ。椎名は今どうしてる?」

「知りたいのか」

「そりゃあ……」

 良い別れ方ではなかっただけに、気になった。アレクシスは本を読まずに閉じて、からかうような笑みを浮かべてこちらに渡してきた。

「開くかどうか試してみたらどうだ」

「…………」

 数秒迷ってから、右手で表紙側を、左手で裏表紙側を持ち、それぞれ逆方向に力を込める。真ん中辺りから一センチ程だけ、本が開いた。

「駄目だ。これ以上は開かない」

 返された本を、アレクシスは「まだまだだな」と言いながら開き、内容を教えてくれた。

「平然と授業を受けているが、かなり疲れているようだな。放課後までは何も起きないだろう」

「そうか……」

 この時が、澪央の本を確認した最後だった。そしていよいよ、オレンジ色の本を開く。

「高校に入ってからだから、後ろの方だな」

 ページを捲っていたアレクシスは、手を止めて朗読を始めた。

「『椎名澪央ちゃんと友達になった。理想の女の子すぎて、話すことは無いだろうなと思っていたら席が近くて、一緒に話すようになった』」

 出会いから現在まで、順に辿っていった。やがて、日々感じていることを一通り読み、本を置いた。

「やっぱり、こんなものだよな」

「次に、彼女のを読んでみるか」

 黄色の本も読んでいく。明るい雰囲気の、今時の子という感じだった。

「……明日、椎名にこの話をしてみる」

「ああ。他の生徒も見てみるか?」

「そうだな。二人だけじゃ少ないかも」

 アレクシスの部屋から飲食物を持ち込みつつ、澪央の教室――二年C組のクラスメイトの本をランダムに読み進めていった。

 その内容は――


 都立栞高等学校は、今日から文化祭の準備期間に入っていた。飾り付けや屋台の設置等で校門前から賑やかだ。授業は無くなり、時間の区切りも昼休みの前後くらいで、堂々と遅刻しても校内の空気に溶け込める。

 二年A組の出し物は『吸血鬼の館』で、トマトジュースやトマト料理、にんにく料理を出すことになっている。慧は吸血鬼の衣装で廊下に立って案内板を持つ予定だ。ただ居るだけで黙っていて良いらしい。

 教室に行くと、学級委員の男子が近寄ってきた。

「神谷君、今日も休むのかと思ってたよ」

「ああ、何か体調悪かったんだけど、もう良くなったから」

 嘘は一切、吐いていない。

「そっか。じゃあ看板作るの手伝ってくれるかな。そういうの得意だよね」

「え?」

「ほら、美術の授業で結構上手な絵を描いてるよね」

「そ、そういうことか。意外と見てるんだな」

「そりゃあまあ。じゃあよろしく」

 学級委員は作業に戻っていく。自分が人形を作っていると知られているのかと動揺したが、違っていて安心した。

 看板作りは廊下の近くで行っていた。ジャージ姿の女子が頬を膨らませている。

「もう。一人でやる羽目になるとこだったよ。こっちの左半分をお願い!」

「分かった」

 下書きが終わっている看板に、色を付けていく。教室の横幅全てを使う、大きなものだ。

 普段は交流していなくても普通に会話をするのは、向けられている感情が『無関心』だからだ。イベントは平和にやりたいという動機から無難に話すようになる。『嫌悪』を持たれていたらこうはならないが。

「…………」

 小学、中学時代が脳裏を掠める。その時、開け放したままの出入口の向こうに、廊下を歩く澪央を見つけた。様々な備品が入った段ボール箱を抱えている。

「あっ、椎名……」

 慌てて廊下に出て声を掛けるが、彼女は何の反応も無く通り過ぎる。

「あれ? 椎名さんがスルーするなんて珍しいね。神谷君何かやった?」

 背後まで見に来た相方の女子生徒が言う。澪央の肩が、ぴくりと動いた。


     ****


(やっちゃった……)

 二年A組の女子生徒の言葉が耳に入り、平静を装いながらも澪央は慧への対応を後悔した。つい、本心に従ってしまった。あそこは笑顔で立ち止まるべきだった。

 そこで自己嫌悪する。今も結局、慧のことなど考えていない。気になるのは、自分の評価だけ。そう思うと、心は昏く、どこまでも堕ちていく。

 廊下を歩いていても、皆の視線が過剰に気になる。肌がピリピリする。

(ピリピリ……?)

 慧の能力の由来は、これと同じようなものなのだろうか。痛みのレベルは段違いに違うようだが――

 というか。

(神谷君、クラスの子達と上手くやってるんじゃない……)

 友達は居ないと言っていたのに。

「……あっ!」

 そんなことを考えていたら、廊下に立ててあったベニヤ板に足を引っかけてバランスを崩す。床には工具類の詰まった薄い箱が置かれている。段ボールを抱えていて、手を使っての防御は出来ない。

「……っ!」

 工具類の上に、肩から倒れた。大きな音が廊下に響く。

「えっ……」

 誰かの驚く声がする。信じられない事態を見たという声だ。誰もが『椎名 澪央が転ぶなんて有り得ない』と思っている。そんな空気が広がっていくのを感じる。

 時間が止まったかのような錯覚を起こす。常にざわつき、忙しなかった廊下が静まり返っている。

 近くから、複数のドアが開く音が聞こえる。生徒達が出てくる。音と声が、戻ってくる。

(あ……っ!)

 恥ずかしいと思っている余裕は無かった。一気に血の気が引いて、寒気がした。精神的なショックで視界が揺れる。

(ど、どうしよう、どうしよう……)

 このままでは、今までに築いてきた『椎名 澪央』のイメージが崩れてしまう。絶対に転んではいけなかった。すぐにリカバリーしないと――どうやって?

 とにかく立たなきゃ。立た――

「大丈夫か!?」

 慧の声がした。一クラスを挟んだ位置から駆け寄ってくる。

「う、うん……」

 左手で体を支え、緩慢な動作ながらやっと起き上がる。そこで、棒立ちになっていた目撃者達がはっとした顔をした。

「椎名さん!」

「立てないの!?」

「ちょっと……怪我は!?」

「保健室に行こう!」

 誰もが心配そうに、慌てたように、集まってくる。表情や声から、本当に心配しているのが分かる。彼女達は今、澪央のことしか考えていない。

「ねえ、担架持ってきて!」

「ご、ごめん、俺がこんな所に工具を置きっ放しにしたから……」

「ホントだよ! 廊下は狭いんだからね!」

 皆、忙しい筈なのに、作業に戻る生徒は一人もいない。

(……こんな……こんな無様な姿を見せたのに、心配してくれるの……?)

 呆然としてしまって、動けない。早く笑って「平気だよ。びっくりさせてごめんね」と言わなきゃいけないのに。

 少し離れた場所で、慧がやれやれというように笑っていた。

“ほら、大丈夫なんだよ”

 と、そう言われた気がした。


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