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第7話 人生が存在しない男/両親との対話

 皆が教室に収まった今、校舎内を歩いていても誰とも会うことはなかった。授業をする教師の声だけが耳に届く。クラスの前を通ると窓越しに姿が見えてしまうので、なるべく特別教室前の廊下を通るようにする。それでもバレそうな時は身を屈めた。

「なかなかスリルがあって愉しいな」

「しゃべるなよ。バレる」

 欠席を気にされなかろうが連絡される両親が居なかろうが、授業に出ずに校内に部外者を入れている現場は見られないに越したことはない。

 屋上に続く階段に辿り着き、後は上るだけとなったところで、やっと体の力を抜いた。

「なあ、椎名が気にし過ぎなのは間違いないだろうけどさ、あいつのクラスメイト達は、そんなに完璧を求めてんのかな」

 次期生徒会長の打診をされていた場面を思い出す。本当に大きな期待が掛かっているのなら、澪央が無理を止めた途端に見放されるという事態も起こり得るのだろうか。

「知りたいのなら彼等の本を読めばいい。屋上へは図書館とのルートを作りに行くのだから、ついでに中に入れば良いだけだ」

 淡々としたアレクシスの言葉に、慧は複雑な気分になった。

「また人の本を読むのか……」

 自分の本が読まれたことについて、澪央はかなり怒っていた。誰にでも秘密の一つや二つはある。それを無断で覗かれたのだから当然だ。

「不可解だな。何故そんなに本を読むのを躊躇する? 倫理観とかいうやつか? 人生が書かれた本――言い難いから人生伝とでも言うか。人生伝ほど面白い読み物は無い。慧も、本音では興味が有る筈だ」

「……でも、アレクシスだって自分の本は読まれたくないだろ?」

 自身が管理者で、その心配が無いからこそ余裕を見せられるのではないか。

「いや、私は読まれたい」

「え?」

「読む本が在るなら、の話だがな」

「……どういうことだ?」

 意味が分からなかったが、何か不穏な空気を感じる。

 屋上へのドア前まで来た。外に出て数歩進むと、背後でドアが強く閉められた音がした。

「私の人生伝は存在しない」

「存在しない?」

 振り返ると、アレクシスは真面目な面持ちで立っていた。その瞳には、昏い何かが宿っているように思えた。

「幾ら呼び出そうとしても、私の本は手元に現れない。免許証には『アレクシス・カミーユ』とあり、その名前の本は在れど、私の本は無い。だから在るのなら読みたいし、読んで欲しいくらいだ」

「でも、お前は……」

 自嘲めいた表情のアレクシスを前に、慧は思う。

「前に、図書館で『人類全ての人生を記録した本が所蔵されている』と言ったじゃないか」

「ああ、言ったな」

 彼は表情はそのままに、口角だけを僅かに上げた。

「だから、出来れば慧に、私の人生伝を探して貰いたい。キオク図書館に選ばれた君なら、見つけられるかもしれない。本が在れば、だが」

 アレクシスは慧に背を見せ、屋上のドアと向き合った。

「さて、キオク図書館に行くか。慧が初めて来た時と同じように」

 彼はドアを押し開ける。その先には、白い空間が広がっていた。

「ああ、そうだ」

 後を着いていく慧に、前を向いたままアレクシスが言う。

「慧は私と一緒に居て、一度も『負』を感じたことがないだろう?」

「あ、ああ……」

 確かに、そのことには気付いていた。だから、彼と居る時は気が楽だった。

「それは、私が『負』の感情を持っていないからじゃない。私の『負』は、椎名君のに匹敵するかもしれないし、それ以上かもしれない」

 低い声でそこまで言うと、アレクシスはいつも通りのふてぶてしい態度になってこちらを見た。

「さて、椎名君の同級生の本を読むか」


□■□■


 椎名家の食卓は、朗らかな空気で満ちていた。母の作った色とりどりの夕食を家族三人揃って食べる。父は有名企業に勤めているが、夕飯の時間までには帰ってくる。食事の後は自室で仕事をしているようで、本来なら残業すべきなのだろう。

「澪央、明日のお弁当のおかず、この中からどれか入れる? ほら、これとか」

 母はアスパラと紅生姜を薄焼き卵で巻いたものを手で示す。指差したり、箸で指すということはしない。

「彩りに良いんじゃない?」

「うん、そうだね、ありがとう」

 澪央は屈託の無い笑顔を浮かべる。そこには、素直で明るい高校二年生の姿があった。実際は、朝の疲労に加えて授業で体育もあり、放課後には文化祭実行委員の仕事もあった為、相当疲れていた。正直、あれから慧と顔を合わせなかったのはかなり助かった。

 素の肌は荒れ気味で、こっそり持ち歩いている化粧品でナチュラルメイクをして誤魔化している。最近は少し、目の下に隈があった。

「お弁当のことは考えなくていいのに。私が朝作るから」

 友達には、全て自分で作っていると話している。本当は母の品も有り、嘘を吐いている事実がいつも心苦しかった。

(嘘なんて、他にもいっぱい吐いてるのに)

 自身が嘘の塊みたいなものだと思う。だが、曖昧模糊とした『演技』よりも明確な嘘の方が心は痛い。

 内心を隠し、澪央は気楽そうな笑顔で食事を続ける。

「澪央の趣味がお弁当作りなのは承知しているけれど、あれだけ可愛く作るのは大変でしょう? お母さんも少しは手伝いたいのよ」

 お節介だと言われても、子供に楽をさせてあげたいじゃない? と、母は照れ笑いを浮かべた。

「美味しくなかったなら、仕方無いけれど……」

「ううん! お母さんの料理はいつも美味しいよ」

 明るく笑って言いながら、母の言葉が頭の片隅で引っ掛かる。『楽をさせてあげたい』――別に初めて聞くわけではない。良く言う台詞だが今まで気に留めなかった。

 上辺だけの会話をして、母の気持ちを考えなかった今までは。

「ね、ねえ、お母さん……」

 声が震える。箸を置く手も震えている。緊張で頭がパンクしそうだった。『ご両親は――――本当に望んでいるのか?』という慧の声が、『なら、私が読んでやろう』というアレクシスの声がする。

 ――私は、本の力は借りない。

「どうしたの? 体調が悪いの?」

「無理しないでもう休んだ方が良いんじゃないか? 食事はもう残しておいて」

 母と父が心配そうな声を掛けてくる。今度は、父の言葉が引っ掛かった。

「休んで……良いの? 私、まだ明日の予習してないし、ご飯を残すなんて……」

「勿論だよ。具合が良くないのに無理する必要はない。暖かくして休みなさい」

「え、え……」

 心の中で何かが崩れていく。混乱していく片隅で少しだけ残っていた理性が囁く。

 今、訊かなきゃ。

「お母さん、お父さん、私、私、もう頑張るのを止めたいの。テストで一番取ったり、モデルの仕事で皆が望む私を完璧に再現したり、そういうことを、もう、止めたいの。どう、思う……?」

 二人の顔は見られなかった。怖くて、俯いて、テーブルの木目をひたすらに見詰める。

「良いんじゃないか? 止めても」

 思わず、顔を上げた。父は穏やかな笑みを浮かべている。自分とは違う、嘘には見えない笑顔。

「え、でも、お父さんは努力して、ずっと優等生で、それで今の会社に……」

「と言っても、俺は結構遊んでたしなあ。勉強も苦じゃなかったから続けられたんだよ」

 ぽかんとする澪央の前で、父は椅子に背を預けて姿勢を崩した。

「不良がたまたま勉強出来ただけの話だ。澪央は友達とも遊ばないで、ずっと張り詰めた様子で心配していたが……」

「え……」

 父は、無理をしていると見抜いていたのか。

「澪央がそうでありたいと思うなら、頑張れば良いと思っていた。だけど、それが苦痛だと思うなら止めればいい。予習なんてしないでさっさと寝ろ」

 驚き過ぎて、何も言えなかった。中途半端に口が開いているのを自覚する。手の震えは止まっていた。

「ねえ澪央」

 母が優しく笑い、少し身を乗り出してくる。

「ここ最近、ずっとメイクしてるでしょう。お洒落の為じゃなくて、肌荒れを隠す為よね。自然に見えるように研究したのよね」

「知ってたの……?」

 母の指が瞼の下にそっと触れる。親指でファンデーションが拭われる。

「あなたより三十年は長く化粧品と付き合ってるの。見れば分かるわ」

 体の位置を戻し、母は微笑む。

「ね、澪央。私達が望むのはあなたの幸せだけなのよ」

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